テレビ

【ドラマ】・「小野田さんと、雪男を探した男~鈴木紀夫の冒険と死~」

ドラマ「小野田さんと、雪男を探した男~鈴木紀夫の冒険と死~」
脚本:仲井陽(ドラマパートのみ?)

29年間、終戦後もフィリピンのジャングルに身を潜めた小野田元少尉(塚本晋也が演じている)。
彼は、さまざまな経緯の果てに1974年、帰国する。それは二年前の横井さん帰国とともに、当時の日本人に衝撃をあたえた。

ここまでは当時小学生の私も知っている。私の父親は戦争に行ってモンゴルで捕虜になった経験がある。子供の頃は、しょっちゅうその話を聞かされた。新宿の西口には、おそらく偽物だろうが、傷痍軍人がいつもいた。
 74年にはまだ戦争の傷跡が、そこかしこに残っていた。

 しかし、小野田さんが、一人の日本人の若者と接触し、彼の導きによって初めて帰国を決意した、ということはまったく知らなかった。
 その若者が、鈴木紀夫(演じたのは青木崇高)。大学時代に日本を飛び出し、三年以上もの間、海外(主にアジア、アフリカ圏)を放浪した彼は、帰国後、小野田さんが再三の投降勧告にもまったく耳を貸さない状態をテレビで見たため、「自分なら連れてこられるのでは!?」と思ったというのである。
 そして、鈴木紀夫の無謀な試みは成功し、小野田少尉と接触した彼は、夜通し話し込む。そのうち、小野田さんから「上官の命令が直接下されれば、それに従う」という言質を取る。そしていったん帰国、かつての上官であった人と再びフィリピンに赴き、小野田さんは日本に帰国することになる。
 帰国後、大きな話題となったが、わずか半年で小野田さんはブラジルに移住。
 こうして一連の「騒動」は終息したかにみえたが、ドラマの焦点は、この後、青年・鈴木紀夫の「その後」に絞られていく。
 彼は、「小野田さんと接触した鈴木紀夫」ではなく、一人前の冒険家になることを渇望した。そして、ヒマラヤの「雪男」を探すことに情熱を燃やしていく。

 ……というような内容の、ドラマパートとドキュメンタリーパートを合わせたドラマである。
 あまり期待していなかったのだが、見始めると止まらなくなってしまった。

ネットで調べると「小野田さんは日本の敗戦を、実は知っていた」という話はよく出てくる。トランジスタラジオを持っていたというから、情報は入ってきていた。本作の中でもそう言っている。
しかし、このドラマでは「事実は知っていたが、それを敗戦だと解釈しなかった」というふうに小野田は述懐する。人間は信じたいものを見てしまうのだと。
 鈴木紀夫は「そんなものか」と思うのだが、雪男を追い求め、ヒマラヤに何回も行くうちに、「自分自身が観たい雪男」という幻想に取りつかれてゆく。

おそらく、このドラマは小野田元少尉と鈴木紀夫、双方の遺族の許可のもとにつくられているはずだ(鈴木紀夫に関しては、遺族や仲間たちが多数、ドキュメンタリーパートに出演している)。
そのうえでの、二人の心情に関する大胆な解釈と、その表現に驚かされる。
というのは、鈴木紀夫は、1986年の最後のヒマラヤ遠征で雪崩に会い、死んでしまうのだが、その死の瞬間、彼の幻想世界に、小野田少尉が兵装で現れるのだ。
「いつまでも幻想を追うな、帰ってこい!」と。
これは、かつてのフィリピンにいた小野田と鈴木紀夫の立場が、完全に逆転したことを意味する。

軍国教育に忠実だった(と、このドラマでは解釈されている)小野田と、戦後教育のもとで育ち、おそらく「宇宙船地球号」的な考えを持っていた鈴木紀夫という、まったく違う環境で育った二人の考えが、一瞬合致するのだ。
「観たいものを観てしまう」という、危険性において。

ひさびさに、ドラマを観て興奮してしまった。

なお70年代に、「横井さんや小野田さんが隠れていたのだから、未確認生物もいるだろう」という発想は、わりと自然だった。
通常は笑い話とされることが多いのだが(よくよく考えれば発想が飛躍しすぎている)、そうした「時代の雰囲気」をここまで真摯に突き詰めて見せたのは、本作くらいなのではないか。

