映画

【映画】・「ブラックパンサー」ネタバレあり

映画「ブラックパンサー」ネタバレあり

すでに町山さんとかが、私が以下に書く観点から言及しているかもしれないが、映画「ブラックパンサー」は、私がここ10年くらいいろいろとスーパーヒーローものの映画を観てきて、「ウォッチメン」とか「スーパー!」みたいなメタ色の強いものを除いては、最も「普通の人々が一般的に考える『革命』を『ヒーローの敵』として描いた映画」として、実にスリリングだった。

どうやって落とし前を付けるのかと思ったら、
・敵(従兄弟)は復讐の鬼と化しているので、成功率が低く犠牲も多い武力革命を、その成否にかかわらず遂行しようとしている。
・従兄弟はもともと、政府を混乱させ破滅させるプロで、父の持っていた大義を体現することよりも、ソッチ寄りの悪人らしい
以上の二点で、主人公の大義に整合性を与えていた。

しかし、実は本作で最も思想的にてごわいのは、いちばん最初に殺されたおじさんだった。だからこそ、だれもがあのおじさんの亡霊に悩まされる。

そして、最後は彼の鎮魂のために主人公は行動する。

そう言った意味で、かなり面白い作品だったのだが、「アメリカっぽいな」と思うところもある。
それは、おじさんも、その息子も、「世界中の抑圧されたアフリカ系民族」のために戦おうと思っていたということ。

つまり彼らは抑圧された白人やアジア人のことはどーでもいいと思っているのである。
というか、かなり無邪気に「白人やアジア人は、すべて救われているじゃないか」と断定している(ように、私には思えた)。

ま、そんなところも面白いっちゃ面白かった。

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【社会全般】・「童貞。をプロデュース問題」

昨日、一昨日と、意にそわぬ形で大散財してしまった。
別にキャバクラでぼったくられたと思われても、十数万円もするトランスフォーマーのスタチューを買ってしまったと思われてもかまわない。
それと、心無いことも言われた。
辛い。

辛いついでに、現時点での「童貞。をプロデュース」をめぐる騒動について勝手に書く。
ちなみに、大前提として私はこの映画を観ていない。

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【映画】・「パンツの穴」(1984年)

鈴木則文監督。

雑誌のエッチな投稿欄が「原作」の、アイドル映画。
山本陽一、菊池桃子主演。
恋愛に、セックスに興味津々の少年(山本陽一)とその仲間たちが起こす騒動を、甘酸っぱい青春の思い出と、なぜかしつこいくらいに出てくる「ウンコネタ」でコーティングするという、知る人ぞ知る怪作である。
前に一度観ていたが、映画館でもう一度観る。

「パンツの穴」(1984年)を再見して「あっ」と思ったのは、80年代の男子向けなちょいエロシーンとして、男子が女子のプールを覗くところがあるのは当然として、主人公の少年が夜中に部屋で全裸でポーズを取っているところを、隣家の女性二人が偶然見てしまい、そのまま眺めているシーンが入っていること。

いわゆる「ポリコレ棒」的な意味での「ポリコレ」においては、男性が女性の風呂を覗くシーンを削除するとともに、女性が男性の風呂を覗くシーンも削除しよう、ということなのがこれでわかる。

……とこんなこと書くと「男性と女性、どういうことで性欲を喚起されるかは非対称なので、正反対のことを書いても仕方ない」とか、男性が自分の欲望を正当化するために「女だってそうだろ」と言いたいだけなのではないかとか、反論が山ほど帰ってきそうだが(たとえば女性側からの男性への痴漢、などはどう考えても少ないだろう。あ、痴漢って性欲じゃなくて征服欲からするんだっけ。でもSMもサド側からすれば征服欲ですよね? ややこしくなって気が狂う)。

でも鈴木則文の映画は、他の同時代の東映の監督に比べると、エロい映画でも、男性優位に描いてないことは確か。
処女とセックスすることしか考えていない佐藤まさあきの「堕靡泥の星」の映画化「堕靡泥の星 美少女狩り」にしても、いちおう原作がそんな感じだから嗜虐的なシーンはあるものの、「別の人に監督やらせれば、もっと殺伐としただろうに」と思ったし、
「温泉みみず芸者」は、セリフとして女性が男性優位社会に抗してきたことが描かれていた、はず(ヒロインのお母さんのセリフで。その内容は忘れた)。

話を戻すと、たとえ男性と女性の性欲が非対称なものだとしても、結局は合体(釣りバカ日誌)しなければならない、とはどういうことか、を考えないとわたし的には面白くならないんですよ。

男の二次元ヲタや腐女子が自分の存在をアピールするのもそれなりに大切ですが、そればかり言っていると、昔のおとーちゃんが「奥さんとセックスするとき、由美かおるのことを考えてます」とか、そんな小沢昭一 の小沢昭一的こころに落ち着いてしまうのです。

これでは、人間の霊的進化には程遠いのです。

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【アニメ映画】・「ルパン三世 ルパンVS複製人間」

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ひさしぶりに観る。もともとまあ「普通」くらいの好き度の映画なのだが、ルパンというともはや「カリ城」しか知らない世代もいそうだし、公開時期が近い「カリ城」と対比する意味でも、重要な作品だと思っている。

