社会全般

【ジェンダー】・「悪いのはりゅうちぇるか???」

このテキスト、まず「りゅうちぇる」自身が、「いわゆる男らしい男」ではないところにはまったく触れないんだよね。

ぺこ&りゅうちぇるというカップルa自体が、そもそもが「お茶の間」レベルのテレビに出る者としてはそれまでなかった「同棲カップル」であり、りゅうちぇるは私が当初「おねぇ」と間違えたくらい、いわゆる「男らしさ」とはほど遠い存在。

だから実は、ぺこ&りゅうちぇるが入籍前にテレビに出ていたことは画期的だったし、りゅうちぇるが「おねぇではないけど何かナヨナヨしたキャラ」としてタレントをやっていたこと自体が、性役割の抑圧から世間が解き放たれつつあるということなんじゃないかというところは、無視している。

りゅうちぇるが、吉田沙保里選手に対して「自分磨きをしなくていい、努力しなくていい」と言っているのは、このブログの論者の主張のとおり、「吉田沙保里は、どう生きたってよい」と言っている。

「女の子らしいから」というのは、相葉くんの質問に、「吉田沙保里は、強くて女っぽくないから結婚できないのでは?」という意味が含まれていたから、それに対するフォローでしょう。

個人的には、「男らしさ」、「女らしさ」ということをこじらせてわけがわからなくなっているのは、このブログの論者だと思いますね。

最近はこういう「もう、何をしたらいいのかわからなくなっている」テキストが増えたように思う。

送り手だってバカじゃない、いつまでも「男は男らしく、女は女らしく」と思っていない人だって大勢いるだろう。

そうすれば表現は複雑化してくるし、今回だって抑圧の意図はないだろう(無意識に抑圧している、という理屈は当然あるにしても)。

でもそういうのに食ってかかる人が出てくる。

私がタレントとしてのりゅうちぇるが嫌いで、悪口を書きまくっているのを知っている人は知っているだろうけど、彼自身がもともとこういうキャラクターなのなら、むしろLGBTでは「ない」がゆえに、抑圧を受けていたかもしれないとか、そういうことは考えたことないのかね。

ここで非難されるとしたら、それはりゅうちぇるではなく、変な質問をした相葉くんか、彼の台本を書いた人、ということになるだろう。

なお、まさかとは思うが、りゅうちぇるが「ヘテロなのに、異性愛者の雰囲気をまといつかせてタレントとして金を稼いでいる」なんて思っちゃいないだろうね。まあそこまで深くは考えていないか。

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【特撮】・「やまちゃんビオランテ問題」

ネットでは多少沈静化したかと思うが、あいかわらず「シン・ゴジラ」に関する考察や論争がすさまじい。
しかもみんな目が本気だ。何か殺気立っている。前にも書いたとおり「うるさいファン」というのはスター・ウォーズなりスター・トレックなり、あるいは宝塚もそうなのかな? とにかくいろいろいるとは思うが、「シン・ゴジラ」に関しては何かこう「ふざけるスキがない」ほどの、論者の殺気を感じるのだ。

そんな中、「少し頭を冷やそうよ」的な意見が出てくるのは当然だが、たとえば「『シン・ゴジラ』は一番作っちゃいけない作品だったのでは」の連ツイなどは、「政権批判の意図があるのだろうけど」という一文からもう読む気がなくなる。某評論家がこの人の連ツイをほめていたけど、正気ですか!?