なお、現実に小野田元少尉は、鈴木紀夫を気にかけていたようだ。
彼の死後、小野田は追悼のためかヒマラヤに登っているから。

なお、私は小野田さんを過剰に英雄視するという立場ではありません。

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【テレビお笑い】・「みなさんのおかげでした 最終回」

テレビ

「みなさんのおかげでした」最終回
10分遅れくらいで、思い出して視聴。
「野猿」結成から大ブレイク、解散まで、後半はビッグゲストとして松田聖子を呼ぶという、「うたばん」のパロディなのかな? 歌番組的な構成。
最後は今のとんねるず二人が歌う「情けねぇ」で締め。

個人的に私の「とんねるず」に対する興味は90年代前半くらいまで。
電気グルーヴが90年代初頭、自身のオールナイトニッポンでかなりとんねるずをディスっていた記憶がある。もともと嫌いだったのか、そうでないのか知らないが、90年代初頭にすでにとんねるずは「ヤバいくらいの最先端」ではなくなっていた、という評価なら、当時の電気と私は同意見である。

そんなわけで、90年代後半から2000年初頭の「野猿」大ブームの頃は、まったく知らない。「男のアイドル(?)」に興味がゼロだったこともあり。
「裏方を表舞台に引っ張り出す」という手法も、「オールナイトフジ」などの番組を知る自分にとってはすでに何周かした手法であり、そこで興味を持てるものではなかった。

番組最後の曲が「情けねぇ」(1991年)だったのは、単に「ラストっぽいから」以上の意味はないと思われる。
この歌については、当時ナンシー関が「長渕剛のパロディソングであるはずなのに、何も知らない層が『いい曲』などと言って誤解するのが困る」と書いていた記憶がある。
しかし「情けねぇ」が本当にただのパロディソングだったのかには疑問がある。というのは「雨の西麻布」も、パロディ演歌(正確にはパロディ歌謡曲?)であったのに対し、マジメに受け取っていたファンも多かったからだ。
秋元康とそのブレーンは、リリースするものを「マジとしても、パロディとしても受け取れる」というしかけには意識的だったのではないか。
そしてナンシー関もそれに気づいていて、あえて「情けねぇを本気で支持する層」を見て見ぬふりをしていたのだと思われる。

むしろ、秋元康が突然(のように思える)書く、プロテストソングというか社会批判、愚民批判みたいな歌詞はいったい何なのだろう(「サイマジョ」、「不協和音」しかり)。
そっちの方について考えるのは、面白いかもしれない。

なお「矢島美容室」に関しては、まったく意味がわからなかった。ちなみに映画版は地獄のような出来である。観ると死にます。

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【お笑い】・「ウーマン THE MANZAIでの漫才問題」

「ウーマン村本は、ツイッターなどでの発言は問題があるかもしれないが、お笑いでは実力がある」と私は発言し続けてきたのだが、THE MANZAIの「社会問題を題材とした漫才」を観て、
「」うーん、これはちょっと……」
と思いました。

村本が、「なんか、政治とか語る方向に行きたがっている」ことは、彼のやっているネット番組(未見ですが、テーマなどは知った)や、ツイートなどから明らか。
しかも、たぶん本当は、別にそんなに興味ないんですよ。
「そこに、『評価される、金になる』芽があるから」というだけのこと。
実際、「ファンをすぐ抱く、とかゲスぶって発言していたけど、それで受けるかと思ったら受けなかったからやめた」ということも言っています。

(なお、村本に「政治発言に関わるのは仕事としてアリ」と思わせているのは、ワイドナショーのダウンタウン松本であることはほぼ間違いがなく、松本の罪も重い。)

ただし、村本がテレビの「自主規制的な雰囲気」を意識して、「テレビでやる漫才ってこんなものだろう」と思っている視聴者の「忖度」を裏切ろうとしてあの漫才をつくったのならば、それだけは評価してやってもいいとは思っています。
これも一種の(笑いを生み出そうとする)「裏切り」ですからね。

でも、それだけのことです。
この漫才が評価されるなんて、正直、視聴者チョロすぎるでしょう。
この手のものが流行ったら、村本を増長させるだけで、彼以外にはいいことは何もありません。

ラサール石井が、ツイッターであの漫才について「中川パラダイスのアシストがすばらしい」とか書いていたけど、
私には往年の「うなずきトリオ」の何百倍もの「漫才ロボット」としての悲しみしか感じませんでしたけどね。

