石森章太郎

・「きりとばらとほしと」 石ノ森章太郎

なんでも香取慎吾主演で、「ポーの一族」っぽいドラマがつくられるということで、ツイッターではちょっと騒がれていた。
むろん、「そんなことやって大丈夫か」という方向で。

それでふと思ったのだが、オタクに好まれる作品というのは「体験」として語られる場合と「歴史」として語られる場合がある。
もちろんその両方もあるのだが、たいてい、アイドルとかが「私はオタクなんです」と言うときは、前者の「体験」として作品を語っている場合が多い。
ドラマ化などで炎上してしまうのも、このケースが多いように思う。体験をけがされたように思うから、炎上するのだ。

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・「幻魔大戦 Ribirth」(1)~(2) 七月鏡一、早瀬マサト(2015、小学館)

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【雑記】・「もうひとつの80年代追記 幻魔大戦」で、「幻魔大戦がまとも(?)な方向に行っていた幻の80年代」について書いたが、このとき、もちろん本作がウェブ連載されていたことは知っていた。
だが、実はきちんと中身を読んでいなかった。
一読して、驚愕した。
以下は、多量にネタバレを含む。

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サイボーグ

ツイッターで「サイボーグ009VSデビルマン」をボロカスに言うツイートが流れてきました。

とくに絵柄がひどいという。
この人は「絵柄と設定を009は1966年版、デビルマンは1972年版にすべき」という提言をしていました。
えっ、でもなんで「1966年版」と「1972年版」なの?
それをベストと思っているのはこの人だけじゃないのかなあ。
009だってデビルマンだって、初期から後期まで、相当に絵柄の違いがあるわけで。
いろんな絵がありますよ。
批判している人の好みの問題じゃないのかな?

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【勝手に解説】・「サイボーグ009」流れ解説(マンガのみ、その2、なぜ神か? 完結編)

その1からの続き。

永井豪先生“ぶっちゃけ”1万字インタビュー 『サイボーグ009 vs デビルマン』上映記念
この中で豪ちゃん、「神との戦いは009よりデビルマンの方が先」と言っちゃってるが、【勝手に解説】・「サイボーグ009」流れ解説(マンガのみ、その1)に書いたとおり、マンガ版「デビルマン」は1972~73年の連載。「神との戦い」というモチーフとして観ても「魔王ダンテ」は前年の1971年の作品である。
対するに、「サイボーグ009」の「天使編」は1969年、「神々との戦い」編が69~70年。
だから、どちらが早いかと言ったら、「デビルマン」より「サイボーグ009」の方が、早いです。

まあ日本のマンガ史全体から言えば、手塚治虫が1969年以前に、「神と戦う」話を書いているかもしれないが、それは置いておく。

いや豪ちゃんが悪いと言っているのではなく、昔のことだから当然記憶違いはあるだろうし、こういうのはインタビュー載せる側が、なんとかしとかないといけないと思うんですけどね。

今回書く「その2、完結編」は完全に私の独断と偏見の話であり、読んでもあまり役に立たないと思います。
しかしこの際だから、思ったことを書いておきます。

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【勝手に解説】・「サイボーグ009」流れ解説(マンガのみ、その1)

アニメ映画「サイボーグ009VSデビルマン」が公開され、なかなかいい出来でうれしかったのだが、どうせみんな「デビルマン」は知ってても、「サイボーグ009」」のことなんか忘れているんじゃないか?

という被害妄想のもとに、以下に「サイボーグ009」の流れを、独断と偏見でざっと解説したい。

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【アニメ映画】・「サイボーグ009VSデビルマン」

時代的には「サイボーグ009」は「ミュートスサイボーグ編」の直後、「デビルマン」は「ジンメン編」の直後という設定で、双方が共通する巨悪に立ち向かう。

お祭り映画として、とんでもなく良い出来。主要人物全員の見せ場をまんべんなくつくり、なおかつストーリーもそれなりに工夫されたものになっている。
このような企画で、これ以上のクォリティを求めるのはちょっと無理なんじゃないかと思えるほどである。

事前の宣伝としては、なんとなくどうしても原作者本人のコメントが聞ける「デビルマン」の方がまさっているような気がした。石ノ森プロが探すべきは、「アメトーーク」にも出られるような、石ノ森作品をすばやく説明でき、なおかつタレント性のある人なのではないか、などと思った。

なお、同じ話が繰り返し描かれていると言える「デビルマン」と、そうではない「009」とはちょっと違うので、「009」については章を改めて解説したい。

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・「009 RE:CYBORG」(1) 原作:石ノ森章太郎、ストーリー:神山健治、作画:麻生我等(2012、スクウェア・エニックス)

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謎の同時多発テロ事件を追うため、ひさしぶりにゼロゼロナンバーサイボーグが、ギルモア博士のもとへ集う、というアニメ映画のコミカライズ。