政権批判の意図は、たぶんないだろう。
いちおう「20年前、エヴァをつくったときと庵野監督に劇的な考えの変化がなければ」というふうに断り書きをつけておくけどね。
20年は、人の考えが変わるのにじゅうぶんな時間だから。
しかし、庵野監督と樋口監督のコンビが、若い頃からの「オタク第一世代」のタマシイで「シン・ゴジラ」を描いているなら、政権批判の意味なんか、あるはずがない。

それよりも、頭を冷やすなら、私が気になっている「やまちゃんビオランテ問題」について考えた方がいいだろう。

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【映画】・「シン・ゴジラ」についての感想の感想、あるいはゴジラという「呪い」

私は生粋のゴジラファンではない。だがまあ公開されれば見ようかな、くらいの感じだ。
しかし「シン・ゴジラ」の迫力はすごかった。世の中にはアンチ・庵野という人が存在するらしく、90年代後半のエヴァ同様、論争を巻き起こすかもしれないがそれがまた、追い風となって客が入るかもしれない。
現に、オタクにはリピーターが続出している。

さて、今回は前回の感想から数日経っての、「ゴジラシリーズ」および「シン・ゴジラ」の、ネット上の「感想」に関する私の「感想」である。

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【書籍】・「人生がときめく片づけの魔法」 近藤麻理恵(2010、サンマーク出版)

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「収納の前に、必ずいらないものを捨てろ、この順番は逆にしてはならない」
本書の言い分をひと言で表せば、そうなる。つまり捨てなければ片付けはできない。当然のことなのだが、人はものを捨てたがらない習性があるらしく、「捨てること」を心理的に不問にしてしまうようだ。
「『捨てる!』技術」(2000年)という先行本があるとは言え、なるほどと思ったところである。

「捨てるかどうか迷ったとき、手にとってみて、ときめくかどうかで捨てるか残すか決める」というのも面白い。
世の中には「整理・片付け本」という一大ジャンルが存在することを今回初めて知ったが、「手にとったとき、ときめくか」というのが本書のオリジナルだったとしたら、興味深い。
これは、完全に「衣類がたまりやすい人」の発想だろう。書籍でも同じことをコンサルタントとして顧客にやらせるらしいが、書籍から出発してはこの発想は出まい。

いろいろ面白かった。本書を読めば、片付けが進むことは間違いないだろう。

が、全体を通すと思想的にはスピリチュアル寸前のところまで行っている。ギリギリである。
「トイレを掃除すると幸せになれる」とか、そのレベルのところや風水まで接近する。しかし完全にそこまで至らないのが、またうまいところだ。

だが、「トイレを掃除すれは幸せになれる」と言った「俗信」を排除した後に来るのは、欧米流の合理主義と自己啓発だと、私は観た。
「過去の思い出に浸るより、未来のことを考えよう」とし、子供の頃の思い出の品や写真まで(チョイスはさせるとは言え)捨てさせるのは、劇的な体験によって心理を変えさせようとする、言っちゃ悪いが「心理的マジック」であろう。
「捨てたぶんだけ前向きに生きなければならない」と思わせるという手法である。

これは売れるわけだ、と感心した。この本を読んで、片付けを実行し、失敗しても成功しても著者に直接クレームを言う人は少ないだろう。
なにしろ、捨てるも捨てないも、「片づけ」をした者の判断なのだから。

ただやはり、ひっかかりは残る。どんなに「思い出の品を安易に捨ててはいけない、本当に大切なものは残しておこう」と書いてあったとしても、著者は中学生の頃から家じゅうのものを捨てまくってきたという人である。

要するに「捨てる」前提なのだ。「人にできるだけものを捨てさせるにはどうすればよいか?」から、逆算して「思い出の品をどう捨てさせるか」考えているように思える。

まあ、基本的に自己啓発本だから当然なのだが、ここにあるのは「片づけ」を実行した、個人の満足度だけである。
親から子へ、子から孫へと行った「歴史的なつながり」はいっさいない。
いやむしろ、著者にとって「片づけ」とは、「もったいない」が口癖の母親からの決別、ともとれる。

しかし、このひとの言うとおり、何でもかんでも捨ててしまったら、あとあとになって、孫は祖父や祖母がどんな人物だったのか、まったくわからなくなってしまているのではないか。

この本、序盤は「片付けの虜」となって「片付け修行」を続ける中高生時代の作者のエキセントリックぶりが笑えるのだが、後半、だんだんむかついてくるので捨てました。

著者も、本書が用済みになったら捨てていい、と書いていたので、文句はないだろう。

本書と正反対のことろにいるのは「ごみ屋敷」の住人である。つまり、「モノがあふれている時代」の象徴性が「整理・片付け」と「ごみ屋敷」に表れていると思ったが、そんなことはとっくの昔に、だれかが考えているだろう。

