【アイドル】・「2000年~2006年のモーニング娘。と私 その3(完結編)」
前回の続き。そして完結編。
かなり私的な話です。
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2月12日昼間に、「モーニング娘。20周年記念スペシャル」という番組が放送された。
内容は、モーニング娘。(およびハロー! プロジェクト)の番組「ハロー! モーニング。」の特番。「「ハロー! モーニング。」(略称ハロモニ)」は、2000年4月~2007年4月までの間、放送されたテレ東の番組である(その後、「ハロモニ@」という番組が2008年まで)。
この「20周年スペシャル」について感想を書こうと思ったが、その前に、私が「いつ頃からいつ頃までモーニング娘。に興味を抱いていたか」を書いた方がいいだろう。
というか、私自身も忘れていた。
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2012-12-10 浜野『なんとかはキリストを超えた』:あきれた。
たまたまネットウロウロしていたら、またこのテキストを目にした。
書かれた当時も、読んだのだが。
「前田はキリストを超えた」は、刊行当時「アホか」と思っていて、読んでない(実は買ってしまったので家のどこかにある)。
山形浩生先生のこのレビューも、そのとおりだ、山形先生よく言ってくれた、と2012年当時思っていたが、今現在、このレビューを読みなおしても、希望のキの字も浮かんでこない。そもそも山形先生の文章で「感心」したことはあっても、希望を持ったことはない。
2012~2013年当時、AKB48をわざと間違えて「アキバ48」って書くのってくそださいし、結論から言って「いい年こいたキモヲタは、社会によって大目に見られているんだよ。勘違いするなよ」とダメ押ししているから、まあそれが世界的な絶望感ではないにせよ、極私的な絶望感ではある。
そういう意味では、2017年末の私は、著作を一冊も読んでもいない濱野智史氏には少しだけ同情的だ。
というのは、「ハマったジャンルが、世界を変えてしまうのではないか」という言説は、アイドルにかぎらずチラホラあるからだ。
BLについてそう語っている人もいた。クラブ文化についてそう語っている人もいた。
文中では「アキバ48なんて、そんな崇高でも偉大なものでもないのは、ファンたち自身がよく知っているはず。かれらは、自分たちにやっていることがつまらない何かの代用行為なのも十分に承知しているはず。それでも、ほとんどのファンは、自分たちがキモヲタであることを十分に承知しつつ、それを半ば自虐的に、なかば胸を張って受け止めているはず。」と書いてあるが、AKBファンの人には悪いが、それは大衆をかいかぶりしすぎというものだろう。
もちろん、AKBファンにはそうした高度な自己評価能力を持っている人もいるかもしれないが、大半は「別に何も考えていない」というのが正しいはずだ。
(たいしたことのないものが好きな自分を半ば自虐的に、なかば胸を張って受け止める」という態度は、90年代くらいの「サブカル的」な態度であって、2012年の段階で、そのような「態度」があるかどうか、私は知らない。
たぶん、そのような屈託は、オタク全般にはもうないと思う。
そして「何も考えていない方が正しく、何かを考えたにしても間違った方向に行った人間は正しくない」と言うのは、言い方は悪いが「大衆」は「特殊学級生」扱いだから山形は批判せず、濱野氏に対しては「おまえも大学院出てるんだからしっかりしろよ」と言っているに過ぎない。
「自分の絶望に他人をひきずりこもうとする人々」は、何もインテリでなくても存在する。むしろ「前田敦子はキリストを超えた」の内容を丸飲みしている人より、日常的に「世をはかなんでいる人」の方が、世間的には迷惑だと言える。
数年前に、同じテキストを読んだときと私の心境が違うのは不思議だ。別にその間に、アイドルヲタクになったわけでもないし。
しかし、私にとっては前田敦子をキリスト扱いする濱野も、「アイドルファンは濱野よりはマシな見識を持っている」という「大衆観」を持っている山形も、「AKBグループについて」ということで言えば、たいして変わらない。
インテリも、大衆からの支持がなければたいていは生きていけないので、変な色気を見せることがあるが、そんな屈託、おれの知ったことか。
ささくれがちぎれて、血でもちょっと出せ。
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時計仕掛けのプー・ルイ ~BiS ダイエット企画騒動~(ロマン優光の転んだあとの杖!)