ざっと読むかぎり、今のところ映画に忠実すぎるくらい忠実なコミカライズで、マンガ独自の「味」を堪能するというよりは、映画の追体験をするために描かれたような印象だ。

さて、本作とは直接関係ないことを書かせていただく。
「サイボーグ009」は、「神々との戦い」に、呪縛されすぎていると思う。
本来の(というか正確には「地下帝国ヨミ編」以前の、というべきか)「009」というマンガは、「あまたの国際紛争の影に、ゼロゼロナンバーサイボーグと黒い幽霊団との死闘があった」という、陰謀論ギリギリではありながら、多少なりとも現実との接点を持った作品だった。

「天使編」や「神々との戦い」は、そんな流れをいったん断ち切った(あるいは、オカルト・超常現象方面に極端に針の振れた)構想であって、本来の「サイボーグ009」という作品とは雰囲気が少し違うと思うのだ。
このご時世、「009」を復活させるとするなら「神々」を推し出すしかないとも思うのだが、なんだか「番外編」ばかりがクローズアップされる違和感があることは、長年のファンとして書かせていただく。

なお、「神と戦う」というテーマは、「デビルマン」を筆頭に、70年代によく描かれたもので、そうした時代背景を抜きに21世紀になってまで引っ張るようなものでもないと思わざるをえないのだが……。

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・「アマゾンベビイ」 全2巻 石ノ森章太郎(1998、メディアファクトリー)

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1971~72年、プレイコミック連載。
気ままなカメラマン生活を送っていた伴大助は、突然現れた全裸の美女を各国の追手から守るハメになった。
その美女は、身体は成人しているのに感情や知識は赤ん坊並み。羞恥心がなく、常に全裸である。
だが、とんでもない運動能力や超能力を身に付けていた。
アマゾンベビイと名付けられた彼女はアマゾネスの末裔であり、その超能力と財宝をめぐって、さまざまな組織が暗躍。ベビイに惚れてしまった大助は、彼女を守るために孤軍奮闘する。

この当時、「大人マンガ」と言えば簡略化された絵柄でちょいとした皮肉や風刺や悲哀を入れる、という印象があった。「青年誌」が文字どおり「成長した少年の雑誌」でしかなくなるのはこの後のことで、60年代後半~70年代初頭は、「青年」ではない「大人」の領域が、マンガの世界にもあったのだ。

石森章太郎は、もともとは「大人」より「青年」向きの資質を持った作家ではあったのだろうが、器用な人でもあり、本作は「サイボーグ009」のような「抜け忍パターン」であるにも関わらず、過酷な超能力バトルよりは常に全裸で生活している美女・ベビイが起こす騒動をスラップスティックとして描いている。

似たようなシリーズとしての「009-1」や「ワイルド・キャット」より、そのナンセンス色は強い。
そして、当初はアマゾネス伝説についての詳細な解説などが入るが、大助がベビイを「知名度をあげて敵から手出しできなくするため」に芸能界に入れたあたりから、ストーリー性よりドタバタが増え、「大助がセックスしたいのにできない」という天丼ギャグが執拗に繰り返されていく。
そして、ラストにやや唐突な文明批判があってサッと終わってしまう。

「サッと読み終えて、明日の仕事のことを考えるオトナ向け」の作品。こういったテイストのものは、70年代まで多くあったが現在では絶滅してしまった(わずかに、モンキー・パンチの軽めの短編がその痕跡を残すのみだ)。

印象としては即興芸に近く、それを念頭に置くと楽しめると思う。

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・「仮面ライダーBlack」 全6巻 石ノ森章太郎(1988~1989、小学館)

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週刊少年サンデー連載。
人類を滅ぼし、生き残った者たちだけで地球を支配しようとする秘密結社・ゴルゴムに改造され、「仮面ライダーBlack」となった南光太郎の戦いを描く。

陰謀論ギリギリとしての石森アクション

確か、本作が最後の石ノ森章太郎の少年誌連載作品。本作が連載された当時、すでに石森(石ノ森)章太郎は、少年誌では現役とは言い難くなっていたが、それでも本作は忘れ去られるには惜しい作品である。
スプラッタ映画全盛の頃に描かれただけあって残酷描写が多く、怪奇色を強く打ち出しており「バッタの改造人間」である仮面ライダーもきわめて不気味な存在として描かれている。
「怪奇アクション」としての完成度は高い。

さて、「手塚はオカルトを小馬鹿にしていてが、石森は魅力を感じていた」というのが私の仮説。永井豪は……というと、あくまでアイディアの叩き台としてしか考えていなかったんじゃないだろうか。

とにかく、石森はユダヤ陰謀論的なものにギリギリまで近づいた。だが、見識があったので特定の実在組織を悪の黒幕などにはしなかった(と思う)。
本作「仮面ライダーBlack」では、舞台は世界各地に飛ぶ。その中には俗流オカルト・超常現象的なものも織り交ぜられる。「フィラデルフィア実験」や「アボリジニの神秘」などがそうだ。

「ゴルゴム」の怪人たちが光太郎を襲うが、「ゴルゴム」の全容は最後までわからない。特撮作品にありがちな「首領」や「大幹部」といった存在もいない。あくまでも謎の結社なのである。
このあたりの組織の不明瞭さは、私の知るかぎり石森作品では徹底している。「サイボーグ009」でも「変身忍者嵐」でも、敵の存在は常によくわからない。

子供の頃何の疑問にも思わなかったことで、大人になると気になってしょうがないことがある。たとえば石森作品で、なぜ悪の組織は主人公の居住区まで把握しているのに、彼を抹殺することができないのだろうか?
家族や友人を人質に取ってしまえば、一瞬で殺せるのではないか?

