日記・コラム・つぶやき

【テレビ】・「『プロジェクトX』の功罪」

「プロジェクトX」が経営者たちに「仕事の為に社員が徹夜したり無理すると凄い成果が出る」という考えを植え付けてしまった可能性について、というのがトゥゲッターにあったので、私がこの番組について思うところを書きたいと思います。

「プロジェクトX~挑戦者たち」(2000年~2005年)は、今で言う「日本スゴイ」番組の嚆矢、ということは言えると思います。
つまり「終わりの始まりだった」という解釈もできるのですが、私はひとつの番組に、今の経営者が影響されてブラック企業があるというような見解は取りません。これでは「エロマンガの影響で性犯罪が増える」というロジックとまったく同じです。
まあ、少しは影響はあったかもしれませんが。

70~80年代にはイメージとして「高度成長期のサラリーマン」とは、「仕事、仕事で家庭を顧みない父親像」、「日本は文化的なことは輸出せず、自動車や家電(だけ)を輸出し続けて来た」というのが「ベタなおとしどころ」でした。
「日本のアニメやマンガは世界一」などと、俗に言われるのはこの頃のコンプレックスの反転、という側面も、確実にあります。

とくに80年代は、一億総中流、という意識の中で、「自由を謳歌しよう!」という雰囲気がみなぎっていましたからね。
「いい大学を出ていい会社に入ることが幸福なのか?」みたいな問いも、「ベタ」としてあった時代です。
つまり「高度成長期のモーレツサラリーマン」は、「忘れ去られるべき存在」ですらありました。
確かに「24時間戦えますか」というCMが流行ったり(1989年)、「むちゃくちゃ働くほど偉い」という価値観はその後もあったんですが、同時に「5時から男」なんてコピーも流行った時代。仕事もレジャーも恋愛も、全体的にいろんなことが膨れ上がったのが80年代中盤からバブル崩壊時くらいまでで、「ひたすら仕事」というイメージの高度成長期とは、やはりニュアンスが違うんです。

で、そうした「高度成長期のサラリーマン」のベタなイメージに生命を吹き込んだのが、「プロジェクトX」だったと言えます。
70年代~80年代は、「顔の見える」スターがひたすらに持ち上げられていた時代です(90年代はちょっとわからない)。当然、その裏にはスタッフがいるのですが、それはあくまで黒子として認識されていた。
高度成長期に開発された商品だって、だれがつくっているかなんて、業界以外の人は知らなかった。
そうした「高度成長期にがむしゃらに働いてきた人々」の「顔」を見せた、一個の人間としてクローズアップした、ということは、この番組の功績のひとつだと思います。

それと、「プロジェクト」という観点ですね。一人の天才ではなく、チームで成し遂げた仕事を番組で取り上げた。
そうした部分も、非常に大きかったと思います。
その後始まった「プロフェッショナル」では、また「すごい人」にスポットが当たるように戻っちゃってますけどね。よくも悪くも。

事実をねじまげたのは問題ですが(私が印象に残っているのは、あさま山荘事件でカップラーメンを無視したこと)、それまでのエンターテインメントにおけるオトウサンたちの「扱い」を観ると、「プロジェクトX」のヒットは必然だったし、「いい面も悪い面もあった」というのが、妥当な評価じゃないでしょうか。

たとえば産業史とかをやっている人からするとムチャクチャな番組に思えるかもしれませんが、テレビの視聴者はそういう人たちが当たり前に思っているところにまで、まったく到達していなかったんですよ。前述のように、「プロジェクト」の興味深さというのは理解されづらかった。そこに目を向けさせたというのは、やはり意味があると思います。

なお、「無理」の部分ですが、「徹夜なんていやだし、非人間的」と思っている人でも、がむしゃらにがんばっている人を見るとやはり感動してしまうことにこそ、目を向けるべきだと思いますね。
たとえば「ブラックジャック創作秘話」なんて「手塚プロってムチャクチャだな」って思うんだけど、やはり感動してしまう。
「プロジェクトX」を批判して、他の「無理や無茶をしている人たち」に感動してしまうとしたら、それは矛盾なのだ、ということにはしっかり向き合うべきだと思います。

