社会全般

【雑記】・「まだ童貞。をプロデュース騒動について考えている」

映画「童貞。をプロデュース」の舞台挨拶の事件について、まだ考えている。
いちおうつけくわえておくと、あの舞台挨拶の構図が、「いじめる側といじめられた側」という単純な図式ではないらしいことは、少しだけ漏れ聞いている。
また、肝心の映画に関しても未見なのも、そのままだ(第一、観る方法がもうない)。

しかし、あの映像、事情を知らない者にとっては「やられた者の復讐」以外に見えない。これは非常に危険なことを承知のうえで書いている。
私にとってそう見えてしまうのは、ここ20年くらいの日本サブカル界において、何度も何度も「いじめ」めいた光景を目にしているからだろう。

「サブカルチャー」って反体制的で自由なものに思えるのだが、正直言って「弱者が強者に噛みついて行って、勝利をおさめた」といった爽快な光景など、見たことがない。
大半が、いわゆるパワハラである。
「パワハラ」はPCから来る言葉で、今回の舞台挨拶の件についても、PC的に松江監督を批判することはしたくない。
日野皓正のビンタは「教育問題」がからんだくるのでPC的に批判されるべきだが、「童貞。をプロデュース」から、映画の撮影内でのパワハラをいちいちチェックすべき、ということにでもなったら、それはそれで困ったことになる。
鈴木砂羽の舞台トラブルも同じである。

しかしまあ今回は便宜上、「パワハラ」という言葉を使うが、この20年間、サブカル界で先輩から後輩へのパワハラを、何度見て来たかわからない。

一時期、ロフトプラスワンの開演前に流す映像で、プロデューサーの高須基仁が若者を足蹴にするシーンが何度も何度も流されていたが、あれの事情は知らないが、やはり年長者が若者に向かって癇癪を起こしているように見える。
また、高須氏に関しては、怒って客席に向かってビールのジョッキを投げつけ、それが当たったお客さんがケガをしたという話も聞いた(示談は成立していたはずだが)。これだってお客さんに罪はない。

私の印象では、サブカル界は、他の縦社会や体育会系のまねごとをしているだけで、それだけにいじめる側も加減を知らない。
しかも「面白い」と思って客前でイジメるのである。「童貞。をプロデュース」騒動に関して「サブカルの冷笑主義が逆襲された」と言った意見がチラホラあったが、別にイジメはサブカルだけにあるのではない。むしろ、社会全体のイジメ構造の氷山の一角に過ぎないのだが、サブカル界全体が「イジメたら面白くなる」と変に思い込んでいた、ということについては、同意せざるを得ない。

実は最初は、私もサブカル界で、芸人の先輩後輩のような「いじったりいじられたりする」という関係が納得ずくで形成されていると思い込んでいた。

もちろん縦社会の芸人界に、イジメがないはずがないのだが、少なくとも「陰湿なイジメ」とは違った、「表面的ないじり、いじられる関係」があることは確かだろう。
そのような「役割分担」が、90年代半ば頃はサブカル界にもできていると思い込んでいたのである。

だがどうも実情はそうではなかった。
いじめられた側が「いじめないでくれ」と言えば、「シャレがわからない」、「空気が読めない」と言った批判が、先輩からなされるだけだ。

また、もうずいぶん前になるが、ある若者が生意気盛りに、「年長者でも間違ったことを言ったら正されねばならない」と主張したところ、「態度が気に食わない」という理由で、その若者がいる居酒屋に先輩格の男が乱入して若者を殴ったということもあった。
このとき驚いたのは、両者にはさらにリーダー格の男性がいたのだが、彼は「殴った方」の肩を持ったのである。まあ、当時から私がその集団に所属していたわけではないので、その後どうなろうが知ったこっちゃなかったのだが、もともと文化系的な雰囲気のゆるいサークルだと思っていたから驚いた。
せめて喧嘩両成敗にするくらいの料簡はなかったのだろうか。

他にも、当然、私はサブカル内のコミュニティの内情は知らないわけだから、知っているのは「イジメることをエンタメ化しようとした試み」ばかりだということになる。
90年代にしろ、2000年代にしろ、なぜサブカル界ではあんなにも若い層をイケニエにして笑いを取ろうとしていたのだろうか。
しかも、体育会系のようにじゅんぐりにやられていたわけでもない。権力を握っている側はサブカル界に参入当初から、実力で存在できる人たちが多く、「同じことを先輩にやられてきた」というわけでもないようだった。
そういう人たちが、面白がって後輩たちをさんざんイジメて笑いものにした。

