マンガにまつわる雑記

【表現】・「ラッキースケベ、および少年ラブコメ問題」その1

「ラッキースケベ」の語源については、いろいろあるのかもしれないがとりあえず、ネットで検索していちばん最初に出てくるのは「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」(2004~2005年)の作中に出て来たという話。
その後、「少年主人公の側から、絶対にエッチなことを仕掛けないようにしよう」と、原作者とマンガ家のあいだで決めたという「To LOVEる -とらぶる-」が2006~2009年まで週刊少年ジャンプで連載されている。
(この「取り決め」に関しては、単行本の1巻に書いてあったと記憶するが、今手元にない。すいません。)

ネットを観ると「To LOVEる -とらぶる-」が、少年誌エッチの限界を超えた、みたいな意見が多く誤解されがちだが、連載当初に、「少年主人公の側から、絶対にエッチなことを仕掛けないようにしよう」と決めた、というのはすなわち、
「ラッキースケベなシチュエーションしか登場しない」
ということである。

ではなぜ「ラッキースケベ」なシチュエーションが多様されるようになったかと言えば、現場でどういう話し合いがあったか知らないが、普通に考えて「少年主人公からのセクハラ的な行動を描かない、要するにセクハラを描かない」ということが目的だとしか、考えられない。
(80年代には、「少年主人公やその仲間たちが、女子更衣室や女風呂を覗く、などの明確にセクハラなシチュエーションが定番化していた。)

くわしく調べていないが、2004年に「用語」として「ラッキースケベ」が登場しているということは、シチュエーション自体はそれより前からあったと考えられる。
また、こちらも調べていないので申し訳ないが、「女性の乳首を描かない」というのも自主規制としてずいぶん前から行われてきた。
これも立派な自主規制である。

もちろん「時代は変わったのだから、もっと厳しくすべき」という意見もあるだろうが、個人的にはピンと来ない。
少年マンガなんだから、戦いや恋愛や、多少の(ここが反対派にとっては問題なのだろうが)エッチシーンが出るのは普通だとしか思えない。

なお、「エロではなくハラスメントだからいけないのだ」という意見に関しては、風でスカートがめくれるとか、雨でブラウスが透けてしまうとか、水着が吹き飛ばされてしまうとかいったシチュエーションに、「ハラスメントする側」がないので、成立しづらいと思う。
「作者がハラスメントをする側だ」という意見もあるだろうが、それでもマンガ作品内で行われる非・道徳的行為(暴力や殺人、ほかの違法行為)よりも率先して規制されるべきという理由が見当たらない。

そもそもが「ラッキースケベ」自体が妥協の産物なのだから、それに反対するなら、「もう時代が変わったんだからそれすらも許されない」というロジックがなければならない。

では「ラッキースケベ」に到達する前は少年マンガはどうだったのか、ということについて、気力があれば次回、説明する。

続く。

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【問題】・「ゆらぎ荘の幽奈さん巻頭カラー問題」

少年ジャンプマンガの「ゆらぎ荘の幽奈さん」セクハラ騒動、個人的にはこのツイートがいちばんしっくりきますね。

(引用開始)
話がズレてしまいましたが、PC的なもの、あるいは合意に基づく性という性教育は学校教育、メインストリームがきっちり担うべきもので、少年ジャンプをはじめとする資本主義の中のサブカルチャーのすべてが「正しい」ものである必要はないと思います。それらはカオスの海に浮かんでいるべき微生物です
(引用終わり)

ただし、「18禁以外の娯楽作品」って、常に「こんなに面白いんだからメジャーであるべき」という「気持ち」にもオタクはさらされてきたので、そこで矛盾が生じ、繰り返し問題になるというところはあるでしょう。
多くのオタクは、「シン・ゴジラ」や「君の名は」が大ヒットしたことを、嬉しく思ったでしょう。それらの作品は「微生物か?」という問題が常にある。
立派なメジャー作品なんだから、影響力も強い、だからちゃんとしてほしい、という意見も一方であると思うんです。