以上、「プロジェクトX」についてのフォローでした。

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【表現】・「ラッキースケベ、および少年ラブコメ問題」その2(完結)

ちょっと気になったのが、一連の騒動を通して、
「ジャンプってマチスモでしょ」
と捨て台詞のように一行、だれかがツイートしていたことである。
検索すると「マチスモ」とは、ラテン・アメリカの男性優位主義のことのようだが、この場合は「マッチョイムズ」程度の意味だろう。

こうなってくると「ゆらぎ荘の幽奈さん」は、そもそも男性優位なマンガなのか? というところから議論を始めないといけないが、「だいぶマイルドにした、『おちぶれたマッチョイムズ』」だというのが、70年代後半以降の少年ラブコメや少年エッチマンガである、というのが私の認識だ。

だから、「幽奈さん」に限らず、ハーレムラブコメ作品にまつわる問題というのは、批判者側からすれば、「おちぶれたマッチョイムズを放置するのか、潰すのか」ということになるだろう。

そもそも、ハーレムの設定が「コメディ」として描かれていること自体、マッチョイムズをまともに描くのはアホらしいという含意がある。
こういう傾向が始まったのは、七十年代後半頃から。
「うる星やつら」とか、美少女二人どっちを取るかというあだち充の「みゆき」などが嚆矢となるだろう。
当時は「少年ラブコメ」と言った。もっと正確に言えば「ラブコメ」。少年誌だけで流通していた言葉だからだ。
(少女マンガのラブコメと少年マンガのラブコメはかなり違っていた。)

時代的には、松田優作主演のテレビドラマ「探偵物語」(79~80年)が、コメディ調に描かれていたことと重なる。
もちろん、同時代にも大藪春彦のハードボイルドの映画化や、渡哲也の「大門軍団」みたいな「男らしさ」を持ち上げる傾向は続くのだが、それでも70年代前半とは違ってきていた。

設定としては、多くの場合、主人公は優柔不断、何となく本命の女の子はいるのだが告白できず、そのうちなぜかいろんな美少女が集まってきてしまうというパターンである。
しかし、ときおり不良にからまれたりとか、冬山の山荘に二人きりになったりしたときには男気を見せる。
エロ描写で言えば、サービスショット的なものもときおり入っていたと思う。
(少年エッチマンガを、ラブコメ作品ととらえるかは面倒だがここではとりあえず、別物とする。)

ここにははっきりと「理想の男性像」の変質がある。別に昔っから同じことをやってきたわけではないのだ。

そのあげく、「ラッキースケベ」の導入となった。こうなったら、たとえ合意でも好きなこと手を握ったり、キスしたりすることもむずかしい。
つまり、そこまで「旧来の男像」を骨抜きにしたのが現在の「ハーレムラブコメ」の主人公なのだ。

だから、問題とするならそうしたハーレムものの構造自体を問題にしないといけない。

そもそも、すでに「幽奈さん」は6巻くらいまで単行本が出ている。
しかも、週刊少年ジャンプという超メジャー誌だ。
それが巻頭カラーになって「見つかり」、騒ぎ立てられる。

たまたま子供の買ってきたジャンプを観て、顔をしかめる母親、というのはわかる。
だが、それに寄ってきてわーわー言っている人は、「そういうのの監視員」としても、ぬるすぎる。

むろん私としては、繰り返すが「放置しても何ら問題ない」という考えである。
まあはっきり言って、どうでもいいということだ。
たとえば、「優奈さん」がこの騒動で打ち切りになったら、世の中変わるのだろうか?
まず変わらないだろう。

少年マンガ界が今まで無法地帯で何もやってこなかったのならともかく、時代の流れで、主人公の少年のキャラ設定まで「ヘタレ」になっているのに、それでもまだ批判する意味がわからない。
まあ、ジャンプも客商売だからクレームが来れば考慮はするだろう。