もう言いたいことは前回で言いつくした部分もあるのだが、上記のようなテキストを読んだので、再度書く。
この「時計仕掛けのプー・ルイ (以下略)」は、旧BiSとBiS、およびプロデューサーの渡辺淳之介について非常に簡潔に説明してあり、参考になった。
旧BiSをアントニオ猪木の新日本プロレス、現BiSを現在の新日本プロレスにたとえることは、非常にわかりやすい。
ロマン優光氏は旧BiS流の、「不穏さ」を煽って注目を集めるやり方が嫌いだったそうだが、それにしては公平に新旧のBiSについて説明していると思う。
旧BiSに関しては私の知り合いに熱狂的なファンがおり、何か「不穏なこと」が起こるたびに、それを興奮とともにネットに書きつけていて、当時は「まったくの他人事」としてその書き込みを読んでいた。
だから、全裸MVとか、メンバーの不仲を煽ったとか、そういうことは知ってはいたが、私個人はあくまで「アイドルとファンとの関係」としてとらえていたようだ。
つまり「アイドルとファンがそうやって盛り上がっているなら、まあいいんじゃないの。私には関係ないから」ということ。
ところがロマン優光氏の簡潔なまとめを読むと、旧BiSに関しては、真剣に関わっていたら激怒していたかもなあ、と2017年の今頃、思っている。
私はもともと、「ガチンコ!」とかその路線のリアリティ・ショー番組が死ぬほど嫌いだったし、一時期の亀田三兄弟の、まるで狂犬のような態度も大嫌いだった。
そして、テキストを読むかぎり、旧BiSは「ガチンコ!」とか一時期の亀田三兄弟路線だったのだと知り、後から不快な気持ちにさせられることに。
現BiSはずいぶんまともな、節度を持ったリアリティ・ショーになった、というようなことが書いてあったが、そういう問題かね? と思う。今回のダイエット騒動が「たまたま」にしたって、運営側に世間的なダイエット問題に対する意識が低すぎる、と思われても仕方がないし、何らかの予定調和をもくろんでいてそれがハプニングで妙なことになった、としても、「事故」を起こさないことが運営の役割のはずなんで、言い訳にならない。
渡辺淳之介が実際になんて言っているのか知らないが、「こうでもしないと売れないんですよ」みたいなことは無茶な企画に対してよく言われる。
実際、亀田三兄弟の噛みつきぶりが問題になったときも、「ああでもしなきゃ売れないから仕方ないでしょう」という意見が、他のエンタメ関係者から聞かれた。
で、亀田の話になるが、亀田批判としては、「ボクシングはそもそも神聖でストイックなものであり……」などと、勝谷誠彦か何かが当時言っていたが、そういうトンチンカンな意見もよく出ていた。
「ボクシングが神聖でストイックだから、過剰な演出をしてはならない」のか。そんなことはないだろう。
私個人が亀田兄弟に抱いていたもの。
それは「演出にしても、もうちょっとうまくやれよ」
ということだけだった。
結果、どうなったか。亀田の名前だけは売れたが、ダーティーな部分も大きく報道され、結局、一般のボクシングに興味のない人たちは、亀田たちの名前は知っているが、彼らが「本当に強いのか?」は、いまだによくわからないままなのではないのか。
これでは、演出失敗だろう。
同じことは今回のダイエット騒動にも言えて、プー・ルイのダイエット企画が常軌を逸した異常なものであれ、予定調和のレールが敷かれたものであれ、炎上してそれが宣伝につながらなければ、失敗だということになる。
そもそも、アイドルに限らず小規模な、あるいは知名度のないグループが、どれほどの「リアリティ・ショー」を行っているのか知らないが、まあ旧BiSは商売になったらしいので大義名分もあるものの、はっきり言ってファンでも興味もないし、知り合いと共通の話題にすらならない「小規模なリアリティ・ショー」は、情報が入ってくるのも不快だし、迷惑なのである。
以前、Stereo Tokyoというグループがファンをマラソンさせて炎上したことがあった。
このときも、「ファンが楽しんでいるなら外野が文句を言うことはない」という意見が、まあ穏当なところだろうとは思っていた。
だが今は違う。
こういうのがネットで流れてくるのが、たまらなく不愉快なんだよ!
