小説

【小説】・80年代頃までの「グイン・サーガ」について思ったことを

最新第122巻が刊行中の「グイン・サーガ」、待望のテレビアニメ化が決定(GIGAZAINE)

別に項目立てもしていない思いつきの当ブログ内コーナー「80年代にひたりたい!」。今回は栗本薫のヒロイック・ファンタジー小説「グイン・サーガ」がアニメ化するというので、80年代の「グイン・サーガ」について思いついたことを書いてみたい。

このシリーズの第1巻「豹頭の仮面」が刊行されたのが、1979年9月30日だという。第31巻「ヤーンの日」が89年12月刊行。
私個人は第23巻の「風のゆくえ」までは読んだ。これが85年12月刊行。

当時私は「何もすることがない」ことを理由にグインを読んでいたというひどいヤツだった。そして「まあこれくらいでやめとこう。つまらなくはないが、これは自分の望んだ物語ではない」と感じたのが「風のゆくえ」くらいまでだったのである。

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・「とんがり焼き」を食いまくれ

Kangaru

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村上春樹氏、カフカ賞に『光栄です』

授賞とは何の関係もない話。村上春樹の短編集というかショート・ショート集というか、コジャレた小品集に「カンガルー日和」というのがあり、その中に「とんがり焼きの盛衰」という話が収録されている。
自分はこの話が好きで好きで、最初読んだときはゲラゲラ笑ってしまった。
簡単に言うと権威とか権力が、ちょっとしたことからグチャグチャに崩壊してしまうという話である。
何で自分はこんな、世評的にはたいして評価もされていない、冷静に考えても村上春樹の作品としていちばん残らないっぽいこの作品が好きなのだろうか。

ただ世の中には「胸のすく崩壊」というのがあって(もちろん「最悪な崩壊」というのもある)、それがどんなに幻想だの夢だの自分に甘えてるだの非モテだの嫌オタク流だの言われても、ゆるぐことは無かった。

規制権力の崩壊をうたったこの作品を読んでも、実は村上春樹の小説は「羊をめぐる冒険」まで、東映任侠映画的クライマックス主義を貫いていたことは自明である。
(以前、ネット上で「村上春樹の小説の一部は任侠ものである」と書いたら、「ダンス・ダンス・ダンス」がそうだ、と言われてしまった。人それぞれだろうが、自分にとっては「ダンス・ダンス・ダンス」は小説としての出来は別にして、クライマックスというか破壊、崩壊のカタルシスを味わう小説ではない。このときは踏み込んでネット上でコミニュケートしなかったが、次回があればもう少し詳しく説明してみたい。)

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【小説】・「ダ・ヴィンチ・コード」(上)(中)(下)  ダン・ブラウン(角川文庫)

Davinci

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ルーヴル美術館館長ジャック・ソニエールは、何者かに殺害される。彼は死の直前に、奇妙なダイイングメッセージを書き残していた。
ソニエール殺害の濡れ衣を着せられた象徴学者ロバート・ラングドンと暗号解読官ソフィーは、ダイイングメッセージの謎を追ううちに世界がひっくり返るほどの秘密を知ることになるが……。

読後の評価は「まあまあ」という感じだったのだが、元ネタとして他の人の書いた著作があると知って、さらに評価が下がった。そうなると核となるアイディアは借り物だから、小説技巧だけの評価となる。
ラングドンとソフィーが場所を変えながらあわただしく暗号を解いていくサスペンスは確かに先を読ませる力を持っている。
しかし、あらかじめ論文調の元ネタがあることを踏まえると、説明ゼリフを説明らしく見せないような工夫が凝らされている、あるいはそうせざるを得ないということがわかってくる。

肝心の謎解き部分だが、正直日本人にはそれほど衝撃的なことでもないだろう。このため、とても地味な印象がある。どうも本作を読んで私が感じる最大のモヤモヤは、「キリスト教圏の人が読んだらどう思うかわからない」という点にあるのかもしれない。

後は映画版を見たときの感想と同じである。要するに、宗教的な非合理を現代から後出しジャンケン的に、合理的にとらえようとしている点がひっかかるということだ。もともとのシオン修道会をめぐる伝説にそのような要素は無かったかもしれないが、本作の作者にはあったと思う。

しかし、その点について言いきることができないのは、キリスト教文化に連綿と流れているであろう異教的イメージを、本作の読者がどのようにとらえているかの情報が、自分には不足しているからである。

どう思っているんだろうね。よくわからんです。

あ、あと本作を教養小説というか、うんちくがたくさん書いてある本としてとらえている人もいるけど、
まあ細部は私も知らないことばかりだけど、概要は高校の世界史をひととおり知っていれば、書かれていることが完全におかしいと断言できなくても疑問を持つことはできると思う。

日本人が宗教オンチという問題もあるのだろうが、単純に高校で世界史をやってきたのと来なかったのとでは、本作を本当のことと信じるかどうかの区別がかなり明瞭につくのではないかと思うのだが、どうだろうか。

【映画】ダ・ヴィンチ・コード感想

【書籍】・「ダ・ヴィンチ・コード最終解読」皆神龍太郎(2006、芸文社)感想

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【小説】・「翔ぶが如く」  司馬遼太郎

Tobugagotoku

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征韓論〜大久保利通の台湾出兵〜西南戦争の終結までを描いた大河小説。小説っていうか、なんか解説文みたいなもの(史伝?)。文春文庫版で、全十巻。

