アニメ

【アニメ】・「ミスター味っ子」

アニメ「ミスター味っ子」、最終回まで観終わる。
以下は、私が感じたたわごとです。

私はアニメの「味っ子」は、疑似家族の話だと思っていて(マンガの方は知らない)、「味皇料理会」の存在そのものがそうだし、物語の前半では、料理は天才的だがコドモの陽一を、父親代わりの味皇さまや丸井のおっちゃんが見守っている、という構図だった。
それと、味勝負において至るところで、陽一は亡き父の業績を知るわけです(味っ子の父ちゃんは、外見はいたって普通だが、早世したわりには伝説を残しまくっている)。
やがて亡父のエピソードはだんだん出なくなり(亡父越えは果たした?)、味将軍に味皇料理会が大攻勢をかけられてからは、ひたすらに「姿を消した味皇」を探すことが物語のメインとなる。

「味頭巾」があまりにアホらしい設定なのでずっと気づかなかったが、姿を消した味皇は、陽一ほか、みんなにとっての追求すべき「味」の象徴であり、父親でもあった。

ところが、やっと見つけた味皇は記憶をなくしていた。後は、最終回まで味皇の記憶を、料理でどうやって取り戻せるかというのが主眼となる。

で、一馬が「味頭巾」を親のように思っていたが味勝負に敗れ、「親」や「家」を獲得したいという願望をかなえることに失敗し、姿を消す(孤児らしき一馬は、常にだれかに囲まれている陽一とは対照的な存在。または陽一の周囲のにぎやかさをきわだたせ、その「家族らしさ」を引き立てる存在でもある)。

ラスト三回、ものすごく不穏な展開になる。別に狙ったわけではないだろうが、絵柄も毎回違い、観ている者の気持ちをざわつかせる。
一馬は姿を消し、味皇料理会の面々はそれぞれが(とくに理由もなく)修行のためにバラバラになってゆく。
そして、母親までもが丸井と再婚してイタリアに行くと言い出し、陽一は激しく動揺する。

その動揺の果てに、ガールフレンドのみつ子の弟のしげるが交通事故にあってしまう。これは間接的に陽一が原因で、しげるの意識が戻るまでは、みつ子の心までが陽一から離れてしまうような描写がある。
すごい不穏な感覚!!

だが、意識を取り戻したしげるに、みつ子が「料理をつくってやりたい」と言ったことから、陽一の行き詰まりに光が差し始める。
(その前に、甲来軒のおっさんの奥さんが手料理をつくってくれ、そこにもヒントがある。)

そして陽一は、味皇の記憶を取り戻させる。その理由に関しては他愛ないというかありがちな感じではあるが、それまであまりに不穏な展開だったため、かなりホッとさせる。
結果的には、味皇の記憶回復は、疑似的な家族に守られてきた陽一が、独り立ちしていくことの象徴となっている。

(味皇が、幼い頃から「家族」に対する飢餓感を抱えていたという描写もあり、この辺、丁寧だ。)

この結末、どの程度狙っていたのか知らないが、個人的にはいい意味で意外だった。
「家族っていいよね」というのは、かなり最強の落としどころなのだが(OPの一人で空を見上げる陽一のもとに、他のキャラクターたちがやってくるところはまさにそれ)、それをいったん描いた後、再び散っていく人々と合わせて陽一の人間的成長を描いた、と言うのは丹念で良い。

一馬の過去のエピソードがあまりに突拍子もないのと(スポンサーだった建設会社のおっさんが突然、元料理人という設定が出てきたり)、彼だけがアンハッピーエンドのまま放り出されているので、エンディングあたりで説明が欲しかった。
普通に考えたら、一馬の孤独を埋めるのはコオロギ以外いないと思うが。

しげるが、陽一の母親を気遣うところや、しげるの交通事故をきっかけにみつ子も成長する描写などは、かなりしっくりきたと思う。

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戦争はイデオロギーで起こるかもしれないが、庶民は必ずしもイデオロギーで生きているわけではない