亀田三兄弟よりも不愉快だ。
アイドルの世界は、いまだに盛り上がっているかもしれない。そして個々のアイドルグループとファンの関係性もあるだろう。
だが、やはりアイドルやファンが無茶ブリされて、それをいやがっていようが楽しんでいようが、部外者には断片的な情報でしかない。
そして、新日本プロレスや、ラップのフリースタイルダンジョンに関係しているラッパーたち、あるいはお笑い界の騒動でもいいが、そういうものとは違い、不穏な情報をいくらかき集めても、全体像が浮かび上がってくることは決してないのだ。
断片的なドラマを強制的に見せつけられているようで、ものすごくイライラする。
以前、グループ名は忘れたがあるアイドルが、ワンマンライブが満員にならないと解散になってしまうので、観に行ってほしいと知り合いから言われたこともある。
いや、行くわけないでしょ。曲すら知らないのに。
今のアイドル界は、AKBグループとももクロとベビメタを除いて、まったくバラバラで情報を集めても「シーン」がどうなっているのか、ぜんぜんわからない。
スッキリしない。
正直、知らないアイドルの知らない動向など、もう聞きたくない。
もしかしたら、そうしたバラバラな状況をまとめられたのは、「生ハムと焼きうどん」が大ブレイクすることだったかもしれない。
フリーの彼女たちが、武道館とは言わずとも大きな会場でコンサートをして、アイドルに興味のない人も「生ハムと焼きうどんってなんだ!?」と思えば、その他の珍妙なアイドルグループも、「今、アイドルってこうなっているんだな」と把握ができたはずだ。
新BiSが何をやろうと、プー・ルイと渡辺氏がコラボ曲を出そうと、それは「その世界」のことにすぎないんですよ。
渡辺淳之介も大変だとは思うけどね。
知らない人たちの知らないリアリティー・ショーと、予想外の「失敗」、みんな「ショー」として興味ある?
ないからポリティカル・コレクトネス的な批判を浴びたわけでしょ。
奇策ったってね、限度というものがあると思う。
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前回の続き。
BiSのダイエット騒動で、「何もわかってないくせに」と言われるのがイヤでいちおう、過去どんなことをやってきたか観ましたが、リアルタイムではアイドルマニアの知り合いからいろんなことは漏れ聞いてたわけですよ。
で、そのときは「そういうアイドルもあるんだなあ」くらいの感想しかなかったわけです。
しかし、半月前の「童貞。をプロデュース舞台挨拶騒動」の映像を観てしまった後では、ファンの人には申し訳ないですがどれも陳腐に思えるんですね(27時間テレビのマラソンが「陳腐」というのと似たような感覚です)。
広い意味でのアイドル史、サブカル史ではどうか知りませんが、私の中で「童貞。をプロデュース舞台挨拶騒動」は自分でも驚くほど大きな出来事だったようで、「目標を達せられなかったら即休業のダイエット企画」なんて、もう「童貞。舞台挨拶騒動」以降はすべて陳腐化しちゃったと、個人的には思っています。
だから、あくまで個人的に、ですが、ダイエットしているプー・ルイも大変でしょうが、もうこの手の企画は「日野てるまさビンタ騒動」と似たようなもんでね。私にとっては。
「なんか他に面白い企画、考え付かないの?」
などと、無責任なことを考えています。
思い起こせば、私は「テレクラキャノンボール2013」に感動しすぎて、過去のテレキャノや、前にも書いたとおり他のパロディ的な企画の映画もつとめて観に行きました。
「テレキャノ2013」は、「ナンパされた女性のブスさ加減を嘲笑する映画」とだけとらえている人もいるようですけど、私はまったくそうは思っていないんで。
むろん反PC的な映画ではありますけど、監督たちも「痛い目」を観ている、罰ゲームに当たりに行っていること、女性たちを単に「笑いものにする」以上のものが確実に存在しているという点で、今でも私の評価は高いです。