だから、全年齢向けの作品については、最初から18禁の作品に難色を示すのとは、ちょっと違うんですよね。
海女さんのゆるキャラとかのときもそうでしたが。

にしても、私個人は今回、「何の問題もない」と思っている派です。
意見の違う人にはきらわれてしまうかもしれないけど、「問題がないから問題がない」と言っているのではなく、「何か多少道徳上、問題があったとしてもことさら問題にする必要はない」という見解です。

それは、たいていの性的な表現以外でも同じです。
「だから何!?」としか思えません。
「進撃の巨人」で言えば、人間が壁をつくったら、もっと大きな巨人が来たみたいな。
「進撃の巨人の壁」にたとえたのは、「ゆらぎ荘の幽奈さん」自体が、ここ半世紀の少年マンガにおける自主規制の産物だからです。

道徳的・倫理的な問題なら、「ありのままの私を認めてくれるだれか」を求める少女マンガ、「生き残るためなら何をやってもいい」とするデス・ゲームものなどの方が、よほど悪いと思います。

そもそも「ラッキースケベ」というのは「少年主人公によるセクハラの回避」という自主規制上の要請からできたもののはずで、「ラッキースケベがセクハラである」というのは、自主規制したらまたワンランク、厳しくしてきたな、という見解しか持てません。
(「ラッキースケベ」問題については、やる気が残っていれば後述します。)

それと、性表現を規制したい人々というのはほとんどそれだけをグイグイ押してくる人が多いので錯覚しがちですけど、
やっていることは昔の「年金党」とか「減税日本」みたいな、ワン・イシューで押してくるのと同じ。
だから「他に重要なことがあるのでは?」と返すと「論点をずらしてる」みたいな感じになりますが、本当、繰り返しますが「他に重要なことがあるのでは?」と思います。
あるいは、性表現反対について、マルチ・イシューのひとつとして「ハラスメントだからダメなんだ」と、「人権」全般で押してくる人もいますけど、イメージの世界なんでね。絵だし。人権そのものがおかされているわけではない。
だったら電通の自殺した女性のことをもっと考えるべきです。

運動論的には、表現規制は成果を得やすい、ということが確実にあると思いますね(最初に抗議めいた発言をしたのは、運動に参加していない人かもしれませんが、あっという間に賛成反対両陣営、集まってきた印象です)。
いつまで経っても成果の出ない運動を続けることは、キツいですから、潜在意識として「潰しやすいところから手を付けている」ということは、あるかもしれないと思っています。。
CMなんかあっという間に中止になりますから、さぞかし抗議のしがいがあると思います。

繰り返し書きますが、とにかく今回「え!? 少年誌でここまで!?」というわけでもないし、抗議が来ないかと言えばまあ不快に思う人もいるだろうし、という日常レベルの話で、議論としてまったく面白くなかったです。

なお、「ウチの子供には読ませたくないから読ませない」というのは、別にその人の勝手で、いいんじゃないかと思います。

続く。

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【雑記】・「80年代少年ラブコメブームの謎」

最初のオタクムーヴメントは、だいたい77~78年頃から始まる。
これは調べれば調べるほど、そう確信できる。
もちろん、前兆のようなものはあるが(「トリトン」ブームとか)、「スター・ウォーズ」、「うる星やつら」、「未来少年コナン」、「翔んだカップル(少年ラブコメの元祖的作品)」などはみんなこの時期に始まっている。翌年にはガンダムである。
で、それだけでは「単なる特殊なシュミの拡散」という話だけで終わってしまう。
実は(?)この「78年頃」を契機として、ひとつのブームが80年代初頭に花開く。
それが「少年ラブコメブーム」である。

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【雑記】・「類似問題」

「コトコトくどかれ飯」類似指摘について編集部が公式に否定 一部では指摘した「女くどき飯」作者に非難も
ネットウロウロして見たが、「峰さんの方が今回の件で恐いと思われたのだから、干される心配はむしろ峰さんにある」という意見がありましたが、「ンなわけねえだろ」と思いました。

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【マンガ記事】・「このチラリズムがすごい! 『パンチラマンガ』ベスト3」(「このマンガがすごい!WEB)