あの漫才は、「漫才」としてはただ「床屋政談」を言っているだけで評価できないし、「コメント」としても、やはり「床屋政談」だから、評価できません。
「賛否両論あっていい」みたいな意見もありますが、あれが賛否両論になること自体、日本の知性はどうなってしまったのか、と震撼します。

村本は(松本人志にも同じにおいを感じますが)、「知性」とか「知識」に関するリスペクトが、根本的に欠けているのも気に食わないですね。
知性、知識にリスペクトはないけど、どこか追い落としてやろう、と虎視眈々としている感じです。
芸人なんだから、「偉そうな政治家や文化人や大学教授なんかくそくらえ!」と思っているならそれでぜんぜんいいと思いますが、テレビで彼らを笑いものにするということと、彼らの言っていることに妥当性があるかないか、ということは、まったく別問題ですから。

それと、村本はツイッター上でゲイの人に対し、「被害者ぶるな」みたいなことを言っていたと記憶しますが、そういう彼の「被差別者だって別の局面で差別しているだろう」という、中学生みたいな意見が、彼の知名度によって拡散されることに私は危機感を覚えます。ま、そう言われればそうなんでしょうけど、そうならないようにがんばろう、ってのが「差別問題を解消する」という姿勢の出発点なんじゃないんですか?
もちろん、そこには「まあTPOで、これくらいのことは言ってもいいだろう」という「許容範囲」や、「人間の心の中の差別意識を完全に消すことはできないから、表面上だけでもそういう態度を取りましょう」(「礼節」ということです)、という考えが付随してくるわけですが。

「被差別者だって別の局面で差別しているだろう!」(それはそれで真実にしろ、そういう意識を織り込まない反差別運動があるとは思えない)という、低レベルなことを指摘して「言ってやった」と思っているであろう村本がつくった漫才に対し、「よくぞ言った! 彼はマスコミの怠慢や自己保身に対する反逆者だ!」と評価している人がいるとすれば、せめて村本のふだんの発言くらい、ググっておけよ、って思いますね。

漫才はプロパガンダではなく、表現ですから。そのことを知らない人たちは、恥じてほしいです。

かつて、小林よしのりのゴーマニズム宣言に対し、外山恒一だったか、
「あれは『俗情との結託』ではない、『俗情』そのものだ」
と言っていましたが、
ウーマンラッシュアワーのTHE MANZAIでの漫才にも、まったく同じことが言えます。
しかも、かなり知的レベルが高いと思われている人の中にも(いや、「だからこそ」なのか?)、あの漫才を評価していると知って、暗澹たる気持ちになりました。

たとえば、保毛尾田の出演が不適切ということであれば、きちんと外部から批判が来るし、擁護する側もいましたが、それほど低レベルな議論にはなっていませんでした。

しかし「だれもが、まあまあ首肯できることを漫才で言う」となると、(精査すれば間違っているかもしれないが、あくまでもパッと聞いた限りでは「まともだな」と思える発言を漫才でやるとすると)だれも反論できないし、批判すればするほど、する側が言論弾圧している、みたいな構図になってしまいます。

こういう「漫才における」村本の態度が、正しい意味での「反知性主義」というのではないか、と、(もちろん批判的な意味で)なんとなく思えてもきます。

町山さんも村本と仲良くなったみたいで立場上、批判できないのかもしれないし、漫才のことがよくわかっていないのかもしれませんが、あの漫才を評価しているとしたらヤバいと思いますね。

それこそ、オリラジの中田あたりが「知性」の立場からビシッと言ってやらないものか。
中田の方が後輩だから、無理かなあ。

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【お笑い】・「ジャルジャル問題」

【M-1】映画「火花」を見て、ジャルジャル福徳の涙に思うこと(ナガの映画の果てまで)

上記のブログのエントリ、ツイッターなどで評判が良いので読んでみたが、私は少々異論があるのでその点について書きます(全体通して、大きな違和感があるわけではないのですが)。

(引用開始)
 (ジャルジャルの)直前に登場し、上沼恵美子に酷評されたことで話題になっている「マヂカルラブリー」がやったのは漫才かどうか怪しいラインのネタでした。2人の会話のかけあいを基調とする漫才というシステムからはあまりにもかけ離れていました。だからこその低評価だったとは思います。
(引用終わり)