だがそれにしても、どうでもいい話だ。
フェミニズム的な課題にしぼったとしても、他に考えるべきことはたくさんあるはずだ。

(関連)
「ゆらぎ荘の幽奈さん」巻頭カラー問題

「ラッキースケベ、および少年ラブコメ問題」その1

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【ブログ】・「良記事なので、貼っておく」

すべてのブログ執筆者・サービス運営者にあっぱれ~中川淳一郎の今月のあっぱれ
良記事なので、貼っておく。
やはり刹那的に、ツイッターとかフェイスブックばかりやっていたらダメだな、と思った。

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戦争はイデオロギーで起こるかもしれないが、庶民は必ずしもイデオロギーで生きているわけではない

アニメ「この世界の片隅に」が、日本の加害性をスルーしている、という批判になんかどうも納得いってない。

すでに指摘されているだろうけど、30年くらい前は「戦争を決行した政府」と「それに翻弄される日本庶民」という図式が、エンターテインメント作品で「先の戦争」を扱うときの「常道」だった。

(近年でも、朝ドラ「ゲゲゲの女房」の戦争観もそんな感じであった。)

「この世界の片隅に」は単純なエンタメ作品ではないとか、「今は時代は違う」というのも、それはそれで正論なのだが、だとしたら「なぜ作品における戦争観は変わったのか」、「なぜ戦争映画は反戦映画でなければならず、日本の加害性を描かなければならないというふうになったのか」というここ半世紀くらいの文脈を、丹念に追っていかなければならない。

余談だが「アキバズ・トリップ」というアニメを観ていたら、ミリタリーオタクが怪人化してにわかミリヲタに攻撃をしかけるのだが、主人公が「おまえだって最初は、日本の戦闘機はぜんぶ零戦だと思っていたんだろ!?」と言われて言葉に詰まるシーンがあって驚いた。

これは、若い人にしか書けないセリフだ。

私はミリタリーにいっさい興味がないが、どんなに興味のない人間でも第二次大戦中の日本の戦闘機のふたつや三つは言えたからだ。だから多少誇張した表現としても、「日本の戦闘機はすべて零戦」という勘違いを表すセリフは、80年代にはありえなかった。

第一、乗っていた人たちがまだ生きていたからなあ。

ジジイ話終了。


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【ジェンダー】・「悪いのはりゅうちぇるか???」

このテキスト、まず「りゅうちぇる」自身が、「いわゆる男らしい男」ではないところにはまったく触れないんだよね。

ぺこ&りゅうちぇるというカップルa自体が、そもそもが「お茶の間」レベルのテレビに出る者としてはそれまでなかった「同棲カップル」であり、りゅうちぇるは私が当初「おねぇ」と間違えたくらい、いわゆる「男らしさ」とはほど遠い存在。

だから実は、ぺこ&りゅうちぇるが入籍前にテレビに出ていたことは画期的だったし、りゅうちぇるが「おねぇではないけど何かナヨナヨしたキャラ」としてタレントをやっていたこと自体が、性役割の抑圧から世間が解き放たれつつあるということなんじゃないかというところは、無視している。

りゅうちぇるが、吉田沙保里選手に対して「自分磨きをしなくていい、努力しなくていい」と言っているのは、このブログの論者の主張のとおり、「吉田沙保里は、どう生きたってよい」と言っている。

「女の子らしいから」というのは、相葉くんの質問に、「吉田沙保里は、強くて女っぽくないから結婚できないのでは?」という意味が含まれていたから、それに対するフォローでしょう。