このチラリズムがすごい! 「パンチラマンガ」ベスト3  「ふぬけ共和国blog」新田五郎さん【目ききに聞く】

書かせてもらいました。
読んでね。

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【昼ドラ】・「幸せの時間」

「幸せの時間」は、国友やすゆきによる、1997年から2001年に漫画アクションで連載された、色欲と金欲に翻弄された家族が崩壊していくというドロドロな「昼ドラ的」マンガである。
ほぼ10年経ってからのドラマ化なわけで、逆になぜもっと早くドラマにならなかったのか、不思議なくらいのオイシイストーリーであった。

発端は、念願のマイホームを建て、そこに希望を持って引っ越してきた家族(夫・浅倉達彦、妻・智子、受験生の兄・良介、中学生の妹・香織)が、一人の若い女性・高村燿子を車でひいてしまい、その女性が夫と肉体関係をもってズブズブになっていくというもの。

ドラマ化を知ったのが、5、6回過ぎた後であわてて視聴を始めたのだが、まず「漫画アクション」という媒体上、主に「男性視点」だった本作を、「昼ドラ」の主要視聴者層である女性向けに描き直してあることに気づいた。
また、地上波で昼間に放送されるという制約上の問題など、いろいろと見るべきものがあったので、最終回を迎えたこともあり、その辺の話をしていきたい。

まず、単に「いわゆる昼ドラ」のドロドロ、メチャクチャ、アナクロを目指すのではなく、かなり誠実につくられたドラマだと思う、ということは最初に言っておきたい。これをコントとか言ったらつくった人がかわいそうだ。
まず、ヒロイン・智子の家庭を壊す耀子(夫の愛人となる)と花屋・篠田(智子をレイプしようとする。未遂に終わる)には、それなりの「孤独」という理由があったこと。
次に、最終回に突然改心するとかではなく、ドラマが経過していく中で耀子と花屋の心の動きをきちんと描いていたこと。
そして、「絵に描いたような幸せ家族」をつくることだけを考えてきたヒロインの思考の変化をも描き、自身も浮気することによって、自分にとって異物だった耀子を受け入れたこと。
(また、息子・良介がはらませた蓮っ葉なおねえちゃん・奈津とその子供の存在も受け入れている。)

これだけとっても、周到につくられたドラマだとわかる。「ラストが中途半端」という声もあるが、ドラマの流れから言ったら、家族が完全に崩壊する(あるいは元通りになる)方がおかしい。

達彦の親友・矢崎(柳沢慎吾)夫婦が「きれいごとだけではない、理想の夫婦」として登場するのは原作と同じだが、おそらく自主規制で慎吾ちゃんが香織と肉体関係を持たなかったために「子供のいない夫婦と、それに憧れる少女」の聖性は増した。

なお、ヒロイン・智子の浮気はその顛末が少々コミカル、達彦の浮気が地獄の大罪のように描かれるのは主婦向けだから。原作は「つくりもの家族を放置して我欲に徹する夫」が中心だったが、それを妻視点に書きなおした手腕は相当なものだと思う。

なお、会社パートは「家族」というテーマを打ち出すためか原作と比較して大幅にシーンが減っているので、原作で印象深いキャラクター「望月さん」が、脇役に後退してしまったのは少し残念だった。

本作は、簡単に言えば「家族一人ひとりが、自分たちの役割を放棄し、我欲に走ってしまったらどうなるのか?」という、モラル崩壊の物語である。
「それまで形式だけでうまくいっていたものが、そうではなくなる」というのは今日的なテーマだ。ちなみに映画「アウトレイジビヨンド」もそのたぐいである。

ふた昔前なら、厳格な父親か、懐の深い母親がまとめたこと、あるいは逆に、浮気なら浮気でだれかが耐え、だれかがちゃらんぽらんになることで成立していたことが、今は通じない。
ヒロイン・智子の母(丘みつ子)の世代までが、「自分の結婚に愛はなかった」と言う時代。つまり、まず大家族幻想は断たれている。