 いやああいう漫才、昔からありますよ。根本的に上記の引用部分で疑問なのは、M-1出場者は準決勝までに数度の審査を経ているわけです。本番のM-1の前にね。ということは、数度の審査の中で、決勝までの審査員が「漫才というシステムからかけ離れているネタだけど、まあ受からせちゃおう」というような話があったのか、なかったのか? 決勝にあげても低評価だろうと、準決勝までの審査員が思って受からせているのか? ということです。
そんなことはないでしょう。
準決勝までの審査員と、決勝の審査員の好みが著しく異なる、ということも考えられますが(R-1ぐらんぷりなどは、「そういう感じ」をすごく感じるときがある)、そこは微妙なところだと思います。

私が今回のM-1の「マヂカルラブリー」を見て連想したのは、2006年に決勝に出た「変ホ長調」です。言うなれば飛び道具、ひっかきまわし役だったのではないかということです。
(この間のキングオブコントにおける、「にゃんこスター」の役割です。)

で、「変ホ長調」もそれほどハネなかった。松本も、どこか「特別枠」みたいな、悪く言えば「みそっかす」みたいな扱いをしていた。
M-1では、こういう「ひっかきまわし役」が毎年出ているわけでもないとは思いますが、飛び道具的な漫才は、審査員に受けが悪いですね。
それは今回の「ジャルジャル」の順位にもつながっていると思います。

今回の「ジャルジャル」のネタは、コントでやっていた「おばさんを、学生が『おばはん、おばはん!』と展開もなくずっと言い続ける、というネタや、擬音をゲームのように言い合う、というネタに似ていると感じました。
そして、それらの方は実は「コント」としては「普通に成立している」んです。
「普通」というのとはちょっと違いますが、「先進性がある」というのとは違っていた。

だから、今回のジャルジャルの漫才が新しいとしたら、問われるのは、
「コントでまあまあ普通に(それでもとがったネタですが)成立していたネタが、なぜ漫才だと斬新なのか?」ということではないかと思います。

私もジャルジャルが努力家だということは否定しませんが、私個人としては、「バカルディがさまぁ~ずになり、海砂利水魚がくりいむしちゅ~になって捨てて来たこと、ポップ化への道を歩んだことを、ずっと拒み続けている」というふうにしか見えないんですよね。
もちろん、「同じようにしろ」とは言いませんが、最初から「とがっている」ということで、いばらの道を歩んでいるのだから、それはこういう結果だろう」というふうに、観えてしまうんです。

繰り返しますが、ジャルジャルが努力家で、芸人として真剣にいろいろなことに取り組んでいることは認めます。

ただ個人的には、リンク先の文章はあまりにウェットすぎて、ちょっと納得できませんでした。
で、これはM-1そのものにまつわる「あまりにも真剣すぎる」という、番組の特性から来ているのだとも思いますけどね。

だとすれば、なぜM-1のファンは、リラックスして笑うものである「漫才」を、過剰なまでに真剣に観てしまうのか」という疑問が持ち上がってくるのですが、それはいつかまた。

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【テレビ】・「『プロジェクトX』の功罪」

「プロジェクトX」が経営者たちに「仕事の為に社員が徹夜したり無理すると凄い成果が出る」という考えを植え付けてしまった可能性について、というのがトゥゲッターにあったので、私がこの番組について思うところを書きたいと思います。

「プロジェクトX~挑戦者たち」(2000年~2005年)は、今で言う「日本スゴイ」番組の嚆矢、ということは言えると思います。
つまり「終わりの始まりだった」という解釈もできるのですが、私はひとつの番組に、今の経営者が影響されてブラック企業があるというような見解は取りません。これでは「エロマンガの影響で性犯罪が増える」というロジックとまったく同じです。
まあ、少しは影響はあったかもしれませんが。

70~80年代にはイメージとして「高度成長期のサラリーマン」とは、「仕事、仕事で家庭を顧みない父親像」、「日本は文化的なことは輸出せず、自動車や家電(だけ)を輸出し続けて来た」というのが「ベタなおとしどころ」でした。
「日本のアニメやマンガは世界一」などと、俗に言われるのはこの頃のコンプレックスの反転、という側面も、確実にあります。