アニメ「この世界の片隅に」が、日本の加害性をスルーしている、という批判になんかどうも納得いってない。

すでに指摘されているだろうけど、30年くらい前は「戦争を決行した政府」と「それに翻弄される日本庶民」という図式が、エンターテインメント作品で「先の戦争」を扱うときの「常道」だった。

(近年でも、朝ドラ「ゲゲゲの女房」の戦争観もそんな感じであった。)

「この世界の片隅に」は単純なエンタメ作品ではないとか、「今は時代は違う」というのも、それはそれで正論なのだが、だとしたら「なぜ作品における戦争観は変わったのか」、「なぜ戦争映画は反戦映画でなければならず、日本の加害性を描かなければならないというふうになったのか」というここ半世紀くらいの文脈を、丹念に追っていかなければならない。

余談だが「アキバズ・トリップ」というアニメを観ていたら、ミリタリーオタクが怪人化してにわかミリヲタに攻撃をしかけるのだが、主人公が「おまえだって最初は、日本の戦闘機はぜんぶ零戦だと思っていたんだろ!?」と言われて言葉に詰まるシーンがあって驚いた。

これは、若い人にしか書けないセリフだ。

私はミリタリーにいっさい興味がないが、どんなに興味のない人間でも第二次大戦中の日本の戦闘機のふたつや三つは言えたからだ。だから多少誇張した表現としても、「日本の戦闘機はすべて零戦」という勘違いを表すセリフは、80年代にはありえなかった。

第一、乗っていた人たちがまだ生きていたからなあ。

ジジイ話終了。


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【アニメ】・「一九七三年あたりのアニメ「ルパン三世」と、その後

 「テレビアニメ ルパン三世 第一シリーズ」について、「子供の頃気づかなかったこと」について、書いてみたい。
 というか妄想と言ってもいい。作品を再見してただ「思ったこと」にすぎない。
 資料的な裏付けは、ゼロだ。
 「ルパン三世 第一シリーズ」は、一九七一年十月から七十二年三月に放映されたアニメである(当然だが「第一シリーズ」と言う呼称は後付けのものである。第二シリーズが決定したから同作が第一シリーズになったにすぎない)。

 この作品は、ある世代には大きな衝撃をもたらした。「ルパン三世」というアニメが、劇場版、特番にかぎらず「気が付くと新作がやっている」といった「定番コンテンツ」となったのは、間違いなく大人気となったテレビ第二シリーズ(赤い背広のルパンね)の影響が強い(それと「カリ城」)。
 それでも新作がつくられるたびに、「なぜ第一シリーズのような雰囲気のルパンがつくれないんだ?」という声は根強かった。
 このために「ルパン三世 風魔一族の陰謀」という、第一シリーズに近いキャラデザインの劇場用作品もつくられた。声優陣総入れ替えばかりが話題となるこの作品だが、そんなことよりも「五エ衛門の花嫁」を中心にすえた「カリ城の焼き直し」であったことの方がよほど問題だったと思うのだが。このあたりは「宮崎駿の呪い」といった感じだが、なぜこの呪いがなかなか解けないかは後述する。

 最近になってようやく「峰不二子という女」や「次元大介の墓標」といった、第一シリーズのテイストを取り入れながらも、独自の雰囲気を持つ「ルパン」が登場してきた。
 ではルパン「第一シリーズ」の本質とは何だったのかというと、「七十年代的なシラケ感」であると私は考える(すでに何度も指摘されているかもしれないが)。
 「あさま山荘事件」が一九七二年二月。さかのぼって一九七一年十二月三十一日以降、連合赤軍リンチ殺人事件があったことが明らかとなる。これらの事件は、日本の学生運動に決定的な打撃を与えたと言われる(これは別の言い方をすれば、「政治」とは「選挙」以外にはないという意識の形成であり、「デモはムダ」などの感覚もこの事件をきっかけに醸成されていった。「デモが無駄かどうか」は、その国が成熟していると認識するかどうかの議論に発展するが、また別の話)。また、「三菱重工ビル爆破事件」というテロ事件が、一九七四年八月に起こっている。

