宗教

・「ブッダ」 全6巻(ワイド版) 手塚治虫(2011、潮出版) 

潮出版社の少年マンガ雑誌「希望の友」(後に「少年ワールド」→「コミックトム」と改題)にて、1972年から1983年まで連載された。
仏教の開祖・ガウタマ・シッダールタ(作品内ではゴータマ・シッダルタ)の生涯を描く。
といっても流布しているもともとの「釈尊伝」などに手塚治虫のオリジナルキャラを加え、手塚自身の死生観・宇宙観を語る内容である。

今から2500年前のインド。シャカ族の王子・ゴータマ・シッダルタは、「人はなぜ死ぬのか」、「なぜ身分制度があるのか」などの疑問に悩み苦しみ、ついには妻子を捨てて僧となる。
苦しい修行を経て、彼は「ブッダ」(目覚めた人)と呼ばれるようになるが、その後もさまざまな苦しみを経て、悟りの道を開いてゆく。

アニメ化の際、コンビニコミックとして出版されたものを読む。
私は手塚にも、仏教にもくわしくないが、まあ思ったところを書きます。

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【書籍】・「オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義」 大田 俊寛(2011、春秋社)

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・その1
地下鉄サリン事件から15年以上が経過した。事件直後は、オウムの起こした事件をサブカルチャーの視点から分析した論評が多かった。

だが、当然だがサブカルチャーにはその源流でありながら思想的には必ずしも主流となりえなかった、あるいはかつては主流だったが省みられなくなった古い「考え」が存在する。
本書は「オウムはオタク・サブカルが起こした事件」というステロタイプな見解を超え、その思想的源流を探って手堅くまとめた、ものすごくいい本である。

作者はオウムの思想的な潮流を過去の「ロマン主義」、「全体主義」、「原理主義」に大別し、それぞれについて定義づけて論じている。本書を読むと、80年代を経過したオタクならピンと来るのだが、どれもが70年代から80年代にかけて、アニメ、マンガ、ゲームの中で、それが善として扱われるにしろ、悪として扱われるにしろ、大きな「テーマ」として取り上げられていたことがわかるだろう。

それまでの論評では、「そこ」止まりだったが、本書はさらにそれをさかのぼり、それぞれの「主義」の生成からどのようにそれらが評価され、80年代~90年代のオウムに結実したかが解説されている。

繰り返すがたいへんいい本で、学者レベルの人でなければ一般教養として広くオススメする。
内容については、他のくわしい人がレビューを書いていると思うので、当ブログでは別のことについて書く。

・その2
オウムの思想・行動をオタク/サブカル、あるいは60年代からの社会・政治運動の流れだけで追っていくと、必ず80年代後半あたりでつまずくことになる(と思う)。
なぜなら、オタク/サブカルの流れでは、オウムに含まれる「ポップ・オカルト」は、80年代にはあくまでも「やってる本人は大マジメ、でも効果はまったくないよ」レベルの話だったからだ。麻原が事件前に、「アブないタレント」としてテレビによく出ていたのも「出す側」の、そういう解釈からのことだろう。

政治運動サイドからは、80年代の学生運動、政治運動の沈みっぷりを見ても、オウムの動きは予想のしようもないし事後的にも不可解さが残るだろう。なにしろ、実際そういうスタッフがいたかどうかは私はまだ知らないのだが、いわゆる左翼的な流れとはぜんぜん違うところから出てきたからだ。

だが実は、オウムが内包していた問題意識は、それまでのマンガ、アニメ、SF小説などにしつこいくらいに繰り返し書かれていたものだった。そこからサブカルチャー探求に乗り出してしまうと袋小路に入ってしまうのは前述のとおり。
私が言いたいのはオウムの「要素」が、それまでの「問題意識」としてはすでに出揃っており、それに唯一対抗できたのは、虚構世界での話ではあれ、ヒューマニズムだけだったということである。

ところが、秩序だった整備された世界ならともかく、「ヒューマニズム(ここでは一般大衆の生命や生活は何より尊重すべき、という考え、とする)」とは実は虚構世界では実に脆弱な思想であり、「だっておれは死にたくないし、愛する人が死ぬのもいやだもん」というだけの話なのだ。
では虚構世界のヒューマニズムを支え続けてきたのは何なのか、と言えば、それは「太平洋戦争の悲惨な体験」がいちばん大きかったと言えるのではないだろうか(本書では、その逆で、日本で終末思想が信じられるのは国が太平洋戦争で一度終わってしまったから、という解釈をも取り上げているが)。

おそらく70年代の日本の過激派のテロリズムは、「先の悲惨な戦争によって封印された、主義のための殺人」を復活させようとした試みであったろうし、当然それは時期的には失敗した。ほとんどの国民の支持を得られなかった。

当然ながら、95年までのオウムのあらゆるテロ行為も、国民から支持されることはなかった。

思想史についてきちんと勉強してはいないのだが、「主義」は貫こうとするとヒューマニズムを超えなければならない局面が、必ずあるらしい。
「主義」が多くの人に必要とされるとき、ヒューマニズムがないがしろにされる。
不況続きの日本も、今後どうなるかわからない。未来について考えた場合、オウムのようなカルトが今後すぐに出てくることは考えにくいが、「ヒューマニズムを乗り越えても何かを成し遂げたい」という欲望が、多くの人々の心に宿るという可能性は、大いにあり得る。

アニメやマンガやゲームも、その観点で観ていくと見えなかったものが見えてくるかもしれない。

古いたとえで恐縮だが「北斗の拳」の主人公のケンシロウが、登場時、「精神的な弱さ(ヒューマニズムを乗り越えられない)」ゆえに弱く、強くなってからも人々の統治のためには必ず汚れ仕事を引き受けなければならないであろう「王」の地位を捨て去ってしまったこと(その要素はラオウに仮託されたこと)について、考えてみてもいいだろう。

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