(ただし、今、同じ方法論でつくったとしても、面白いと感じるかどうかはわかりません。理由は時代の変化です。)
で、テレキャノ好きが高じて「劇場版 BiSキャノンボール」を観ました。私の当時のBiSに関する知識は断片的なものでしかありませんでした。
だから、鑑賞直後はうまい感想が思いつかなかった。
(あ、ここからは「劇場版 BiSキャノンボール」の話です。検索していて未見の「完全版」があることを知ってしまい動揺したのですが、とりあえず「劇場版」についての話を進めます。)
で、あくまで2017年現在の観点からの感想ですが、まあ、ダメでしたね。
初期の上映時、監督のカンパニー松尾も舞台挨拶で納得のいかない表情をしていて、「まだ編集し直している」とか言っていたんですが、当時はその意味がよくわかっていませんでした。
とにかく「テレキャノ」側からの観点しか、私は持っていなかったので。
ちなみに「テレキャノ2013」では、登場する素人女性たちは、劇場版として映画館で上映されていることを知りません。
その点でアンフェアなのですが、まあそういう契約になっているのでしょう。
しかし、「劇場版 BiSキャノンボール」に関しては、アイドル側が「だまされていた」ことが明らかになるんですね。
映画の中で、「解散コンサートくらいまともにやりたかった」と泣いて怒っている子(確かファーストサマーウイカ)がいましたが、まあ当たり前だと思います。
やはり、この場でも「過去のサブカル内パワハラ」と同様、「意に沿わないことをされたアイドル(立場的には弱者側)と「仕掛ける大人たち」というのが露骨に出てしまっていて、まあAKBはそこをスマートにやるんだけれども、「わざと泥臭くやって煽る」ってのはね。
なんだかいやだなあ、と。
正直、「童貞。をプロデュース」の舞台挨拶映像を観てしまうと、そういうのがまったく面白く感じなくなってしまったんですよね。
今後、こういう……「サブカル的」っていうと雑すぎますが、「反ポリコレサブカル」をからめたアイドルは、もう話題にはならないと思います。
それと、「劇場版 BiSキャノンボール」でとくに気になったことのひとつは、(まず絶対に成功しないけど)セックスまで持っていこうとするビーバップみのるが、テンテンコに、雑誌でセミヌードになったことについて話を聞く際、
テンテンコが「私は裸になったことを、いやらしいことをした思っていないし、ヌードになる女性を下に観たことはない(大意)」
って言わせちゃったことです。
それをずっとビーバップみのるが、優しくせめるんです、「いやらしいと思っていないなら、同じこと(フルヌードになること)もできるでしょう?」って。
あれがキツかったですね。
そりゃ、ミュージシャンがジャケットなどでセミヌードになることは、別にBiS以外にもありますけど、そういう人たちも、表面上は「私たちはヌードになることを専業としている人たちを下に観ているわけではありません」としか言えないですよね。
だから「じゃあそう思っているなら、あなたも全裸になれるでしょう?」と問われてしまい、それにはうまく返答できないことになってるんです。
これは観ていてキツかったです。
実際には「裸になることを専業としている人が裸になることと、アイドルが裸になることは意味合いが異なります」とかなんとか、反論できなくはないんですが、そこまで理路整然と反論できるアイドルは、いないでしょう。
ビーバップみのるは、別に「自分のやり方」で攻略しようとしただけでしょうが、「劇場版」や、今回のダイエット騒動などを観ると、
「もしかして、アイドルたちは『洗脳されていない』と思い込みながら『洗脳されている』のでは?」って思ってしまうんですよね。
そこが、またマネージャーの思惑と重なっていると勘ぐったりなんかしてしまって。
結局、劇場版は、このビーバップみのるとテンテンコとの関係がどうなるか、が落としどころになるんですが、やはり無理矢理感はぬぐえなかったですね。