 つまり七十二年から七十三年くらいの間に、次々と「反権力的行動」の凄惨さ、血なまぐささが日本中に知れわたり、いわゆる「シラケ世代」の時代になるのである。
ルパン第一シリーズ放送と同時期に、連合赤軍のリンチ殺人事件が起こっているが、リアルタイムでは、そのことはまだ世間に知られていない(明らかになったのは「あさま山荘事件」で関係者が逮捕されてから)。
 当然、アニメ「ルパン」そのものの企画はずっと前から進められていただろうから、第一シリーズのルパンは、すでに日本国民が「シラケる」以前から、シラケていたということになる。これは時代の先取りで、画期的なことなのである。

 より正確に言えば、原作の「ルパン三世」は、六十年代のスパイアクションブームや軽くてオシャレな欧米のサスペンス映画、ミステリ小説などの影響を受けていると思われる。
 これらの中には「米ソ冷戦」を「ゲームのフィールド」として解釈し、その上でそのもの自体にはさして意味のないマクガフィン(新兵器の設計図だの政治家のスキャンダルを撮影したマイクロフィルムだの)を奪い合うという、さしたるテーマのない、ゲーム性の強い作品群があった。モンキー・パンチ作品のクールさは、海外マンガ雑誌「MAD」の影響を受けているのは有名だけれども、明らかにそうした「クールな殺し屋、クールなスパイ」についてのフィクションの影響がある。「峰不二子」が本来は「007」シリーズのボンドガール的なポジションにあるが、毎回女性を変えるのが面倒だというので「謎の女 峰不二子」というキャラクターとして統一されたのはモンキー・パンチ自身が言っていることである。
 つまり、「一九七一年」の段階のアニメ「ルパン三世」の「シラケ」とは、「ゲーム化されたスパイアクション」の七十年代的読み替え、と言うことができる。

 しかし大人向けとして製作されたアニメ「ルパン三世」は早すぎたのか、視聴率低迷のため演出の大隅正秋(おおすみ正秋)は降板し、途中から宮崎駿が入ってくる。
 宮崎駿がかかわってから、次元、五エ衛門、峰不二子という「ルパンファミリー」が定着し、計画立案から盗みの実行、銭形との追いかけっこなどのエピソードが定番化したと言われる。
 「ルパン三世―まぼろしのルパン帝国」(一九九四年)という研究本を読むと、孫引きで恐縮だが宮崎駿が、もともとの第一シリーズのルパンをいかに嫌っていたかがわかって少々引く。すなわち、「ルパン帝国」という謎の組織を背後に持ち、江戸川乱歩の言う「退屈という精神病」をもてあそんで死のゲームを楽しむルパン。「退屈しのぎ」に泥棒を行うルパンに対する嫌悪感を、宮崎駿は隠さないのである。
 こうしたルパン像に対し、宮崎は、「素寒貧の貧乏人だが、知恵とバイタリティはむやみにあって、いつも『面白いこと』を探し回っている」という「庶民的なルパン」を対峙させた。ノリも少々軽くなり、「軽妙洒脱」という言葉がふさわしい展開となる。

 しかし大隅にしろ宮崎駿にしろ、似たような点がある。
 それはどちらも、非・権力、反・権力的な点である。そもそも、ルパンは「何にシラケているか」と言えば、権力にシラケているのである。それは国家権力であったり、闇社会に隠然と存在するシンジケートだったりするが、そんなものはどうでもいいと思っている。対するに宮崎駿は、おそらく「権力にシラケている」ことに、我慢ならない。彼にとっては、権力は反逆の対象だからだ。
 ルパンによって、権力はコケにされたり打倒されないといけない。だから宮崎ルパンのプロットも盗みの計画も、周到である。「カリ城」の話になるが、カリオストロ公爵はルパンによって(間接的にだが)倒されたし、ルパンは、美少女を悪の手から救い出すナイトでなければならなかった。

