twitterでつぶやいたことをここにも引きうつしておく。
超常現象に限った話題ではないが、なんとか簡潔にまとめられたと思ったので。
(以下、つぶやき)
「ダメだからいい」、「C級だから面白い」というのは90年代からではなく、すでに70年代後半からあったサブカル内での評価。それと、「現在リリースされているものを何でもクサす」というスタンスというのは、ペアでも何でもない。それはそういう人だから。(続く)
(続き)いわゆるモンド感覚と、「作品の正統的評価」とは対(つい)でも何でもない。ここを勘違いしている人が多い。それと、「著作を読みもしないで適当なことを書いて……」と批判する人が、自分は批判対象の著作をたいして読んでない。(続く)
(続き)なお、モンド的感性を「逆に」「あえて」という感覚にまで広げると、それは「スカした」ファッション文化につながっていく。つまり、「モンド」が「スカした文化」へのカウンターであるにしろ、「スカした文化」も、それなりの基準で「逆に」「あえて」という感性で勝負した部分は(続く)
(続き)ある。さらに言えば、正当な評価基準で文章を書いている人だって、ファーストガンダムの主題歌は変だと思ってるし、昔の特撮ヒーローの背中にチャックが見えることにツッコミを入れることもある。「ツッコミ」と「モンド」は同一ではないが、「モンド」が「作品全体へのツッコミ」なの(続く)
だから、それは地続きである。また、「モンド的感性」でツッコミを入れている人が、「現状の作品に対して正当な評価をまったくしない」ということを、私は聞いたことがない。実際、そういう人はいないと思う。また、ある時代を代表する作品が徹底的に否定された場合、それがどんな政治的な(続く)
(続き)判断でなされようと、必ず歴史的意味がある。「好きな作品をけなされたから気に食わない」のではなく、むしろ状況としての意味を読みとらなければ、単に「評論家サマの御託宣」を聞くだけの存在になってしまうではないか。
「空飛ぶ冷やし中華」(1977)が「料理として単体でクローズアップされなかったものに『あえて』注目する」という、日本のモンド的感性の嚆矢だったはず。しかしそのことに激怒した人間がいたか? たぶんいない。モンド的感性というのはあくまで在野精神というか野党精神の産物であって、(続く)
(続き)「モンドだからこそそれが王道だ」などといった極論を自分は聞いたことが一度もないのだが。「モンド的感性」を異常に憎む人というものの心理がよく理解できん。あびる優が段ボール盗んだということに激怒するタイプの人なんだろうか? なお、私自身がモンド的作品評価に関して(続く)
(続き)気を付けていることは、本気でどうしようもない作品は、取り上げない。「ヘタクソでひどいねーギャハハ」なんてやったこと、ほとんどないと思う。私が「ツッコミ」入りでマイナス評価の書評を書いたのは、最近ではつのだじろうの心霊ものくらい。だがマジメに書きましたよ。
(続く)あ、もちろん「政治的な理由で否定」というのは言論の上で、ですよ。念のため。
私が言いたいのは、ひと口で「(広義の)モンド」と言っても評者の評価基準はそれぞれ異なるということなんですよ。まさか、みんなかつての岸野雄一とみうらじゅんと山本弘とゴミビデオの評を書いてた頃のデルモンテ平山とを同じ評価基準でやってたと思ってんじゃないでしょうね? 心配になってきた。
岡田斗司夫さんも、「C級のもの」に対して特別積極的に探してたって感じはなかった。逆にそういうのばっかり探すのには抵抗がある、的な一文を読んだ記憶があるけど。あと「エヴァンゲリオンパズル」(ものすごいC級便乗商品)をおれが買わずに済んでよかった、とか書いてた。
(つぶやき終わり)
なお、「わざと変なもの、取るに足りないものを愛でる」という文化が「90年代ではなく70年代からある」とわざわざ書いたのは、意外と知らない人が多いかなと思ったので。
「洒落」とか「酔狂」とかにまで話を広げれば、それこそ江戸時代からあった話かもしれないが、「戦後」という枠組みに限っていえば、「あえて」「逆に」「つまらないものがかえって面白い」という感覚が80年代を代表するものであった、とされるのは、ほとんど「正史」であると思われる(実際にはそう一本道ではなかったのは、「オウム」が醸成されていったことでもわかるのだが)。