個人的には、「男らしさ」、「女らしさ」ということをこじらせてわけがわからなくなっているのは、このブログの論者だと思いますね。

最近はこういう「もう、何をしたらいいのかわからなくなっている」テキストが増えたように思う。

送り手だってバカじゃない、いつまでも「男は男らしく、女は女らしく」と思っていない人だって大勢いるだろう。

そうすれば表現は複雑化してくるし、今回だって抑圧の意図はないだろう(無意識に抑圧している、という理屈は当然あるにしても)。

でもそういうのに食ってかかる人が出てくる。

私がタレントとしてのりゅうちぇるが嫌いで、悪口を書きまくっているのを知っている人は知っているだろうけど、彼自身がもともとこういうキャラクターなのなら、むしろLGBTでは「ない」がゆえに、抑圧を受けていたかもしれないとか、そういうことは考えたことないのかね。

ここで非難されるとしたら、それはりゅうちぇるではなく、変な質問をした相葉くんか、彼の台本を書いた人、ということになるだろう。

なお、まさかとは思うが、りゅうちぇるが「ヘテロなのに、異性愛者の雰囲気をまといつかせてタレントとして金を稼いでいる」なんて思っちゃいないだろうね。まあそこまで深くは考えていないか。

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アイドル談義

ツイッターで、複数の人から同じブログのある文章がリツイートされてきた。

リツイートというのも、なかなか面倒くさい。だれがリツイートしてきたかで、文脈が変わってしまうからだ。
「ぜひ広めたい!」なのか、「しょうがねえなあ、こういうの」という苦笑まじりのリツイートなのか、それとも否定的なものなのか(否定の場合はさすがに、コメントするだろうが)。
そのリツイートしてくる人の背景がわからないと、わかりづらかったりするのである。

で、そのブログは、とある上り調子のアイドル(っていうか乃木坂46)のヲタが、「乃木坂こそ最高!」とのぼせあがっていてウザいということであった。
そのブログの文章は、「他のアイドルを観てないからそんなこと言えるんだろ」ということが趣旨で、そのこと自体は間違ってはいない。

確かに、過去にも「このアイドルグループは、過去のアイドルグループとは違うんだ!」と強く主張されるグループがあった。
AKBだって「前田敦子はキリストを越えた」という発狂した本が書かれているのである。
Perfumeやももクロ、ベビーメタルなども、熱狂的なヲタから「それまでのアイドルとは違う」と言われてきた。

アイドルに対してファンが熱狂的になるのはめずらしいことではないが、果たして自分が推すグループが、アイドル史の中で本当に「特異な」グループなのかは、アイドル史および同時代の他のアイドルグループを知らないと判断のしようがない。

しかし、やはり熱狂してしまうと「ウチこそ最高!」となってしまうようである。
まあそんな文章だった。

それにしても、その文章を読んで気分が悪くなった。それは、最初は「乃木ヲタ」を事例にした「熱狂的なアイドルヲタ」についての批判だったのに、途中から乃木坂46そのものに対する批判になっていたことだ。
いわく「やる気がない、ダンスがへた」、「東京女子流の方がずっとがんばってる」など。

確かに、他のアイドルを知らないと自分の好きなアイドルとの比較ができないのは確かだが、歌やダンス、寸劇でもいい、何らかのパフォーマンスが一級品でも、それとそのアイドルグループが「すばらしい」ものかは、ぜんぜん別の話である。

かつて秋元康(とそのグループ)は、「おニャン子クラブ」という、目に見えて「やる気のない」アイドルグループをつくった。秋元康のプロデュースは、もちろん全部が全部ではないが実は「やる気と魅力は関係ない」ということを裏テーマにしているものも多い。
芸能に関してまったくのシロウトの女子大生だったり、番組スタッフだったりを引っ張り出してきて「歌手」にしたてあげたりしたことがそうである。

というか、そもそも「とんねるず」自体が別にプロの歌手でも何でもなかったわけだし。

時は移り、(秋元康とは直接の関係はないが)「モーニング娘。」以降、アイドルは突出して「努力」が全面に出るようになった。そしてそれをファンも受け止めるようになった。
80年代は、「ラクして儲けたいなあ」みたいな雰囲気が日本全体にあったが、不景気な90年代以降は「努力しているイメージ」は不可欠だったと思われる。