確かに断片的にそのようなエピソードが出てくるが、本作でもゴルゴムが徹底してそれをやった形跡はない(アメコミヒーローが正体を隠す理由の一つは、家族や地域を人質に取られないためだろう)。

しかし、石森作品では悪の組織が「陰謀論」的な、鵺のような不明瞭な存在であると認識すれば、納得がいく部分もないではない。
なぜなら、陰謀論的な悪の組織は、自分たちの秘密を知る人々を泳がせたり、実力行使と裏腹な姑息な手段を使ったりすることがあるからだ。

もっと言ってしまうと、「妄想の産物」と考えるとわかりやすい。だからこそ、悪の組織のやることは常に合理的なようでいて非合理的なのである。

なぜ石森がこのようなスタンスでいたのかの答えは、「サイボーグ009」ですでに明らかになっている。「人間の悪の部分」こそが、悪の組織の永遠性を保証するものだからだ。本当の敵は、石森ワールドにおいては人間自身の心の中にあるのである。

だからこそ、アメコミヒーローと違い「ヒーロー(政治家や軍隊、警察などと立場的には近い)と市民」というような関係性も、石森ワールドではきわめて曖昧なのだ。

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・「スカルマン」全7巻 石ノ森章太郎、島本和彦(1998~2001、メディアファクトリー)

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石森章太郎版「スカルマン」は、1970年、週刊少年マガジンに掲載された100ページの中編作品である。
復讐のためには何の罪もない人々も殺すことを辞さない仮面の男・スカルマンがたどりつく運命を描いた作品で、「仮面ライダー」の原型となったことでも有名である。

ところが、実際読んでみるとスカルマンはガチのテロリストで、とても子供向けのヒーローには向いていない。
石森氏が、ストーリーまで含めて「スカルマン」を特撮番組の企画にあげたかどうかはわからないが、常識的に考えてデザインのみのことだったのではないか。

さて、そんな石森版「スカルマン」だが、1970年という時代がどういう時代だったかを思い起こさせる問題作である。ちなみに「あさま山荘事件」より前の話で、それ以降、このような話はちょっと描けなかったのではないかと思う。

したがって、それの続編となるとますますむずかしい。単行本あとがきでは、作者の島本氏が石森氏と打ち合わせをして、たとえば「ラストどうやって脱出して主人公が生きているのか」などのくわしいアイディアをもらっていたという。

ウィキペディアを観ると、その後の石森氏の死や、掲載誌の変更によってそうとう迷走をしいられたようで、その辺は読んでいてもなんとなく察せられる部分はある。

だが、続編としての「島本版」が、コマ割りや構図まで「石森流」を忠実に再現しつつ、それでいてきちんと「島本和彦の作品」になっているのには舌を巻く。
逆に言えば、石森氏存命中は「マンガとして当然の表現」だったことは、ほとんどが使われなくなってしまい、「石森氏独自の文法」としての側面がより強調されたということだが、それにしても島本先生の再現力はものすごい。

本作でもっともむずかしいのは、「スカルマン」がかつてテロリストであり、確実に罪を背負った存在だということである。これはヒーローものの常道としては作品内でどのようなみそぎをしてもぬぐえない「罪」だ。
スカルマンを「改心した善人」として描くにしろ、悪のダークヒーローとして描くにしろ、この辺はきっちりしなければいけない部分だったが、最後まで中途半端だったことは否めない。

反面、設定上の面白さには特筆すべきものがある。まず、登場する怪人はサイボーグであるにも関わらず、「スカルマン」は超人ではあるが生身の人間であること。
次に「共感能力」を極度に発達させた人間ということで、外面的なパワー(サイボーグの力)と内面的なパワー(共感能力。テレパシーみたいなもの?)を両方描いていたところが興味深い。

ラストシーンには賛否両輪あるようだが、本作では「正義」を「新人類にたてつくこと」とはっきり規定したことにはそれなりの意味があるのではないか。あるいは、さまざまな変身ヒーローが「スカルマン」という「原罪」を背負っているとする解釈には、深いものがある。

いずれにしろ、評価が低すぎる作品である。

なお、文庫版では石森版も収録されているようなので(未確認)、そっちを読んだ方がより楽しめるはずだ。

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