「テレビアニメ ルパン三世 第一シリーズ」について、「子供の頃気づかなかったこと」について、書いてみたい。
というか妄想と言ってもいい。作品を再見してただ「思ったこと」にすぎない。
資料的な裏付けは、ゼロだ。
「ルパン三世 第一シリーズ」は、一九七一年十月から七十二年三月に放映されたアニメである(当然だが「第一シリーズ」と言う呼称は後付けのものである。第二シリーズが決定したから同作が第一シリーズになったにすぎない)。
この作品は、ある世代には大きな衝撃をもたらした。「ルパン三世」というアニメが、劇場版、特番にかぎらず「気が付くと新作がやっている」といった「定番コンテンツ」となったのは、間違いなく大人気となったテレビ第二シリーズ(赤い背広のルパンね)の影響が強い(それと「カリ城」)。
それでも新作がつくられるたびに、「なぜ第一シリーズのような雰囲気のルパンがつくれないんだ?」という声は根強かった。
このために「ルパン三世 風魔一族の陰謀」という、第一シリーズに近いキャラデザインの劇場用作品もつくられた。声優陣総入れ替えばかりが話題となるこの作品だが、そんなことよりも「五エ衛門の花嫁」を中心にすえた「カリ城の焼き直し」であったことの方がよほど問題だったと思うのだが。このあたりは「宮崎駿の呪い」といった感じだが、なぜこの呪いがなかなか解けないかは後述する。
最近になってようやく「峰不二子という女」や「次元大介の墓標」といった、第一シリーズのテイストを取り入れながらも、独自の雰囲気を持つ「ルパン」が登場してきた。
ではルパン「第一シリーズ」の本質とは何だったのかというと、「七十年代的なシラケ感」であると私は考える(すでに何度も指摘されているかもしれないが)。
「あさま山荘事件」が一九七二年二月。さかのぼって一九七一年十二月三十一日以降、連合赤軍リンチ殺人事件があったことが明らかとなる。これらの事件は、日本の学生運動に決定的な打撃を与えたと言われる(これは別の言い方をすれば、「政治」とは「選挙」以外にはないという意識の形成であり、「デモはムダ」などの感覚もこの事件をきっかけに醸成されていった。「デモが無駄かどうか」は、その国が成熟していると認識するかどうかの議論に発展するが、また別の話)。また、「三菱重工ビル爆破事件」というテロ事件が、一九七四年八月に起こっている。
つまり七十二年から七十三年くらいの間に、次々と「反権力的行動」の凄惨さ、血なまぐささが日本中に知れわたり、いわゆる「シラケ世代」の時代になるのである。
ルパン第一シリーズ放送と同時期に、連合赤軍のリンチ殺人事件が起こっているが、リアルタイムでは、そのことはまだ世間に知られていない(明らかになったのは「あさま山荘事件」で関係者が逮捕されてから)。
当然、アニメ「ルパン」そのものの企画はずっと前から進められていただろうから、第一シリーズのルパンは、すでに日本国民が「シラケる」以前から、シラケていたということになる。これは時代の先取りで、画期的なことなのである。
より正確に言えば、原作の「ルパン三世」は、六十年代のスパイアクションブームや軽くてオシャレな欧米のサスペンス映画、ミステリ小説などの影響を受けていると思われる。
これらの中には「米ソ冷戦」を「ゲームのフィールド」として解釈し、その上でそのもの自体にはさして意味のないマクガフィン(新兵器の設計図だの政治家のスキャンダルを撮影したマイクロフィルムだの)を奪い合うという、さしたるテーマのない、ゲーム性の強い作品群があった。モンキー・パンチ作品のクールさは、海外マンガ雑誌「MAD」の影響を受けているのは有名だけれども、明らかにそうした「クールな殺し屋、クールなスパイ」についてのフィクションの影響がある。「峰不二子」が本来は「007」シリーズのボンドガール的なポジションにあるが、毎回女性を変えるのが面倒だというので「謎の女 峰不二子」というキャラクターとして統一されたのはモンキー・パンチ自身が言っていることである。
つまり、「一九七一年」の段階のアニメ「ルパン三世」の「シラケ」とは、「ゲーム化されたスパイアクション」の七十年代的読み替え、と言うことができる。
しかし大人向けとして製作されたアニメ「ルパン三世」は早すぎたのか、視聴率低迷のため演出の大隅正秋(おおすみ正秋)は降板し、途中から宮崎駿が入ってくる。
宮崎駿がかかわってから、次元、五エ衛門、峰不二子という「ルパンファミリー」が定着し、計画立案から盗みの実行、銭形との追いかけっこなどのエピソードが定番化したと言われる。