ただやはり何回観ても「ん?」と思うところがある。

今回再見して感じたのは、マモーの「生への妄執」と、ルパンの「長生きしたってろくなことにならねぇ」的な人生観の対比がうまくできていないというところだ。

てっきりマモーは、不二子と結婚してその子孫を、自分自身として育てていくのかと思っていたのだが(この辺は『家』を最重要なものとみなす「カリ城」と混同していた)ぜんぜんそんなことはなかった。本当に、ただ美しい不二子に惚れていただけだった。

一万年も生きてきたマモーが、過去の配偶者とどう生きてきたかなどは、まるごと端折られている。この辺、もう少し説明が欲しい。

もうひとつ、マモーの行動で謎なのが、「賢者の石」でクローンの強化ができないと知ったマモーが、人類を滅亡させようとする点である。ここの意味がまったくわからない。

「人類の歴史に干渉してきた」と作中で言っているが、人類そのものにルサンチマンがあるわけではなさそうだ。だから、マモーが人類を滅亡させるのは謎だ。
そんなわけで、本作のルパンとマモーは激突しそうで、微妙にすれ違う。ただし、ルパンが聖女のような女性ではなく、いつ裏切るかもしれない不二子に固執する、というのは大変良いと思った。

「裏切りは女のアクセサリー」とは、ルパンが第一シリーズで言った言葉だが、本作でもそのとおりなのだろう。そして女性のわがままや裏切りに手を焼きながら(当然、他の女性にも手を出しながら)死期が来たら死ぬつもりなのだろう。

一方で、マモーの不二子に対する固執は「美の賛美」と「自身の孤独の補てん」という以上の意味はないように思える。というよりも、映画冒頭で不二子のシャワーシーンをカメラでのぞき見したり、ルパンと不二子が乳くりあっているシーンを観て怒鳴りつけたりするところを観るに、マモーが執着しているのはおそらく「セックスの能力」なのだろう、と少々勘ぐってみる。

マモーの「永遠の生命」は、おそらく「永遠のセックス能力」の暗喩なのだ。
(というように、私が勝手に妄想しているわけです。)

だからマモーが人類の歴史に干渉しているとか、核ミサイルで人類を滅亡させるとかいうのはマモーにとっては付随的なことにすぎない。要は不二子さえいればいいのだ。しかし一緒にいるだけではダメだ。

年老いたマモーはたぶん、「若い女はセックスの快感でつなぎとめないといけない」と思い込んでおり、だからこそ「賢者の石」に執着したのである。

最終的には、不二子すらもあきらめ、宇宙に旅立つことになるが、人類を支配することにも対して興味がなく、永遠の生命も手に入らない以上、配偶者もいない状態で地球に居続けることはプライドが許さなかったのだろう。

つまり、ルパンが言うように、彼は「やっと死ねた」のだ。

しかし、ここまで書いて、本作はマモーの妄執が「セックス能力の暗喩」からズレていること、マモーの欲望とルパンの欲望が微妙にズレていることこそが、重要なのだと思いなおした。
そうでなければ、本作はただの「若いカップルを引き裂き、ヒロインをわがものにしようとするヒヒジイイ」という陳腐な図式で終わってしまうからだ。

ルパンという男とマモーという男が、それぞれの欲望を追及していく中で、ある瞬間に決定的に激突する。
それがいいんだなあ、と思った次第(ぶっちゃけ、展開としては多少中ダレしますけどね)。

なお、掘り下げられてはいないが、若いルパンがまだ「女性」に幻想を持っているのに対し、作中で妻子がいるとされる銭形は、女性に幻想を持っていない。そして、だからこそ「世紀の盗賊ルパン」を捕まえることに、あれほどまでに血道をあげているのではないだろうか?

世界を飛び回っている銭形だが、本作だけを観るかぎり、本当は家に帰りたくないのかもしれない。

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【雑記】・「政治運動と(一拍置いて)「スター・ウォーズ」

ネットをダラダラ観ていたら、高円寺界隈の、デモなどの政治運動(というか、はっきり言えば「素人の乱」などの運動に関し、「騒ぐことが第一義で、そこで掲げられる政治的テーマはあくまで二義的なものであるがゆえに、彼らのやっていることは真の政治運動ではなく、「サブカル」である、というようなテキストが流れてきた。

個人的見解としては、こういう「サブカルよばわり」はあまり好きではないのだが、「素人の乱」の大きな目的が「騒ぐ」というか「お祭り感」にあることには間違いがない、だろう。
そこに政治的展望があるかといえば、言いづらいが私は限界があるとは思っているが、何もやっていない私にはとやかく言う資格がない、ということも明言しておきたい。