とくに80年代は、一億総中流、という意識の中で、「自由を謳歌しよう!」という雰囲気がみなぎっていましたからね。
「いい大学を出ていい会社に入ることが幸福なのか?」みたいな問いも、「ベタ」としてあった時代です。
つまり「高度成長期のモーレツサラリーマン」は、「忘れ去られるべき存在」ですらありました。
確かに「24時間戦えますか」というCMが流行ったり(1989年)、「むちゃくちゃ働くほど偉い」という価値観はその後もあったんですが、同時に「5時から男」なんてコピーも流行った時代。仕事もレジャーも恋愛も、全体的にいろんなことが膨れ上がったのが80年代中盤からバブル崩壊時くらいまでで、「ひたすら仕事」というイメージの高度成長期とは、やはりニュアンスが違うんです。

で、そうした「高度成長期のサラリーマン」のベタなイメージに生命を吹き込んだのが、「プロジェクトX」だったと言えます。
70年代~80年代は、「顔の見える」スターがひたすらに持ち上げられていた時代です(90年代はちょっとわからない)。当然、その裏にはスタッフがいるのですが、それはあくまで黒子として認識されていた。
高度成長期に開発された商品だって、だれがつくっているかなんて、業界以外の人は知らなかった。
そうした「高度成長期にがむしゃらに働いてきた人々」の「顔」を見せた、一個の人間としてクローズアップした、ということは、この番組の功績のひとつだと思います。

それと、「プロジェクト」という観点ですね。一人の天才ではなく、チームで成し遂げた仕事を番組で取り上げた。
そうした部分も、非常に大きかったと思います。
その後始まった「プロフェッショナル」では、また「すごい人」にスポットが当たるように戻っちゃってますけどね。よくも悪くも。

事実をねじまげたのは問題ですが(私が印象に残っているのは、あさま山荘事件でカップラーメンを無視したこと)、それまでのエンターテインメントにおけるオトウサンたちの「扱い」を観ると、「プロジェクトX」のヒットは必然だったし、「いい面も悪い面もあった」というのが、妥当な評価じゃないでしょうか。

たとえば産業史とかをやっている人からするとムチャクチャな番組に思えるかもしれませんが、テレビの視聴者はそういう人たちが当たり前に思っているところにまで、まったく到達していなかったんですよ。前述のように、「プロジェクト」の興味深さというのは理解されづらかった。そこに目を向けさせたというのは、やはり意味があると思います。

なお、「無理」の部分ですが、「徹夜なんていやだし、非人間的」と思っている人でも、がむしゃらにがんばっている人を見るとやはり感動してしまうことにこそ、目を向けるべきだと思いますね。
たとえば「ブラックジャック創作秘話」なんて「手塚プロってムチャクチャだな」って思うんだけど、やはり感動してしまう。
「プロジェクトX」を批判して、他の「無理や無茶をしている人たち」に感動してしまうとしたら、それは矛盾なのだ、ということにはしっかり向き合うべきだと思います。

以上、「プロジェクトX」についてのフォローでした。

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【テレビお笑い】・「今さらジュニアについて」

今さら千原ジュニアを賞賛しても仕方がないと思われるかもしれないが、やはり第一線の人は第一線の人だな、と思わされるのは、彼が「素人にムカついた話」がものすごく興味深いということだ。

覚えているだけ列挙する。


・おばちゃんに「握手して! ファンなんです!」と言われ、握手するとドヤ顔で「おにいちゃんの。」と言われた。

・ボクシング会場で、おっさんから「握手して!」と言われて握手したら、「ぜんぜんうれしそうじゃない!」と言われる。

・よく行く石垣島の地元民の若い女性で、「芸能人と仲良くすること自体が屈辱」というような、謎の対抗意識を持った人がいる。

これらについて、ジュニアは、「不快だ」ということが言いたいのではなく、「こっちがどんな反応をしたら正解なのか?」と当惑しているのだ。

これらのエピソードに共通するのは、一般人の芸能人に対する嫉妬心だ。

「なんとかして芸能人をぎゃふんと言わせてやろう」という意識がかいまみえるのである。

昔は、「芸能人が嫌いな一般人」は、わざわざ芸能人に近づいてくることはなかった。無視するか、ひどい場合は罵声を浴びせるというようなことがあったかもしれないが、とにかく態度としてはストレートだったように思う。

それが、最近の一般人は芸能人に近づくことにあまり緊張感がない。なめているとも言えるし、こじらせているとも言える。

私が「ジュニアは一流だな」と思うのは、彼が「芸能人をぎゃふんを言わせてやろう」と思っている人たちを、「絶対的に芸人に勝てない素人がイキってきて不愉快」という文脈におさめているのではない、ということだ。