他にも、「たとえ落ち度があっても業界内ならカタがつく」と思っていて、相手がまったく業界内慣習など知ったことじゃないのでこじれてしまったとか、自分の「子分」になれるようなやつを探して、サブカル界のコミュニティを渡り歩いていたヤツとか、とにかく「陰湿な世界だな~」という記憶しかない。

この際、「サブカルの世界は陰湿だった」とはっきり認めてしまって、ざんげでもすればいい。

もしかして、サブカル界に潜在的な「アンチPC的態度」が根底にあり、こうした「イジメ」を誘発していたのかもしれないが、だとしたらもうそのような態度にはアンチPCという観点からも何の意味もない、と業界全体で自覚した方がいいだろう。

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【社会全般】・「日野皓正の体罰問題」

「童貞。をプロデュース」の舞台挨拶問題とともに、こちらもPC(ポリティカル・コレクトネス)問題として、取り上げられるケースが多いだろう。
しかし体罰そのものに関しては、私が子供の頃からさまざまな局面で問題視されており、当然ながら別に今、始まった問題でも何でもない。
ではどのように体罰に対するとらえ方が変わったのか、駄文を書き連ねたい。

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【社会全般】・「童貞。をプロデュース問題」

昨日、一昨日と、意にそわぬ形で大散財してしまった。
別にキャバクラでぼったくられたと思われても、十数万円もするトランスフォーマーのスタチューを買ってしまったと思われてもかまわない。
それと、心無いことも言われた。
辛い。

辛いついでに、現時点での「童貞。をプロデュース」をめぐる騒動について勝手に書く。
ちなみに、大前提として私はこの映画を観ていない。

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【オタク】・「正義を問わないのなら、ヒーローものなんて見なくていい」

実は、まったく好きではない勧善懲悪のシリーズものがある。好きではないのですべてを鑑賞して論評することもできない。ただそれが絶賛されるさまを、横目で眺めているだけである。

また、別のことも過去にあった。
ある人が言っていた。
「鉄人28号」で、正義の正太郎くんの側につくか、悪の組織につくか選ぶのだったら断然、悪の組織だ。そっちの方がずっと楽しそうじゃないか」

まあ、「鉄人28号」のシリーズというのは、いちおう勧善懲悪ものだが、そもそも「正義とは? 悪とは?」を問うような話ではない。よく言われる「リモコンを使うものによって鉄人は正義にも悪にもなる」というのも、形成が「リモコン」をきっかけにたやすく逆転するストーリーの面白さを表現したかったということだろう(原作の「バビル二世」でも、三つのしもべはヨミも扱えるという設定になっている)。
別に「鉄人」において、「何が善で、何が悪か」は明朗すぎて疑うところはない。

とは言え、「勧善懲悪モノ」は文字どおり、善をすすめて悪を懲らしめるものである。これは絶対的なもので、いかに定型を崩そうと、あるいは定型どおりにやろうと、この「勧善懲悪」の部分から目をそらしたら、それは「ものすごく面白い物語」であるのかもしれないが、「勧善懲悪もの」ではないのである。

私の経験上、オタクはすれっからしというかひねくれているというか、「勧善懲悪モノを好む」のが性癖であるようで、実はまったくそんなことはない。
こだわっているのは私くらいのものであり、いつも孤独を感じている。

ハリウッド映画を観ていると、「勧善懲悪」ということにかなり意識的だ。
半可通を承知で言えば、これはキリスト教などの「唯一神」と「個人」が対峙するという、文化的な背景があるように思う。

だから「バットマン」は、彼にとっての「神」である、「正義(むろん彼にとっての)」に準じている存在である。
彼は自分の行動に際し、常に自分の心の中の「正義」を参照しているのだ。
人気のスパイダーマンも、「大いなる力には大いなる責任が伴う」というのを価値基準にしているようだ。
「責任」をまっとうすることが、スパイダーマンにとっての正義ということだ。

対するに、日本人にはこういう「戒律」的なものはそぐわないようだ。
実は日本で人気のヒーローものでも、精査していくと結構いいかげんであったりする。
こうした、日本におけるヒーローの「正義論」については、戦後の作品に関して言えば「日本自体が先の戦争で悪いことをした(とされている)」ことが根底にある。何も考えていないような作品にも、それがある。
だから、「世界の警察」とか言っていたアメリカとは、事情が違う。