 簡単にまとめれば、第一シリーズは、一九七一年の段階で予見された「これからの日本」の「シラケた空気」をどう生きるか、が裏テーマになっている。これは前半の大隅ルパンも後半の宮崎ルパンも変わらない。共通しているのだ。
 ただ、宮崎駿は反逆には実利が伴わなければならないと思っているから(ロクに彼のインタビューを読んでいないが、作品を観ていたらたぶんそうだろうと思う)、もっと先の第二シリーズでの彼の手になるエピソード「死の翼アルバトロス」にしても、「さらば愛しきルパンよ」にしても、「倒されるべき悪」がきっちり出てきて、倒される。

 別の監督の話になるが、吉川惣司監督のアニメ映画「ルパンVS複製人間」においても、永遠の生命や美女など、「欲望」に固執しているのは敵対するマモーの方であり、ルパンは「夢を見ない」(本質的な欲望を持たない)存在である。
 そんな「欲望を持たない」ルパンが、ハタからは「シラケて見える」のかもしれない、というのは私の妄想なのだが。

 これが七十七年から八十年までの「第二シリーズ」になると、前作から五年の間に世の中は大きく変化し、ルパンの盗みは彼個人の退屈しのぎや欲望によるものというよりは、もっと明るく楽しい、他人(視聴者)にとっての「ショー」と化す。ルパンの盗みの理由も「不二子に頼まれたから」という設定が頻出するようになり、「不二子の心を得るために盗みに精を出す」という、明るく楽しい展開が多くなった。
 また第二シリーズの「世界を股にかける」という設定は、「第一シリーズ」でまだ「日本」を舞台にしていたがためにあった同時代性を払拭し、ステロタイプ化された「各国」でのルパンの活躍は、「政治の季節」であった六十~七十年代をとうに忘れたものとなっていった。
 うがった見方をすれば、第二シリーズのルパンが駆け巡っていた「世界」は、冷戦による平和が保証されたテーマパークのようなものだった。ときおり米ソ対立の話も出てくるが、それはあくまで盗みの舞台づくりにすぎなかったりした。

 そんなわけで、第一シリーズのファンが何を追い求めているかと言えば、それはルパンの同時代に対する「諦念」であった。諦念から来る、乾いた笑い、そしてハードボイルド。
 しかしあきらめきれない宮崎駿は、「希望」を美少女に求める。美少女とは「もろい、はかない正しさ」の暗喩であり、「権力」の対極に位置する存在だった。別の言い方をすれば「優しい権力」と言ってもいいかもしれない(だれが言ったか知らないが、「かわいいは正義」というのは要するにそういうことだろう)。
 それを敏感に感じ取ったのは、ほかならぬ七十年代、八十年代のオタクだった。だから「カリ城」の呪いは、永遠なのである。

 一方、六十年代スパイアクションブームの尻尾を持っていた「大隅ルパン」のイメージは、ルパンと敵との虚々実々の駆け引きの背景にある「組織や闇社会の掟に翻弄される諸行無常の感覚を保持していたが、八十年代からバブル崩壊までのカラ騒ぎの中で、だれもが、どうしても再現することはできなかった。
 それは当然でもあった。人々は、たまたまエアポケットのように出現した「中流幻想」に何の疑いも抱いていなかったのだから。もともとの「ルパン三世」が背後に持つスパイ、殺し屋、ギャングの世界は、「なんとなく憧れていた異世界」としての役割を喪失してしまったからである。
 同時期に、中村主水を主演とする「必殺シリーズ」がホームドラマ化していったのと、まったく同じ流れであったのである。


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【テレビアニメ】・「ルパン三世 第二シリーズ 第108話 1979年11月5日 『哀しみの斬鉄剣』」

・その1
ルパン、次元、五右衛門の三人は僻地の温泉で慰安旅行としゃれこんでいる。

ルパンが混浴温泉、次元が草原の中でクラシックを聴きながらバーボンを楽しむ間、五右衛門だけは剣の修行に余念がない。

そこにかわいい女子高生がやってくる。「時代劇の主人公みたい」と五右衛門を笑うその少女は、刀鍛冶の祖父の「斬鉄剣以上の刀をつくりたい」という悲願のために五右衛門の斬鉄剣の秘密を狙っていた。