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【雑記】・「死闘! おたくVSサブカル 第5487万回」

「おたくVSサブカルという対立はなかった」という意見がまたぞろ流れてきたので、またぞろ私見を描こうと思います。
ただし、現ツイッター上でのだれが何をどう主張しているかというようなことは、よくは知りません。
ほんの概略だけをつまんで、私見を書くというだけの話です。
ちなみに世代が重要になってくるので、私は1967年生まれである、ということは書いておきます。

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【雑記】・「いつまでも読者をなめるんじゃねーぞ」

オヤジ週刊誌には「今どきの若い女の子は何を考えておるのか?」という興味を満たす連載が、たいてい載っている。

それが「FIRDAY」においては「オンナの生態学」というコラム。だれが書いているのかもわからないし、女性二人の会話風になっているところも、責任の所在をあいまいにしている感じだ。

そして、オヤジ週刊誌に載っている女性会話風コラムに読むべきところナシ、は私の持論である。それどころか、本当に女性が書いているのかさえ分からない。

今週は少女マンガの話だった。「三十過ぎて少女マンガにハマる私って……?」みたいな記事で、結論は「ハマったっていいじゃない」ということなのだが、書かれていることがあまりにひどすぎて、読んでる途中で破り捨ててしまった。

破り捨てたから正確なところはわからないが、簡単に言えば「少女マンガに描かれている男女はセックスアピールという点でリアル。少年マンガには男に従うバカ女しか出てこない」。

私からすると「またこれか」であり、さらに言えば無記名コラムであるせいか、脇も甘い。


「自分を変えたくない、そのままの自分を愛してほしい、俺サマで冷たくて、でもぞっとするほどイケメンで、自分が本当に守ってほしいときに守ってほしい、優しくしてほしい」という「自分勝手」な男性キャラ像を「リアル」という厚顔無恥。

女性のファンタジーは擁護し、男性のファンタジーは踏みにじる残酷さ。

さらに言えば「大人にならなくていい」という、雑で遠回しな結論。


私は20年くらい、このテの「若い女性が言うんだから(それも会話形式ということで最低二人は合意している)間違いない、けど最終的にはどうでもいいや」みたいな記事を読まされてきた。

もちろん、金を払って、である。

ふざけんなと思う。

今度、怒りで破り捨てなかったら、きちんと抗議のメールを送ろうと思う。

読者をバカにするのも、いいかげんにしてほしい。

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【雑記】・「で、秋元康自身は女性差別者なのだろうか?」

<HKT48>「女性蔑視の歌詞だ」新曲に批判
「アインシュタインよりディアナ・アグロン」が女性蔑視ととらえられるのは当然だ。

だが一方で、それの替え歌をつくるのはダサい。

「替え歌がださいかださくないか」は運動論の問題だから深追いはしないが(シールズの「ラップ」もまだ聞いてない)、サブカル的に面白いのは実は秋元の何百曲もの作品の中から「女性賛歌」の歌を探し出すことだ。

もっとまじめにやるなら、秋元の思想史をたどることだ。どうせ反対派はそんなこと、絶対やらないだろう。

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【雑記】・「おニャン子はモラルを破壊したか」

(引用開始)
×××@xxxxx ・ 4月6日
アイドルちゃんにきわどい歌歌わせるのは山口百恵のアイドル歌謡時代に確立されて、おにゃん子でモラル破壊に繋がったんだな。
(引用終わり)

なんだか眠れないので、たまたま目にしたこのツイートについて思ったことを書いてみる(注:別に、このツイートに対する批判ではありません)。

「若い子がきわどい歌を歌う」というのは、パッと思いつくと「藤圭子の夢は夜ひらく」が1970年で、藤圭子は20歳。山口百恵デビューのわずか三年前ということにまず驚く。