しかし、それすらも考察の対象にはなっていないことが多い。
巷のヒーロー論を読むと、日本のヒーローものが好きな人は、「ヒーローの倫理観」みたいなものに無頓着な人が多い気がして、本当にウンザリする。

当然だが、「勧善懲悪」そのものに興味がないのなら、勧善懲悪ものは観ないでもらいたい。
あくまでも「勧善懲悪とは何か?」をベースにしないと、ヒーローものを論評する意味は半減する。

それがわかっていない人が多すぎる。

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【社会全般】・「えっ、韓国領事館にベトナム反戦像?」

8・15在福岡韓国領事館前“ベトナム反戦像”設置にあたっての韓国向け声明(「我々少数派」)
外山恒一の声明文。
知的ユーモアというのは、こういうことを言うのだろうな。
海外ではたまに、こういう「知的、かつ政治思想への問題提議的なパフォーマンス」の存在を耳にするが、日本ではこの人くらいしか実践者はいないのではないか。

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【オタク】・「オタクを始めることにも、やめることにも意味なんかない」

オタクがオタクでなくなるとき 「ヤメヲタ」はオタク活動を終止するとき何を遺すか(山本一郎、文春オンライン)
「だれかがオタクをやめる」ことで、他のオタクたちは言いようのない不安に包まれるらしい。
44歳の山本一郎にとってはそうなのかもしれないが、50歳の私にとっては、どうでもいいことではある。
そのことについて語りたい。

まず、「オタクをやめる」ことについて語るには、「オタクを始める、続ける」ことの意味について考えなければならない。
で、私の考えでは、別に何の意味もない。
趣味なんだから。

実はそこにこそ、まず第一のトリックがあるのだ。

「オタクこそ、実はエリートなんだ」的な言説をばらまいたのは、岡田斗司夫だと言っていいだろう。
それまでにも、オタク擁護に尽力した人はいる。大塚英志の功績は小さくないと私は思っている。宅八郎だっていた。他にも、目立たないがいとうせいこうなどはオタクに関して重要な発言をしている。
が、ここでは置こう。

で、岡田斗司夫が95年に「オタク学入門」を出した年というのは、宮崎勤の連続幼女誘拐殺人事件から数年が経ち、ようやく「オタクイコール危険で気持ち悪い」というイメージから、何かアクションがあれば脱却できそうな時期だった。
だから、「オタク学入門」は、プロパガンダの書であり、今読むとおかしなことがたくさん書いてある。
だが、それは「オタクイコール気持ち悪い」イメージからの脱却のために書かれたため、仕方がない部分もある。

「気持ち悪い」というイメージが、そもそも、「オタクはアニメやゲームを愛するかぎり、そこから抜けられない」ということを意味していた。中島らもは引きこもりのイメージがある「おたく」とは逆の「おそと」なる言葉も編み出したが、やはり「脱却不可能」というイメージを感じたのだろう(定着はしなかったが)。

岡田斗司夫はオタクに関する負のイメージを逆転させるために、いろいろな策を弄したわけだが、そのため「逆転したオタク像」は、求道的で、まるで修行僧や武道家、お茶やお花のような「道」としてとらえられた。
実はここから「錯誤」が始まっている。
だって、オタク趣味って、趣味なのだから。

それまでの「大人の趣味」であった、切手集め、盆栽、囲碁、将棋、釣り……。どれも、「脱却不可能な道だ」と唱えられたことはなかったはずである。

というより、「オタク趣味」は「それ以前の趣味とは違う」という差別化を図らなければならなかった。なぜか。
「新しいライフスタイル」として売り出すためだ。
だれが何のために、というのはいろいろややこしいので置いておく。

おれは岡田斗司夫なんか関係ない、彼のことなんか昔から嫌いだった、何の影響も受けていない、という人たちも、オタクを「道」ととらえている点は同じである。

そうじゃないのだ。
ただの趣味なのだから。

「ただの趣味」なら、やめようが、やめてからまた始めようが、個人の勝手である。

「オタク趣味の情熱は、必ずしも年老いてから持続しない」と言うが、そんなのは当然である。
趣味なのだから(しつこい)。
そうでなくても、仕事だって、情熱を四十代、五十代になって持続させている人ばかりかどうかはわからない。

それと「オタク趣味を持続させるかどうか」は、結婚や子育てと関わってくる。結婚したり子育てするようになれば、趣味にさく時間は確実に減るからだ。
だが、ここの点でも、別に結婚や子育てに当てる時間と趣味の時間が、等価交換になるわけではない。