私にとっては、2016年から観ると、問題作。

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【アニメ映画】・「ルパン三世 ルパンVS複製人間」

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ひさしぶりに観る。もともとまあ「普通」くらいの好き度の映画なのだが、ルパンというともはや「カリ城」しか知らない世代もいそうだし、公開時期が近い「カリ城」と対比する意味でも、重要な作品だと思っている。

ただやはり何回観ても「ん?」と思うところがある。

今回再見して感じたのは、マモーの「生への妄執」と、ルパンの「長生きしたってろくなことにならねぇ」的な人生観の対比がうまくできていないというところだ。

てっきりマモーは、不二子と結婚してその子孫を、自分自身として育てていくのかと思っていたのだが(この辺は『家』を最重要なものとみなす「カリ城」と混同していた)ぜんぜんそんなことはなかった。本当に、ただ美しい不二子に惚れていただけだった。

一万年も生きてきたマモーが、過去の配偶者とどう生きてきたかなどは、まるごと端折られている。この辺、もう少し説明が欲しい。

もうひとつ、マモーの行動で謎なのが、「賢者の石」でクローンの強化ができないと知ったマモーが、人類を滅亡させようとする点である。ここの意味がまったくわからない。

「人類の歴史に干渉してきた」と作中で言っているが、人類そのものにルサンチマンがあるわけではなさそうだ。だから、マモーが人類を滅亡させるのは謎だ。
そんなわけで、本作のルパンとマモーは激突しそうで、微妙にすれ違う。ただし、ルパンが聖女のような女性ではなく、いつ裏切るかもしれない不二子に固執する、というのは大変良いと思った。

「裏切りは女のアクセサリー」とは、ルパンが第一シリーズで言った言葉だが、本作でもそのとおりなのだろう。そして女性のわがままや裏切りに手を焼きながら(当然、他の女性にも手を出しながら)死期が来たら死ぬつもりなのだろう。

一方で、マモーの不二子に対する固執は「美の賛美」と「自身の孤独の補てん」という以上の意味はないように思える。というよりも、映画冒頭で不二子のシャワーシーンをカメラでのぞき見したり、ルパンと不二子が乳くりあっているシーンを観て怒鳴りつけたりするところを観るに、マモーが執着しているのはおそらく「セックスの能力」なのだろう、と少々勘ぐってみる。

マモーの「永遠の生命」は、おそらく「永遠のセックス能力」の暗喩なのだ。
(というように、私が勝手に妄想しているわけです。)

だからマモーが人類の歴史に干渉しているとか、核ミサイルで人類を滅亡させるとかいうのはマモーにとっては付随的なことにすぎない。要は不二子さえいればいいのだ。しかし一緒にいるだけではダメだ。

年老いたマモーはたぶん、「若い女はセックスの快感でつなぎとめないといけない」と思い込んでおり、だからこそ「賢者の石」に執着したのである。

最終的には、不二子すらもあきらめ、宇宙に旅立つことになるが、人類を支配することにも対して興味がなく、永遠の生命も手に入らない以上、配偶者もいない状態で地球に居続けることはプライドが許さなかったのだろう。

つまり、ルパンが言うように、彼は「やっと死ねた」のだ。

しかし、ここまで書いて、本作はマモーの妄執が「セックス能力の暗喩」からズレていること、マモーの欲望とルパンの欲望が微妙にズレていることこそが、重要なのだと思いなおした。
そうでなければ、本作はただの「若いカップルを引き裂き、ヒロインをわがものにしようとするヒヒジイイ」という陳腐な図式で終わってしまうからだ。

ルパンという男とマモーという男が、それぞれの欲望を追及していく中で、ある瞬間に決定的に激突する。
それがいいんだなあ、と思った次第(ぶっちゃけ、展開としては多少中ダレしますけどね)。

なお、掘り下げられてはいないが、若いルパンがまだ「女性」に幻想を持っているのに対し、作中で妻子がいるとされる銭形は、女性に幻想を持っていない。そして、だからこそ「世紀の盗賊ルパン」を捕まえることに、あれほどまでに血道をあげているのではないだろうか?