「完全版」はまた違うのかもしれませんが、「劇場版」は、ちょっとアイドルたちがかわいそうに観えてしまいました。
で、私が何が言いたいかというと、私は「行き過ぎたPC」に反対の立場なんです。しかし、だからといって、PC的には「アイドルに過剰にダイエットさせることは、グローバルスタンダードからしても、摂食障害などに影響を与えるからダメ」という正論があります。
もう、両者はどこかで折り合いをつけないとダメだろう、ではどうしたら着地できるのか? ってことです。
そもそも、本来の「芸能人は普通人と違うからモラルも価値観も違う」という物言いでさえ、
「都合のいいときだけ普通の人になったり、コミュニティ外の人になったりするんじゃねえよ」
という反論は、実際にできますから。
私は90年代半ば頃からの「オタク再評価」の機運は、「プロアマボーダーレス」ということが最も重要だと主張し続けてきたのですが、同じことはアイドルにも言えるってことです。
日本のアイドルは本質的に「不完全性」がキモですから、「どっちつかず」の存在なら、「無理なダイエットされてかわいそう!」という批判だって、当然通用するということです。
まあ、現在のBiSはそのことに、答えようとはしないでしょうけどね。
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芸人であるギュウゾウが、「当事者同士の問題」と言いきるのはむしろ当然ですね。
芸人さんは信頼関係で無茶をやる職業であり、また自分たちの世界を「普通とは違う」と思っているわけですから。
(BiSのマネージャーも、ツイッターで似たような発言をしています。)
ただ、10年前、20年前(「BiS」の活動で言うならセミヌードのPVを出した2011年頃)と同じスタンスで芸能人、および企画がやっていけるかどうかは、現状ではなかなかむずかしい問題です。
こんなのもありました。文脈を理解するうえでは重要でしょう。
プー・ルイがダイエット失敗してBiSが燃えてるアレ(あざなえるなわのごとし)
ただし「曲も聞いてないくせに」というのは、あまり関係ないでしょう。ダイエットの歌を歌うのならともかく(本当に歌うのならすいません)。
さて、この件がプチ炎上したのは、PC案件だからにほかなりません。
「当事者同士の問題、ということだけではもう片付けられないんだよ」
というのが、PC推進派の理屈で、もはやどんな映像や音声も残せる時代に、そういうものいいを覆すのはむずかしい時代です。
PC推進側としては、どうもこういうの後に引けないというか、例外は存在しないという考えらしいので、後は実際のパワーバランス(ぶっちゃけPC推進側が飽きるかどうか)で決着が決まっちゃうようなところがあると思いますが。
とくに「ダイエット問題」はフェミニストにとっても重要なイシューなので、一度こじれると面倒なことになるかもしれません(なんとなくここ数日の感じを観ると、ならなそうですが)。
私は「BiSキャノンボール」くらいしか知らなくて(むろん今のグループとは別物というくらいは知っている)、「テレキャノ」が大好きすぎて、観に行ったんですが、「まあ、こういう不穏さ(要するにドッキリ企画的なものを映画にする)」というのがいいと思っているアイドルグループでファンが納得しているなら別にいいんじゃねえの、くらいに思ってました。
(話がテレキャノの話になりますが)
テレキャノのメソッドを使った企画の映像は「メチャイケ」も含めてできるだけ観たんですが、「仕掛けられる側」が主役になっているのは「BiSキャノンボール」だけで、「本人たちが納得しているのならそれでいいのかな」くらいの感想しかなかったです。
それは裏を返せば「本人たちが納得していないのなら、ひでえ企画だな」と思ったということです。
実際、「ここまで着地点がないのか」と思ったことは事実ですね(舞台挨拶でのカンパニー松尾監督も、かなり納得していない様子でした。「まだ編集し直している」とか言ってたし)。