AKB発足から売れ始めるまではどうだったか知らないが、「総選挙」が行われるようになった2009年にはもう「努力」の要素は出てきていただろう(AKB発足は2005年12月)。

しかし、当然だが、努力したからって成功するわけではない。
「やる気がない」と言ったって、明確に、たとえば観客の見えるところでサボっていただとか、そういうことでもなければ「やる気がないかどうか」など、観客がわかるわけがない。
むろん、「やる気がないように見えた」と書くことはできる。しかし、それでもやはり努力と人気とはイコールではないのだ。

リツイートされてきたブログでは、アイドルたちが「アーティストになりたい」と言ったことに対し、「努力がともなっていない」と説教じみたことを書いていたが、アイドルが憧れる「アーティスト」でさえ、バックダンサーの方がよほどダンスがうまかったりするのである。
また、「アーティスト」の定義も定かではないが、小室哲哉が「アーティスト」という言葉を使って、当時「アイドル」イメージを「古いもの」とした経緯も忘れてはならないだろう。

とにかくそのリツイートされてきた文章のレベルが低すぎて、本当にやる気をなくした。
一日経っても気分が悪いので、こうして長文を書いた。

疲れたので、終わる。

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【コミックマーケット】・「冬コミ告知」

(通常更新は、この下です)

冬コミ
三日目(31日)土曜日
東京ビッグサイト
東地区 2ホール Uブロック10a
サークル名 WAIWAIスタジオ

頒布物
「ぶっとびマンガ大作戦」Vol.20
一般的評価の対象外となっていた、主に70年代以降のマンガの紹介・評論。
三年ぶりの新刊。600円。

「勝手にグラビアアイドル評!」
勝手にグラビアイドル50人くらいに「この子はかわいい」、「この子もかわいい」と短評をつけてまとめた本。

「勝手にグラビアアイドル評! 完結編」
前回がもう少し売れると思ったが、そうでもなかったので店じまい的につくった。これが売れないと、しくしく泣きます。

それとクララ・キインさんの「大宗教学」なども委託販売予定です。

よろしくお願いします。

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しくじり先生を見て

朝からイヤなものを観た。
昨日か先週、やっていたと思われる「しくじり先生」の成田童夢の回。
「しくじり先生」もけっこう都合よく物語をつくるから、どこまで本当かわからないがいちおう本当のこととする。

まったく知らなかったが、成田童夢、今井メロ(と、もう一人弟がいる)の父親はものすごいスパルタで、五歳の頃からスキーを猛特訓、高校にも行かせなかったという(父親は京大出身)。

童夢とメロは、トリノ五輪の直前でコーチであった父親と絶縁。
(スポンサー契約で自由になる金があったから、独立できた模様)
とくにメロは、離婚した母親の旧姓に戻している。

童夢の結果は予選落ちで惨敗。この敗戦後に初めてトリノで父親と再会し、叱られてホッとしたという。
帰国後、さまざまなバッシングにあい、五輪後最初の大会で大けがを負い、引きこもりとなり、スノーボードの現役も引退してしまう。

苦労の末、世間知らずだった自分を認識し、五輪に出られたのも父親のおかげと思い直し、今はアニメやマンガの仕事がしたい、と努力している最中だという(どのくらい儲かっているかは不明)。

ウィキペディアを観ると、父親の経営するスノーボード教室のコーチをやっているそうで、主な収入源はそこからかもしれない。
童夢自身は「アウトデラックス」などでよく見ていたが、何をやっているかサッパリわからなかったことからの予想である。

しかしおかしいのはやはり父親だ(「しくじり先生」のみの情報による)。
「スポーツ選手の親がスパルタ」というのはよくある話ではあるのだが、童夢が「友人にカードの暗証番号を教えていたために、大金を持ち逃げされた」という事件は、スパルタとかそういうの以前の問題である。
私は、父親が子供たちに常識的なことを教育していなかった可能性は大きいと思っている。