世界を飛び回っている銭形だが、本作だけを観るかぎり、本当は家に帰りたくないのかもしれない。

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サイボーグ

ツイッターで「サイボーグ009VSデビルマン」をボロカスに言うツイートが流れてきました。

とくに絵柄がひどいという。
この人は「絵柄と設定を009は1966年版、デビルマンは1972年版にすべき」という提言をしていました。
えっ、でもなんで「1966年版」と「1972年版」なの?
それをベストと思っているのはこの人だけじゃないのかなあ。
009だってデビルマンだって、初期から後期まで、相当に絵柄の違いがあるわけで。
いろんな絵がありますよ。
批判している人の好みの問題じゃないのかな?

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【アニメ映画】・「サイボーグ009VSデビルマン」

時代的には「サイボーグ009」は「ミュートスサイボーグ編」の直後、「デビルマン」は「ジンメン編」の直後という設定で、双方が共通する巨悪に立ち向かう。

お祭り映画として、とんでもなく良い出来。主要人物全員の見せ場をまんべんなくつくり、なおかつストーリーもそれなりに工夫されたものになっている。
このような企画で、これ以上のクォリティを求めるのはちょっと無理なんじゃないかと思えるほどである。

事前の宣伝としては、なんとなくどうしても原作者本人のコメントが聞ける「デビルマン」の方がまさっているような気がした。石ノ森プロが探すべきは、「アメトーーク」にも出られるような、石ノ森作品をすばやく説明でき、なおかつタレント性のある人なのではないか、などと思った。

なお、同じ話が繰り返し描かれていると言える「デビルマン」と、そうではない「009」とはちょっと違うので、「009」については章を改めて解説したい。

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【書籍】・「宇宙戦艦ヤマトをつくった男 西崎義展の狂気」 牧村康正、山田哲久(2015、講談社)

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ご存知、「宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサー、西崎義展の評伝である。
内容は、ひと言で言って「映画やマンガに出てくる典型的な辣腕プロデューサーが現実にいて、なおかつ彼はかなりダーティーなこともやっていた」ということに終始する。
彼の「アニメ業界人」としての異質さは、ヤマトを一度でも好きになったことがある人なら感じるところでもあり、その背景については非常に興味深かった。
少しでもヤマトが好きなら、一気読みしてしまう面白さである。

以下に語るのは、そういう「才能はあったがワンマンでダーティーな西崎義展」という面とは無関係だ。
ぶっちゃけ、「彼にストーリーづくりの才能はあったのか?」という私的な疑問である。

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【アニメ映画】・「ベイマックス」

地下のロボットファイトにうつつを抜かす天才少年を、兄は輝かしい新技術の研究開発が行われている大学に連れて行ってやる。
それに少年が魅了され、目標を見出した矢先、大学に火事が起きて、兄が死んでしまう。
「人を救うロボット」ベイマックスを残して。

「事前の広告が内容を正しく伝えていない」、「ディズニーのPC力のために日本のエンタメは置いて行かれる」といった、本編にはあまり関係のない情報ばかりがネットで入って来てしらけてしまったが、よくできた映画ではある。
ただし、あんまりPC、PC、いろんな人がうるさいのでその辺のことについて書いてみたい(ネタバレあり)。

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【アニメ】・「LUPIN the Third -峰不二子という女-」(ややネタバレあり)

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2012年に放送。
峰不二子をキーとして、ルパン、次元、峰不二子が出会っていく過程を描く。つまり、時間的には第一シリーズより前の設定となっている(五ェ門も出てくる。彼は第一シリーズでルパンと初めて出会うんだよねそう言えば)。
観るのがここまで遅れてしまったのは、放送前から「どう非難されるか」がわかっていたからだ。
まあ、他人がどう批評しようが知ったことではないはずだが、つまらん批評ほど視聴をなえさせるものはない。

で、結論は面白かった。
どれくらい売れたかはわからないが、こういう作品がないと「ルパン三世」というコンテンツは延命できない、と私は考える。どれくらい利益を出したかは知らないが、役割としてこういう作品は必要なのである。
もちろん、作品として面白かったです。

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