「そういえば自分は明治の歴史をぜんぜん知らないなー」と思って文春文庫版、全十巻を苦しみながら読み通しました!  万歳! 偉い自分!
ネットで感想をざっと見ても、最初の2、3巻が退屈だと書いてある。私も、このあたりは退屈で退屈で、何度も途中で投げ出そうと思った。
私は司馬遼信者でも何でもないので忌憚のない意見を書かせていただくが、まず最初の方で長々と描かれる「征韓論」のことがよくわからない。

「人物中心史観」と批判されることもある司馬遼の、いちばん悪いところが本作の序盤では出てしまっている気がする。
個々の人物が何を考えていたのか、いくら個別に見ていってもそりゃわからんこともあるだろう。
近代合理主義みたいな思想が入り込んだ明治十年頃までの混沌とした時期なら、なおさらである。

で、いけないのはたぶん作者自身がわからないまま書いていること。これはいちばんよくないよ。
続く台湾出兵のエピソードも、出兵してからの外交にページを割きすぎだ。しかも、えんえん説明が続くから意外な展開になるのかと思ったらそうでもない。「考えながら書いてるだろう」とツッこみたくなる。

キャラ造形もいいかげん。キャラ的に伊藤博文と岩倉具視の区別がつかないし、架空の人物っぽい人が出てきたと思ったらエピソード的なおとしまえもなく舞台から消えてしまう。

西南戦争のことも、描写は丹念で面白いが、読んでその本質はよくわからん。戦略的にはダメダメだったということだが、その「戦略的にダメダメ」の理由があまりにも個々人に帰結するかのように描きすぎている気がする。
そもそも、当時の人って「戦略」と「戦術」をそれほど厳密に区別していたかどうかわからんし。いやわかっている人もいるのかもしれないけど私は知らないし。

文学史的などうなのか? もし、作者がほとんど初めてこの時期を調べて、前例のない状態で書いたのなら多少の斟酌はできる。でもその辺のこともよくわかんねーなー。

まあ、本作を読んで、あくまでも司馬史観で知った西南戦争というのは、自分的解釈としてはこうだ。

要するに西欧的合理主義VS伝統主義ということだ。
それと、何というか信仰に近い何か。

あえておおざっぱに言えば、これは鶴田浩二や健さんの出てくる任侠映画とまったく同じ構図である(何でも任侠映画に落とし込んでやがる、と思う? 私のことを?)。

東映任侠映画は、たいてい地域密着型の昔から続いているやくざと、仁義を欠いた合理主義的新興勢力との戦いとして描かれる。で、地域密着型が正しくて、善で、ぜったいに曲げられない信条を持っていて、敵と戦って負ける。

本作でも、まあお話は長いがそんな感じ。

それは、作者がどれほど意図していたか知らないけど、西南戦争の前に起こり、丹念に描かれた「神風連の乱」と比べるとよりハッキリする。
司馬遼描写によれば、コレって勝ち負けは最初から関係ない行為。やること自体に意義があるみたいな。

それの大規模なのが西南戦争だった、と、あくまで本作を読んだだけだとそう解釈できる。

司馬遼は、わりとそういう「敗者の美学」みたいのもわかっている人だと思う。だから今でも人気があるんだろうな。

この図式は今の多くのアクションものに適用できる。あるいは、この図式にのっとらないアクションものは「ポストモダ〜ンなアクションもの」ということができると思う。

あ、あとタイトルは看板に偽りありだ。あるいは「翔ぶが如く」なんかをして、けっきょく果たせなかったということなのか? とにかく全編を通して(そりゃ司馬遼太郎だから面白おかしく書いてあるわけだけれども)「落胆」の二文字が似合う展開ではある。

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らのべ

全部が全部そうじゃないかもしれないし、編集者に「そういうふうに書け」って言われているのかもしれないけど、
最近2、3冊ライトノベルを読んで気になったこと。

・「シュゴゴーッと飛んでいった」とか「チュゴゴゴッとジュースをすすった」みたいな擬音の表現
まあ、昔はマンガに擬音が使われていることに違和感を持つオトナがいたことを思い出して、自分もそういうトシになったかと思い返して自分で自分のことを苦笑してしまったんだけど、擬音がどうのこうのというのはどうでもいいんですよ。
夢枕獏だって、「けくけく、と笑った」みたいなこと書いてたし。

それより気になるのは、その「擬音」が明らかにマンガやアニメの「擬音」で、文章表現を通してマンガ的、アニメ的なシーンを想像してください、というそういう合図だろうってこと。
それは果たして文章で読む意味があるのか?

・異様に世の中を突き放した一人称の主人公
まあ、青春小説には昔からありがちなことではあるんだけど、今の方がキツい気がする。「なんでみんなくだらない話題で盛り上がってるんだろう?」ってクラスの休み時間の同級生たちを眺めてるみたいな、そういう描写が自然に出てくる。
最近、マンガの「ボーボボ」に出てきた「よのなかなめろう」だっけ?  クラスメイトを見下していて全員かかしに見えるヤツ。あれなんかはそれのパロディだよね。読んで10分くらい笑った。

・「ベタな表現だが……」とか「ありがちな言い方だが……」と書きつつ本当にありがちな表現
コレはいくらなんでもナシだろう。しかも、一人称の登場人物ならともかく、一人称形式でない場合でも、説明がそうなっている場合がある。この「説明をしている人」は小説世界のどこにいてだれに言い訳しているのか。もちろんこの場合はパロディではない。
昔、新井素子がデビュー作で「いかにもおじさん、って感じのおじさん」という表現を使っていて笑ってしまったことがあるが、そういうのはやめた方がいいと思います。

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