それなら、ただの芸人の自慢話である(こういう人は、けっこういる)。

そうではなく、「芸能人に悪意を持って近づいてくる素人」に対して、当惑している、というふうに、中空に放り投げるから感心するのである。

そうすることで、一般人の虚無感みたいなものが浮かび上がってくる、と私は思うのだ。

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しくじり先生を見て

朝からイヤなものを観た。
昨日か先週、やっていたと思われる「しくじり先生」の成田童夢の回。
「しくじり先生」もけっこう都合よく物語をつくるから、どこまで本当かわからないがいちおう本当のこととする。

まったく知らなかったが、成田童夢、今井メロ(と、もう一人弟がいる)の父親はものすごいスパルタで、五歳の頃からスキーを猛特訓、高校にも行かせなかったという(父親は京大出身)。

童夢とメロは、トリノ五輪の直前でコーチであった父親と絶縁。
(スポンサー契約で自由になる金があったから、独立できた模様)
とくにメロは、離婚した母親の旧姓に戻している。

童夢の結果は予選落ちで惨敗。この敗戦後に初めてトリノで父親と再会し、叱られてホッとしたという。
帰国後、さまざまなバッシングにあい、五輪後最初の大会で大けがを負い、引きこもりとなり、スノーボードの現役も引退してしまう。

苦労の末、世間知らずだった自分を認識し、五輪に出られたのも父親のおかげと思い直し、今はアニメやマンガの仕事がしたい、と努力している最中だという(どのくらい儲かっているかは不明)。

ウィキペディアを観ると、父親の経営するスノーボード教室のコーチをやっているそうで、主な収入源はそこからかもしれない。
童夢自身は「アウトデラックス」などでよく見ていたが、何をやっているかサッパリわからなかったことからの予想である。

しかしおかしいのはやはり父親だ(「しくじり先生」のみの情報による)。
「スポーツ選手の親がスパルタ」というのはよくある話ではあるのだが、童夢が「友人にカードの暗証番号を教えていたために、大金を持ち逃げされた」という事件は、スパルタとかそういうの以前の問題である。
私は、父親が子供たちに常識的なことを教育していなかった可能性は大きいと思っている。

また、童夢こそ、現在父親とともに仕事をしているらしいが、おそらく今井メロは絶縁しているままだろう。

今井メロの方のウィキペディアを観ると、もうメチャクチャである。彼女の中の何かが壊れてしまったとしか思えない。
ヌードになったり整形したり、タレント活動をしているのは知っているが、そんなに売れているわけでもないし、それ以前は生活保護を受けていたこともあったという。
ということは、兄の童夢と違い「何が何でも父と絶縁したい」という意志の表れとしか思えない。
メロの自伝も、amazonレビューでは評判が悪い。自身の生んだ子を貧困の中で育てているということで「DQNの親がDQNの子を産む負の連鎖はなんとかならないか」的なことを書いている人がいたが、メロの父親が京大卒ということは、メロの代から「DQN」になってしまったわけで、「格差からDQNが出現する」という社会的な問題とは少し違うようである。

あまり精神分析もどきなことは書きたくないが、メロの場合、あらゆることが父親への反抗のように見えて仕方がない。
こういう、メロみたいな「糸の切れた凧」みたいな人生を送っている人を見るのは、本当に辛い。

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【テレビアニメ】・「ルパン三世 第二シリーズ 第108話 1979年11月5日 『哀しみの斬鉄剣』」

・その1
ルパン、次元、五右衛門の三人は僻地の温泉で慰安旅行としゃれこんでいる。

ルパンが混浴温泉、次元が草原の中でクラシックを聴きながらバーボンを楽しむ間、五右衛門だけは剣の修行に余念がない。

そこにかわいい女子高生がやってくる。「時代劇の主人公みたい」と五右衛門を笑うその少女は、刀鍛冶の祖父の「斬鉄剣以上の刀をつくりたい」という悲願のために五右衛門の斬鉄剣の秘密を狙っていた。