「ルパン三世―まぼろしのルパン帝国」(一九九四年)という研究本を読むと、孫引きで恐縮だが宮崎駿が、もともとの第一シリーズのルパンをいかに嫌っていたかがわかって少々引く。すなわち、「ルパン帝国」という謎の組織を背後に持ち、江戸川乱歩の言う「退屈という精神病」をもてあそんで死のゲームを楽しむルパン。「退屈しのぎ」に泥棒を行うルパンに対する嫌悪感を、宮崎駿は隠さないのである。
こうしたルパン像に対し、宮崎は、「素寒貧の貧乏人だが、知恵とバイタリティはむやみにあって、いつも『面白いこと』を探し回っている」という「庶民的なルパン」を対峙させた。ノリも少々軽くなり、「軽妙洒脱」という言葉がふさわしい展開となる。
しかし大隅にしろ宮崎駿にしろ、似たような点がある。
それはどちらも、非・権力、反・権力的な点である。そもそも、ルパンは「何にシラケているか」と言えば、権力にシラケているのである。それは国家権力であったり、闇社会に隠然と存在するシンジケートだったりするが、そんなものはどうでもいいと思っている。対するに宮崎駿は、おそらく「権力にシラケている」ことに、我慢ならない。彼にとっては、権力は反逆の対象だからだ。
ルパンによって、権力はコケにされたり打倒されないといけない。だから宮崎ルパンのプロットも盗みの計画も、周到である。「カリ城」の話になるが、カリオストロ公爵はルパンによって(間接的にだが)倒されたし、ルパンは、美少女を悪の手から救い出すナイトでなければならなかった。
簡単にまとめれば、第一シリーズは、一九七一年の段階で予見された「これからの日本」の「シラケた空気」をどう生きるか、が裏テーマになっている。これは前半の大隅ルパンも後半の宮崎ルパンも変わらない。共通しているのだ。
ただ、宮崎駿は反逆には実利が伴わなければならないと思っているから(ロクに彼のインタビューを読んでいないが、作品を観ていたらたぶんそうだろうと思う)、もっと先の第二シリーズでの彼の手になるエピソード「死の翼アルバトロス」にしても、「さらば愛しきルパンよ」にしても、「倒されるべき悪」がきっちり出てきて、倒される。
別の監督の話になるが、吉川惣司監督のアニメ映画「ルパンVS複製人間」においても、永遠の生命や美女など、「欲望」に固執しているのは敵対するマモーの方であり、ルパンは「夢を見ない」(本質的な欲望を持たない)存在である。
そんな「欲望を持たない」ルパンが、ハタからは「シラケて見える」のかもしれない、というのは私の妄想なのだが。
これが七十七年から八十年までの「第二シリーズ」になると、前作から五年の間に世の中は大きく変化し、ルパンの盗みは彼個人の退屈しのぎや欲望によるものというよりは、もっと明るく楽しい、他人(視聴者)にとっての「ショー」と化す。ルパンの盗みの理由も「不二子に頼まれたから」という設定が頻出するようになり、「不二子の心を得るために盗みに精を出す」という、明るく楽しい展開が多くなった。
また第二シリーズの「世界を股にかける」という設定は、「第一シリーズ」でまだ「日本」を舞台にしていたがためにあった同時代性を払拭し、ステロタイプ化された「各国」でのルパンの活躍は、「政治の季節」であった六十~七十年代をとうに忘れたものとなっていった。
うがった見方をすれば、第二シリーズのルパンが駆け巡っていた「世界」は、冷戦による平和が保証されたテーマパークのようなものだった。ときおり米ソ対立の話も出てくるが、それはあくまで盗みの舞台づくりにすぎなかったりした。
そんなわけで、第一シリーズのファンが何を追い求めているかと言えば、それはルパンの同時代に対する「諦念」であった。諦念から来る、乾いた笑い、そしてハードボイルド。
しかしあきらめきれない宮崎駿は、「希望」を美少女に求める。美少女とは「もろい、はかない正しさ」の暗喩であり、「権力」の対極に位置する存在だった。別の言い方をすれば「優しい権力」と言ってもいいかもしれない(だれが言ったか知らないが、「かわいいは正義」というのは要するにそういうことだろう)。
それを敏感に感じ取ったのは、ほかならぬ七十年代、八十年代のオタクだった。だから「カリ城」の呪いは、永遠なのである。
一方、六十年代スパイアクションブームの尻尾を持っていた「大隅ルパン」のイメージは、ルパンと敵との虚々実々の駆け引きの背景にある「組織や闇社会の掟に翻弄される諸行無常の感覚を保持していたが、八十年代からバブル崩壊までのカラ騒ぎの中で、だれもが、どうしても再現することはできなかった。
それは当然でもあった。人々は、たまたまエアポケットのように出現した「中流幻想」に何の疑いも抱いていなかったのだから。もともとの「ルパン三世」が背後に持つスパイ、殺し屋、ギャングの世界は、「なんとなく憧れていた異世界」としての役割を喪失してしまったからである。
同時期に、中村主水を主演とする「必殺シリーズ」がホームドラマ化していったのと、まったく同じ流れであったのである。