次に、智子が持っている「ニューファミリー幻想」も、夫・達彦の浮気によって崩壊する。しかも、ニューファミリー幻想は、「大家族制度」以上に倫理観について厳格なため、一度でもルールを犯すと心情的にも「裏切った」と見なされ、「ニューファミリー」は元に戻れなくなってしまう。

結果、浅倉一家が「今までどおりの家族」に戻ることはなかった。しかし、バラバラになるのではなく、どこかでゆるくつながっているような関係は保持されていく……というラストは、当然と言えば当然のものである。

さて、最後に智子の「お弁当」について。
番組のラストに毎回、視聴者から送られてきたカワイイお弁当の写真が載るのだが、ドラマ版「幸せの時間」では「お弁当」や「食事」が、かなりの意味合いを持っていた。
娘・香織が、学校で友達に自分のつくったお弁当を売っていた、ということで衝撃を受けた智子は、それでも弁当をつくり続ける。
智子にとって毎日の弁当づくりは、「家族」を守る象徴的行為なのだ。
彼女は毎日のお弁当を、すべてデジカメで撮ってデータを保存してある。

それでも家族は、いろいろあってなしくずしに崩壊していく。では、智子の主婦としての「弁当づくり」は本当に無駄だったのか? の問いには、本作は「無駄ではなかった」と応える。
主婦の観ている時間帯のドラマだから、というだけではなく、智子の「職業人としての主婦」の矜持の象徴が「弁当」であって、それは娘が友達に売ろうが、いいかげんに扱われようが、関係のないことなのである。

別の見方をすれば、理想ばかり追い求めていた智子が、いろんなものを受け入れて成長していくドラマの中で、「弁当」は「智子の最後のプライド」として機能していた、と言えよう。

……というわけで、マンガ原作のアニメ化へのコメントはよく見るが、「マンガ原作の昼ドラ」の感想はあまり見ないと思ったので、長文を書かせていただきました。

なお、マンガ版について私があーだこーだと感想を書いた同人誌が、アマゾンで売られているので、よかったら買ってください!!

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【映画】・「これでいいのだ!! 映画赤塚不二夫」

1967年頃。小学館に入社した武田(堀北真希)は、入社式でイヤミのコスプレで新入社員たちに「シェー」を強要した赤塚をグーで殴ってしまい、それがもとで希望の少女コミックではなく少年サンデーに配属、赤塚の担当にさせられる。
「バカになる」ことを至上の価値とする赤塚と、彼に振りまわされる武田記者(堀北)を中心に巻き起こるドタバタコメディ(らしい)。

結論。マイナス1おくてん。

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【宣伝】・「ダ・ヴィンチ6月号で『進撃の巨人』特集」

発売中のダ・ヴィンチ6月号において、「進撃の巨人」について「震災後どう読むか」とキャラクター解説などについて書かせていただいております。
作者の震災後の心境をまじえたインタビューも入っているので(インタビュアーは別の方です)、お得です。よろしければぜひ読んでください。

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【雑記】・「気になったので補足」

このエントリのこの一文について、補足。

この頃の少女マンガは「少女が少女であること」は描いても、「少女がオンナであること(男性とは違う考え方をしていること)」を強調することはなかった。

たぶん、少女マンガのフェミ的な読み解きなんてとっくの昔にだれかがやっているだろうし、私が学術的な解説を書けるわけもない。

ただ、やはり補足させてもらう。

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【エッセイ】・「柳沢きみおの『なんだかなァ人生』」

「週刊新潮」に連載している、柳沢きみおの文章によるエッセイ(「文章による」とわざわざ書いたのは、「エッセイマンガ」ではないということ)。

ネットを検索するとオタク批判やAKB批判についてさまざまな人から論評が加えられたりしていて、まだまだ活字メディア……しかも昔ながらの週刊誌の影響力について思いをはせたりするがそれはまた別の話。

この「なんだかなァ人生」は、タイトルどおりとりとめもなく作者が最近の流行や想い出話などを書きつづったものだが、柳沢きみおのマンガ観やいつ、どんなんときにどんな気分で作品を書いていたのかなどが作者本人の手でつづられるため、過去の彼のマンガの作品読解にも大変役に立つ。

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