また、童夢こそ、現在父親とともに仕事をしているらしいが、おそらく今井メロは絶縁しているままだろう。

今井メロの方のウィキペディアを観ると、もうメチャクチャである。彼女の中の何かが壊れてしまったとしか思えない。
ヌードになったり整形したり、タレント活動をしているのは知っているが、そんなに売れているわけでもないし、それ以前は生活保護を受けていたこともあったという。
ということは、兄の童夢と違い「何が何でも父と絶縁したい」という意志の表れとしか思えない。
メロの自伝も、amazonレビューでは評判が悪い。自身の生んだ子を貧困の中で育てているということで「DQNの親がDQNの子を産む負の連鎖はなんとかならないか」的なことを書いている人がいたが、メロの父親が京大卒ということは、メロの代から「DQN」になってしまったわけで、「格差からDQNが出現する」という社会的な問題とは少し違うようである。

あまり精神分析もどきなことは書きたくないが、メロの場合、あらゆることが父親への反抗のように見えて仕方がない。
こういう、メロみたいな「糸の切れた凧」みたいな人生を送っている人を見るのは、本当に辛い。

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【アニメ】・「一九七三年あたりのアニメ「ルパン三世」と、その後

 「テレビアニメ ルパン三世 第一シリーズ」について、「子供の頃気づかなかったこと」について、書いてみたい。
 というか妄想と言ってもいい。作品を再見してただ「思ったこと」にすぎない。
 資料的な裏付けは、ゼロだ。
 「ルパン三世 第一シリーズ」は、一九七一年十月から七十二年三月に放映されたアニメである(当然だが「第一シリーズ」と言う呼称は後付けのものである。第二シリーズが決定したから同作が第一シリーズになったにすぎない)。

 この作品は、ある世代には大きな衝撃をもたらした。「ルパン三世」というアニメが、劇場版、特番にかぎらず「気が付くと新作がやっている」といった「定番コンテンツ」となったのは、間違いなく大人気となったテレビ第二シリーズ(赤い背広のルパンね)の影響が強い(それと「カリ城」)。
 それでも新作がつくられるたびに、「なぜ第一シリーズのような雰囲気のルパンがつくれないんだ?」という声は根強かった。
 このために「ルパン三世 風魔一族の陰謀」という、第一シリーズに近いキャラデザインの劇場用作品もつくられた。声優陣総入れ替えばかりが話題となるこの作品だが、そんなことよりも「五エ衛門の花嫁」を中心にすえた「カリ城の焼き直し」であったことの方がよほど問題だったと思うのだが。このあたりは「宮崎駿の呪い」といった感じだが、なぜこの呪いがなかなか解けないかは後述する。

 最近になってようやく「峰不二子という女」や「次元大介の墓標」といった、第一シリーズのテイストを取り入れながらも、独自の雰囲気を持つ「ルパン」が登場してきた。
 ではルパン「第一シリーズ」の本質とは何だったのかというと、「七十年代的なシラケ感」であると私は考える(すでに何度も指摘されているかもしれないが)。
 「あさま山荘事件」が一九七二年二月。さかのぼって一九七一年十二月三十一日以降、連合赤軍リンチ殺人事件があったことが明らかとなる。これらの事件は、日本の学生運動に決定的な打撃を与えたと言われる(これは別の言い方をすれば、「政治」とは「選挙」以外にはないという意識の形成であり、「デモはムダ」などの感覚もこの事件をきっかけに醸成されていった。「デモが無駄かどうか」は、その国が成熟していると認識するかどうかの議論に発展するが、また別の話)。また、「三菱重工ビル爆破事件」というテロ事件が、一九七四年八月に起こっている。