確かに山口百恵は十代からきわどい歌詞で歌っていたので、成人していた藤圭子と比べて大きな対比となるか微妙だが、「若い」、「薄幸」、「きわどい」ということで言えば、やはり一時期の山口百恵の楽曲と藤圭子のそれには共通点が否定できない。

そして、藤圭子の方が山口百恵より早い、ということになると思う。

藤圭子よりも前がいるかもしれない、というかいると思うが勉強不足で、知らない。

ただし、山口百恵は「アイドル」という枠内で、きわどい曲を歌った嚆矢とは言えるだろう。

さて、山口百恵の、たとえば「ひと夏の経験」みたいな歌が、おニャン子の「セーラー服を脱がさないで」に直接つながっているか? というと、これも私には断言はできない。

というか、そもそも、おニャン子の歌っていたことが「モラル崩壊」と言えるかどうかという疑問が残る。

70~80年代アイドルは、むちゃくちゃ大雑把に言うと、非処女よりも処女に価値を置く「処女信仰」で成り立っている。

山口百恵~中森明菜の路線はちょっと違うが、歌っている歌と本人たちのキャラは別だった。だからこそ、百恵・友和カップルは一般庶民にとって一種の「理想」だった、という、百恵が歌っていた歌との矛盾が出てくるのだが、それはまた別の話。

で、「処女が最も価値が高い」というのはどういうことかというと、原理的には生涯に一度しか男性と付き合えない。処女でなくなったら神通力を失う、ということ。

だから「別に処女でなくてもいい」というのは、少女側からすると「解放」である一面が確実にある。実際の性行為の有無だけでなく、あらゆる「処女っぽさ」を守らなければならない行動から解放されるからだ。

おニャン子の一連のぶっちゃけた歌は、こうした「別に処女じゃなくてもいい、むしろ処女じゃない方が身軽」という「解放」面に重点が置かれたものだった。

それに対し、山口百恵が十代の頃の歌というのは、その全段階というか、もっとジメッとしている。

おニャン子の歌が、山口百恵の歌に対し、「何をジメッとしてんだよ! もうそういう時代じゃないんだよ」という意味で歌われたという文脈であれば、山口百恵の(一時期の)歌とおニャン子の路線は、つながっていると、いちおう言える。

ちなみに、アイドル楽曲には「一見清純な歌なのに、エッチな隠喩とも受け取れる」という技法もあるので、

「アイドル楽曲がだんだんとモラルを失っていった」みたいな流れにはならないと思う。

一例として、河合奈保子の「大きな森の小さなお家」をあげておく。

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【書籍】・「なぜ公立高校はダメになったのか 教育崩壊の真実」 小川洋(2000、亜紀書房)

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本書刊行の2000年当時の、高校入試を中心とした教育問題について論じた本。
学生時代の思い出はいろんな人が語るが、その所属する「学校」そのものが、人為的システムであることにはなかなか気づけない。
本書では2000年当時、なぜ公立高校の学力が低下し、私立高校が進学校として存在感を出してきたのかについて、戦後間もない頃、首都圏に「集団就職」でやってきた地方の人たちが都市に定住し始めた頃から調べ、考察している。

タイトルからは、とうに学校を卒業してしまった者、学校に通う子供のいない者にはあまり関係のない内容のように思えるが、実はとんでもない話である。
本書は通俗的な教育指南書が語らない、秘密の部分を暴くような刺激的な内容である。

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【AV】・「(個人的激怒)業界まかせの一般人」

先日、NPO法人「ヒューマンライツ・ナウ」が発表した「アダルトビデオ強制出演」についての報告書なるものが出て、それに対してAV女優からは反発の声も出ている。
なんとなくそれらの記事を眺めていたら、あるコメントで、
「AV業界は社会貢献が足りない。偏った性のファンタジーをばらまいておいて、責任を取らないのはおかしいので、学校教育が後手に回っている性教育などをすべき」
という意見があった。
私の個人的な感想は、「えー、ふざけんなよ、じゃあおまえが率先してやれよ」
である。

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