さて、また個人的な「スター・ウォーズ」の話である。

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【無駄話】・「『宇宙からのメッセージ』の思い出」

「スター・ウォーズ フォースの覚醒」が公開され、それにともないネット上では、「日本版スター・ウォーズ」とも言える「宇宙からのメッセージ」についての言及が多くなっている。
大半は、表現は古いがいわゆる「生温かい視線」で、日本でのスター・ウォーズ公開前に「やり逃げ」的につくられた同作について、愛情こめて語られる場合が多いようだ。
しかし、当時小学校五年生で、親に拝み倒して1年に1回、劇場で映画を観る機会があるかないか、という状態での私のリアルタイムでの感想は、書き残しておかねばならないと思う。

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サイボーグ

ツイッターで「サイボーグ009VSデビルマン」をボロカスに言うツイートが流れてきました。

とくに絵柄がひどいという。
この人は「絵柄と設定を009は1966年版、デビルマンは1972年版にすべき」という提言をしていました。
えっ、でもなんで「1966年版」と「1972年版」なの?
それをベストと思っているのはこの人だけじゃないのかなあ。
009だってデビルマンだって、初期から後期まで、相当に絵柄の違いがあるわけで。
いろんな絵がありますよ。
批判している人の好みの問題じゃないのかな?

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【アニメ映画】・「サイボーグ009VSデビルマン」

時代的には「サイボーグ009」は「ミュートスサイボーグ編」の直後、「デビルマン」は「ジンメン編」の直後という設定で、双方が共通する巨悪に立ち向かう。

お祭り映画として、とんでもなく良い出来。主要人物全員の見せ場をまんべんなくつくり、なおかつストーリーもそれなりに工夫されたものになっている。
このような企画で、これ以上のクォリティを求めるのはちょっと無理なんじゃないかと思えるほどである。

事前の宣伝としては、なんとなくどうしても原作者本人のコメントが聞ける「デビルマン」の方がまさっているような気がした。石ノ森プロが探すべきは、「アメトーーク」にも出られるような、石ノ森作品をすばやく説明でき、なおかつタレント性のある人なのではないか、などと思った。

なお、同じ話が繰り返し描かれていると言える「デビルマン」と、そうではない「009」とはちょっと違うので、「009」については章を改めて解説したい。

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【映画】・「アントマン」

不正な経営者に派手ないやがらせをして、「義賊」なふるまいをした主人公はその報いを受けて三年間、刑務所へ。
出所はしたが、別れた奥さんに小さな娘を会わせてもらえない。しかし、別に意地悪をされているわけではない。まともな仕事と住居、養育費を出すお金がなければダメだという、しごくまっとうな理由である。
前科がアダとなり仕事に困っていた主人公は、ものを縮小できる「ピム粒子」を開発し、悪用されないよう隠していたピム博士に、自分の弟子筋の男が開発した「小さくなれるスーツ」やピム粒子のデータを破壊するため、「アントマン」となることを提案される。

実は結構期待薄で見たのだが、最近のマーベル映画ではいちばんいいのではないか。
「アベンジャーズ」系統のアメコミ映画が意図的に欠落させているのは「血なまぐささ」、「暴力性」だと思うが、どうせそれらが表現できないのなら、本作くらい「おとぎ話」みたいな内容にしてしまった方が、しっくり来る。

なお、人間関係はよく描けている。
娘との関係がうまくいかないピム博士、父親を信じられない娘(名前忘れた)、そして当初はダメ人間だと軽蔑されていた主人公が、娘を持つ親としてピム博士の心境を代弁できることで、初めてピム博士の娘から認められる、というのは非常にいいアイディアである。
さらに、敵は博士の寵愛を受けつつ遠ざけられてきた、という博士との「アンビバレントな疑似親子関係」を持っていた、というのも見逃せない点だ。

基本的にダメ男たちの物語なのだが、単に「ダメなやつががんばる」という教訓的な感じではない、いい意味での軽みがあり、現代的なスーパーヒーロー像をよく描いていると思う。

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【映画】・「テッド2」

ある日突然、生命を得たテディ・ベア、テッドはスーパーの同僚であった女性と結婚していたが、倦怠期による離婚の危機にあった。
「結婚生活を持続させたいなら、子供をつくれ」というアドバイスに、養子縁組を考えるがそれがきっかけで、「テッドは法的に人間かどうか」という疑問が持ち上がってしまう。
テッドは「自分は人間である」として裁判を起こすが……。

吹き替え版で鑑賞。トータルでは下品で面白いが、5分の1くらい、ギャグの意味がわからなかった。たぶんアメリカ人にはわかるのだろう。町山智浩が字幕監修で、それが吹き替えと関係あるのかどうか知らないが、彼の字幕監修は少々やりすぎ、ほしがりすぎの感が強かったがほどよく抑えられていたと思う。

有吉の吹き替えに関しては、はっきり言って合ってもいないし、うまくもない。本当はもっとおっさんの声だろう。
「テディ・ベアがおっさん」というのが本作の骨子なのだから。

驚いたのは、「精子提供」や「養子縁組」が「子供をつくる」手段のひとつとして、ごく自然にとらえていたこと、さらに、「フィクションに登場するなんだかわからない生き物」を法的にきっちり位置づけようという基本プロットである。
どちらも、日本ではちょっと考えられないだろう。
とくに後者はいかにもアメリカらしいと感じた。

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