 つまり七十二年から七十三年くらいの間に、次々と「反権力的行動」の凄惨さ、血なまぐささが日本中に知れわたり、いわゆる「シラケ世代」の時代になるのである。
ルパン第一シリーズ放送と同時期に、連合赤軍のリンチ殺人事件が起こっているが、リアルタイムでは、そのことはまだ世間に知られていない(明らかになったのは「あさま山荘事件」で関係者が逮捕されてから)。
 当然、アニメ「ルパン」そのものの企画はずっと前から進められていただろうから、第一シリーズのルパンは、すでに日本国民が「シラケる」以前から、シラケていたということになる。これは時代の先取りで、画期的なことなのである。

 より正確に言えば、原作の「ルパン三世」は、六十年代のスパイアクションブームや軽くてオシャレな欧米のサスペンス映画、ミステリ小説などの影響を受けていると思われる。
 これらの中には「米ソ冷戦」を「ゲームのフィールド」として解釈し、その上でそのもの自体にはさして意味のないマクガフィン(新兵器の設計図だの政治家のスキャンダルを撮影したマイクロフィルムだの)を奪い合うという、さしたるテーマのない、ゲーム性の強い作品群があった。モンキー・パンチ作品のクールさは、海外マンガ雑誌「MAD」の影響を受けているのは有名だけれども、明らかにそうした「クールな殺し屋、クールなスパイ」についてのフィクションの影響がある。「峰不二子」が本来は「007」シリーズのボンドガール的なポジションにあるが、毎回女性を変えるのが面倒だというので「謎の女 峰不二子」というキャラクターとして統一されたのはモンキー・パンチ自身が言っていることである。
 つまり、「一九七一年」の段階のアニメ「ルパン三世」の「シラケ」とは、「ゲーム化されたスパイアクション」の七十年代的読み替え、と言うことができる。

 しかし大人向けとして製作されたアニメ「ルパン三世」は早すぎたのか、視聴率低迷のため演出の大隅正秋(おおすみ正秋)は降板し、途中から宮崎駿が入ってくる。
 宮崎駿がかかわってから、次元、五エ衛門、峰不二子という「ルパンファミリー」が定着し、計画立案から盗みの実行、銭形との追いかけっこなどのエピソードが定番化したと言われる。
 「ルパン三世―まぼろしのルパン帝国」(一九九四年)という研究本を読むと、孫引きで恐縮だが宮崎駿が、もともとの第一シリーズのルパンをいかに嫌っていたかがわかって少々引く。すなわち、「ルパン帝国」という謎の組織を背後に持ち、江戸川乱歩の言う「退屈という精神病」をもてあそんで死のゲームを楽しむルパン。「退屈しのぎ」に泥棒を行うルパンに対する嫌悪感を、宮崎駿は隠さないのである。
 こうしたルパン像に対し、宮崎は、「素寒貧の貧乏人だが、知恵とバイタリティはむやみにあって、いつも『面白いこと』を探し回っている」という「庶民的なルパン」を対峙させた。ノリも少々軽くなり、「軽妙洒脱」という言葉がふさわしい展開となる。

 しかし大隅にしろ宮崎駿にしろ、似たような点がある。
 それはどちらも、非・権力、反・権力的な点である。そもそも、ルパンは「何にシラケているか」と言えば、権力にシラケているのである。それは国家権力であったり、闇社会に隠然と存在するシンジケートだったりするが、そんなものはどうでもいいと思っている。対するに宮崎駿は、おそらく「権力にシラケている」ことに、我慢ならない。彼にとっては、権力は反逆の対象だからだ。
 ルパンによって、権力はコケにされたり打倒されないといけない。だから宮崎ルパンのプロットも盗みの計画も、周到である。「カリ城」の話になるが、カリオストロ公爵はルパンによって(間接的にだが)倒されたし、ルパンは、美少女を悪の手から救い出すナイトでなければならなかった。

 簡単にまとめれば、第一シリーズは、一九七一年の段階で予見された「これからの日本」の「シラケた空気」をどう生きるか、が裏テーマになっている。これは前半の大隅ルパンも後半の宮崎ルパンも変わらない。共通しているのだ。
 ただ、宮崎駿は反逆には実利が伴わなければならないと思っているから(ロクに彼のインタビューを読んでいないが、作品を観ていたらたぶんそうだろうと思う)、もっと先の第二シリーズでの彼の手になるエピソード「死の翼アルバトロス」にしても、「さらば愛しきルパンよ」にしても、「倒されるべき悪」がきっちり出てきて、倒される。