でもよく考えれば着地点があいまいになるのは当然で、「テレキャノ」と違って「仕掛ける側」と「仕掛けられる側」、双方の意識を取り上げるわけだから、そりゃこじれるわな、と。
そんなわけで「BiSキャノンボール」は、成功した作品とは言い難いと思ってます。
で、あれから二年くらい経っていますが、わずか二年で、PCに対する意識はかなり変わってきていると思います。
まあアイドルのダイエット企画を「PC的観点から」観ている人はそうはいないですから、別に問題がなければ仕掛ける側もとぼけたっていいんですが、私がPC推進論者であれば、2017年の段階で「女性のダイエット」について、「当人を追い込んでいるような演出」を見せられたら、「えっ……」って思うとは思いますね。
ところで、「アイドルを追い込む」ということに関して言えば、あらゆるアイドルがそうなわけで、とくにAKBグループがそうなんです。
つまりAKBグループがやってきた「仕掛け」こそが、実は反PC案件なのですが、
あたかも「アイドルとしての世界標準はAKBグループなんだよ」と思わせているのが、秋元康のすごいところです。
だから、AKBのさまざまな企画に関して、直観的に「反PC、反フェミニズムだな」と思って批判されても、
「いつものことだろ」
で流されてしまうことが多い。
あるいは一時炎上して、みんな忘れてしまう。
なお「前田敦子はキリストを超えた」と言っていた学者がいましたが、宗教と言うのは基本的に反PCなので、これ言った学者はそうとうなバカだとは思いますが、バカで前田敦子信者ゆえに、間違ったことは言っていないということになります。
あ、それとさらにつけくわえておくと、マキタスポーツが「悪性のエンターテインメント」という言葉を考え付いて、AKBもその中の一つだと言っているわけですが、彼の言う「悪性」というのは、反PCだということです。
それを「悪性」と名付けて、条件付きで肯定しようというのは、かなりの直観力だと思いますね。
芸人が、「わかってて入った」芸能界について擁護するのは、まあ当たり前のことなんで。
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欅坂46「月曜日の朝、スカートを切られた」が波紋 切り裂き被害者が「不謹慎」と指摘、署名活動へ
(引用開始)
しかし、尾崎が抑圧への抵抗、自由を手にするために行動することの解放感を歌うのに対し、『月曜日の~』は、「目立たないように息を止め」ることで抑圧を受け入れよとの文脈を持つ。その文脈で、切り裂き被害に遭った曲中の主人公が「私は悲鳴なんか上げない」と言う。これは、犯罪被害者側に沈黙を強いていると受け止められても仕方がないのではないだろうか。
(引用終わり)
いやーそうは思わないけどなぁ。
「どこかの暗闇でストレス溜め込んで 憂さ晴らしか」
っていうフレーズが一番から入っているから、
「悲鳴を上げたらスカートを切ったやつが喜ぶだろうから、そんなやつの憂さ晴らしなんかには付き合わない」
ということなんじゃないの?
どんなに抑圧的な社会でも、女の子のスカートを切り裂くことがいいわけないんだから。
検索したら、この歌詞は「サイレントマジョリティーの前日譚」ということになっているらしいので、「スカートを切られても声を上げないことが、唯一の矜持」だった女の子が、「サイマジョ」で積極的に声をあげるようになる、という流れでしょ。
まあ「サイマジョ」を知らなくても、この歌だけで完結していてもいい。
世の中が息苦しい、でも出口がない、どうしよう、そういうときに他人を苦しめて憂さ晴らししようとするやつがいる。
社会が抑圧的なことには変わりないけれど、「どこかの暗闇でストレスを溜め込んでいるやつの標的にだけはなりたくない」という歌詞なんではないかと思いますけど。
違うの?
おれの読解力も鈍ってきたかなあ。
でも「歌詞全体が皮肉」ってのはごくたまにあって、
パッと思いつかないけど、植木等の、
「これで日本も安心だ」
とかさあ。
その路線なんじゃないの?