私にとっては、2016年から観ると、問題作。

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【テレビお笑い】・「けなせば面白いのか」

- <褒め殺しよりも自虐がマシ?>アメトーーク「今年が大事芸人」は「今年消えそう芸人」にすべき(メディアゴン) Yahoo!ニュース個人的には録画を10回くらい繰り返して観た、最近のアメトーークとしては傑作回だと思ったが、たまたま読んだこのコラムではボロカスにけなされていた。
なかなか正反対の評価というのはないので、同じ論者の他のコラムも読んだが、アメトーーク「オリラジ同期芸人」とか、私が面白いと思った回をやはり全否定。
逆に、この人は私がまったく評価しない「ホリケンふれあい旅」は絶賛している。ただし、ホリケンの旅先でのふるまいが、「素」であれば価値はない、という妙な評価の仕方だ。
「なんで弁護士がお笑い論を?」と思ったが、プロフィールで「元ハガキ職人、元ファミ通町内会長」ということで、それをバックボーンとしていることはわかった。

私が常々感じているのは、「素人が偉そうなこと言うな!」と最も言われがちなのが「お笑い評」だということ(「おそ松さん」の「イヤミの学校」はその典型)。だから、この論者にも「余計なこと言うな」とは言えないんだが、にしても、ハガキ職人とは思えないほど文章が固い。何か大学教授の文学論を読んでいるような……。
この人が主張する「けなされた方がおいしいのだから、(番組の演出上)けなせ」というのも、今のテレビのお笑いにどこまで通用するか。
「アメトーーク」は、今、「出演すること自体が名誉」な番組になっている。「アメトーーク」に出演が決まったこと自体が「おめでとう!」という雰囲気がある。そうでなかった時期もあるが、今は完全にそうだろう。
しかも「運動神経悪い芸人」のような、「本業」とは違う要素をいじる企画とも「今年は大事芸人」は違うから、「けなせば面白い」というのは、私としては同意しかねる。

まあ、自分が文章書くときの、悪いお手本としたいです(急転直下の結論)。

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【テレビお笑い】・「ザコシショウ、R-1優勝おめでとう」

R-1ぐらんぷりのハリウッドザコシショウ優勝に関し、「本来、あらびき的な、地下的な芸なのでメジャーに評価されてはいけない」みたいな意見があったのでひと言わしてもらう。
まず大前提として、テレビの演芸に「正道」のようなものは存在しない、というのが私の持論。
ドリフだって邪道と言われ、80年代中盤の欽ちゃんだってシロウトを起用していたから「芸」として評価されていたかは疑問だし、たけし、タモリは言うにおよばない。
もちろん、どこに出しても恥ずかしくない、格調高いポップな芸風、を私は否定するものではない。そんな、メジャーをおとしめてマイナーを持ちあげるような単純な話をしているのではない。
ただ、テレビに限って言うなら、テレビというのはゲテモノを評価し、吸収して現在がある(もちろん、飽きられれば無情に切り捨ててきたという裏の面もあるが)。
それをふまえずに、ただ小手先で「これはよい芸、これは悪い芸」などと、どうして評価できようか。

第二点。「こういう芸はマイナーなままでいてこそ光るんだ」みたいなこを言う人がいるが、私の知るかぎり、そんな状態で食えている人はだれもいないし、食えなくていいと思っている芸人もいない。
レアケースで、「バイト生活で、なおかつ特段売れたいと思っていない芸人」も存在するが、そういう人は本当に少ない。
ほとんどの芸人が、自分のやっていることで売れようと思っている。それは当然でしょう。

確かに、今回のR-1では、「きちんとした芸風を持った芸人」がわりを食った。横澤夏子、おいでやす小田、マツモトクラブなどは全員、小島よしおやサンシャイン池崎やゆりやんレトリィバァなどの「勢い芸」がつくった流れに押し流されて行ってしまった感は否めないが、それと「ハリウッドザコシショウは優勝してはいけない」というような物言いは、まったく次元の違う話である。

「これはメジャーではいけないよ」みたいなこと言うやつ、いったい何サマなのか。本当に腹が立つ。

だいたい、「これはあらびき芸であってえ……」なんてしたり顔で言う人、ウーマンラッシュアワーがまったく同じ芸風の漫才で、あらびき団にもTHE MANZAIにも出ていたことはどう評価するのか。
他にもどぶろっくやエハラマサヒロ、モンスターエンジン、世界のナベアツ、鳥居みゆき、あかつなども、そう芸風を変えずに出演していた。
「あらびき団」がやったことは「荒い芸」を評価するだけではなく、「本来ならメジャーシーンでもいけるのに、くすぶっている人たち」を採用していたという側面もあるのである。

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