 別の監督の話になるが、吉川惣司監督のアニメ映画「ルパンVS複製人間」においても、永遠の生命や美女など、「欲望」に固執しているのは敵対するマモーの方であり、ルパンは「夢を見ない」(本質的な欲望を持たない)存在である。
 そんな「欲望を持たない」ルパンが、ハタからは「シラケて見える」のかもしれない、というのは私の妄想なのだが。

 これが七十七年から八十年までの「第二シリーズ」になると、前作から五年の間に世の中は大きく変化し、ルパンの盗みは彼個人の退屈しのぎや欲望によるものというよりは、もっと明るく楽しい、他人(視聴者)にとっての「ショー」と化す。ルパンの盗みの理由も「不二子に頼まれたから」という設定が頻出するようになり、「不二子の心を得るために盗みに精を出す」という、明るく楽しい展開が多くなった。
 また第二シリーズの「世界を股にかける」という設定は、「第一シリーズ」でまだ「日本」を舞台にしていたがためにあった同時代性を払拭し、ステロタイプ化された「各国」でのルパンの活躍は、「政治の季節」であった六十~七十年代をとうに忘れたものとなっていった。
 うがった見方をすれば、第二シリーズのルパンが駆け巡っていた「世界」は、冷戦による平和が保証されたテーマパークのようなものだった。ときおり米ソ対立の話も出てくるが、それはあくまで盗みの舞台づくりにすぎなかったりした。

 そんなわけで、第一シリーズのファンが何を追い求めているかと言えば、それはルパンの同時代に対する「諦念」であった。諦念から来る、乾いた笑い、そしてハードボイルド。
 しかしあきらめきれない宮崎駿は、「希望」を美少女に求める。美少女とは「もろい、はかない正しさ」の暗喩であり、「権力」の対極に位置する存在だった。別の言い方をすれば「優しい権力」と言ってもいいかもしれない(だれが言ったか知らないが、「かわいいは正義」というのは要するにそういうことだろう)。
 それを敏感に感じ取ったのは、ほかならぬ七十年代、八十年代のオタクだった。だから「カリ城」の呪いは、永遠なのである。

 一方、六十年代スパイアクションブームの尻尾を持っていた「大隅ルパン」のイメージは、ルパンと敵との虚々実々の駆け引きの背景にある「組織や闇社会の掟に翻弄される諸行無常の感覚を保持していたが、八十年代からバブル崩壊までのカラ騒ぎの中で、だれもが、どうしても再現することはできなかった。
 それは当然でもあった。人々は、たまたまエアポケットのように出現した「中流幻想」に何の疑いも抱いていなかったのだから。もともとの「ルパン三世」が背後に持つスパイ、殺し屋、ギャングの世界は、「なんとなく憧れていた異世界」としての役割を喪失してしまったからである。
 同時期に、中村主水を主演とする「必殺シリーズ」がホームドラマ化していったのと、まったく同じ流れであったのである。


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【テレビアニメ】・「ルパン三世 第二シリーズ 第108話 1979年11月5日 『哀しみの斬鉄剣』」

・その1
ルパン、次元、五右衛門の三人は僻地の温泉で慰安旅行としゃれこんでいる。

ルパンが混浴温泉、次元が草原の中でクラシックを聴きながらバーボンを楽しむ間、五右衛門だけは剣の修行に余念がない。

そこにかわいい女子高生がやってくる。「時代劇の主人公みたい」と五右衛門を笑うその少女は、刀鍛冶の祖父の「斬鉄剣以上の刀をつくりたい」という悲願のために五右衛門の斬鉄剣の秘密を狙っていた。

私にとっては、2016年から観ると、問題作。

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