秋元康の「額面どおりに受け取れない、状況を皮肉った曲」としては「サイレントマジョリティー」とは正反対の「他の星から」(乃木坂46)っていうのがありますしね。
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ツイッターで、複数の人から同じブログのある文章がリツイートされてきた。
リツイートというのも、なかなか面倒くさい。だれがリツイートしてきたかで、文脈が変わってしまうからだ。
「ぜひ広めたい!」なのか、「しょうがねえなあ、こういうの」という苦笑まじりのリツイートなのか、それとも否定的なものなのか(否定の場合はさすがに、コメントするだろうが)。
そのリツイートしてくる人の背景がわからないと、わかりづらかったりするのである。
で、そのブログは、とある上り調子のアイドル(っていうか乃木坂46)のヲタが、「乃木坂こそ最高!」とのぼせあがっていてウザいということであった。
そのブログの文章は、「他のアイドルを観てないからそんなこと言えるんだろ」ということが趣旨で、そのこと自体は間違ってはいない。
確かに、過去にも「このアイドルグループは、過去のアイドルグループとは違うんだ!」と強く主張されるグループがあった。
AKBだって「前田敦子はキリストを越えた」という発狂した本が書かれているのである。
Perfumeやももクロ、ベビーメタルなども、熱狂的なヲタから「それまでのアイドルとは違う」と言われてきた。
アイドルに対してファンが熱狂的になるのはめずらしいことではないが、果たして自分が推すグループが、アイドル史の中で本当に「特異な」グループなのかは、アイドル史および同時代の他のアイドルグループを知らないと判断のしようがない。
しかし、やはり熱狂してしまうと「ウチこそ最高!」となってしまうようである。
まあそんな文章だった。
それにしても、その文章を読んで気分が悪くなった。それは、最初は「乃木ヲタ」を事例にした「熱狂的なアイドルヲタ」についての批判だったのに、途中から乃木坂46そのものに対する批判になっていたことだ。
いわく「やる気がない、ダンスがへた」、「東京女子流の方がずっとがんばってる」など。
確かに、他のアイドルを知らないと自分の好きなアイドルとの比較ができないのは確かだが、歌やダンス、寸劇でもいい、何らかのパフォーマンスが一級品でも、それとそのアイドルグループが「すばらしい」ものかは、ぜんぜん別の話である。
かつて秋元康(とそのグループ)は、「おニャン子クラブ」という、目に見えて「やる気のない」アイドルグループをつくった。秋元康のプロデュースは、もちろん全部が全部ではないが実は「やる気と魅力は関係ない」ということを裏テーマにしているものも多い。
芸能に関してまったくのシロウトの女子大生だったり、番組スタッフだったりを引っ張り出してきて「歌手」にしたてあげたりしたことがそうである。
というか、そもそも「とんねるず」自体が別にプロの歌手でも何でもなかったわけだし。
時は移り、(秋元康とは直接の関係はないが)「モーニング娘。」以降、アイドルは突出して「努力」が全面に出るようになった。そしてそれをファンも受け止めるようになった。
80年代は、「ラクして儲けたいなあ」みたいな雰囲気が日本全体にあったが、不景気な90年代以降は「努力しているイメージ」は不可欠だったと思われる。
AKB発足から売れ始めるまではどうだったか知らないが、「総選挙」が行われるようになった2009年にはもう「努力」の要素は出てきていただろう(AKB発足は2005年12月)。
しかし、当然だが、努力したからって成功するわけではない。
「やる気がない」と言ったって、明確に、たとえば観客の見えるところでサボっていただとか、そういうことでもなければ「やる気がないかどうか」など、観客がわかるわけがない。
むろん、「やる気がないように見えた」と書くことはできる。しかし、それでもやはり努力と人気とはイコールではないのだ。
リツイートされてきたブログでは、アイドルたちが「アーティストになりたい」と言ったことに対し、「努力がともなっていない」と説教じみたことを書いていたが、アイドルが憧れる「アーティスト」でさえ、バックダンサーの方がよほどダンスがうまかったりするのである。
また、「アーティスト」の定義も定かではないが、小室哲哉が「アーティスト」という言葉を使って、当時「アイドル」イメージを「古いもの」とした経緯も忘れてはならないだろう。
とにかくそのリツイートされてきた文章のレベルが低すぎて、本当にやる気をなくした。
一日経っても気分が悪いので、こうして長文を書いた。
疲れたので、終わる。
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ヒトから聞いた話だが、あまりの出版不況に驚いてしまった。
不況というよりも、電子書籍やスマホの出現によって、以前から「ネットに食われるのでは」とささやかれてきたこと、つまり「本が売れない」という現象が現実のものになってきたということだろう(むちゃくちゃ本を買っている私は、出版界の実情には疎いのです)。
このため、出版物発信のムーヴメントというのも起こりづらくなってきた気がする。グラビアアイドルもまた、「本が売れない」ということの影響を受けた一ジャンルと言わざるを得ない。
つまり、本書のサブタイトルどおり「栄光」の後の「衰退」の時期か。
本書は、「グラビアアイドル」の歴史を六十年代後半くらいから、本書が刊行された2011年までの歴史を追ったものである。
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