ここで注意してほしいのは、私が「だから結婚しても子供が生まれても、オタク趣味は続けられる」と言っているわけではない、ということだ。
別にやめてもいいんじゃねえの、と言いたい、ということである。

「オタク趣味をだれかがやめると、オタク仲間に不安が広がる」などと言うのは、
不安商法とまでは言わないが、それに近いものを感じる。
本来、ほぼどうでもいいことなのだから。

オタク的趣味を持続させることは果たして「求道」なのか? ということから、まず考えた方がいい(余談だが、小池一夫のツイートにおけるオタク擁護も、この「求道精神」が垣間見える)。

求道なら、オタク趣味に一生を費やした後、虚無感しかない、ということはないはずだし、求道でないなら、イヤになったり無理が生じたら、やめてもいいはずである。
宗教じゃないんだから、途中で投げ出したって地獄に堕ちることはないだろう。

それだけの話だ。

まあ、気楽にやろうよ、ってことである。

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【アイドル楽曲】・「えっ、状況を皮肉った曲なんじゃないの? それと追いつめられた者のプライド。」

欅坂46「月曜日の朝、スカートを切られた」が波紋 切り裂き被害者が「不謹慎」と指摘、署名活動へ

(引用開始)
しかし、尾崎が抑圧への抵抗、自由を手にするために行動することの解放感を歌うのに対し、『月曜日の~』は、「目立たないように息を止め」ることで抑圧を受け入れよとの文脈を持つ。その文脈で、切り裂き被害に遭った曲中の主人公が「私は悲鳴なんか上げない」と言う。これは、犯罪被害者側に沈黙を強いていると受け止められても仕方がないのではないだろうか。
(引用終わり)

いやーそうは思わないけどなぁ。

「どこかの暗闇でストレス溜め込んで 憂さ晴らしか」
っていうフレーズが一番から入っているから、
「悲鳴を上げたらスカートを切ったやつが喜ぶだろうから、そんなやつの憂さ晴らしなんかには付き合わない」
ということなんじゃないの?

どんなに抑圧的な社会でも、女の子のスカートを切り裂くことがいいわけないんだから。

検索したら、この歌詞は「サイレントマジョリティーの前日譚」ということになっているらしいので、「スカートを切られても声を上げないことが、唯一の矜持」だった女の子が、「サイマジョ」で積極的に声をあげるようになる、という流れでしょ。
まあ「サイマジョ」を知らなくても、この歌だけで完結していてもいい。

世の中が息苦しい、でも出口がない、どうしよう、そういうときに他人を苦しめて憂さ晴らししようとするやつがいる。
社会が抑圧的なことには変わりないけれど、「どこかの暗闇でストレスを溜め込んでいるやつの標的にだけはなりたくない」という歌詞なんではないかと思いますけど。

違うの?

おれの読解力も鈍ってきたかなあ。

でも「歌詞全体が皮肉」ってのはごくたまにあって、
パッと思いつかないけど、植木等の、
「これで日本も安心だ」
とかさあ。
その路線なんじゃないの?

秋元康の「額面どおりに受け取れない、状況を皮肉った曲」としては「サイレントマジョリティー」とは正反対の「他の星から」(乃木坂46)っていうのがありますしね。

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【テレビ】・「『プロジェクトX』の功罪」

「プロジェクトX」が経営者たちに「仕事の為に社員が徹夜したり無理すると凄い成果が出る」という考えを植え付けてしまった可能性について、というのがトゥゲッターにあったので、私がこの番組について思うところを書きたいと思います。

「プロジェクトX~挑戦者たち」(2000年~2005年)は、今で言う「日本スゴイ」番組の嚆矢、ということは言えると思います。
つまり「終わりの始まりだった」という解釈もできるのですが、私はひとつの番組に、今の経営者が影響されてブラック企業があるというような見解は取りません。これでは「エロマンガの影響で性犯罪が増える」というロジックとまったく同じです。
まあ、少しは影響はあったかもしれませんが。

70~80年代にはイメージとして「高度成長期のサラリーマン」とは、「仕事、仕事で家庭を顧みない父親像」、「日本は文化的なことは輸出せず、自動車や家電(だけ)を輸出し続けて来た」というのが「ベタなおとしどころ」でした。
「日本のアニメやマンガは世界一」などと、俗に言われるのはこの頃のコンプレックスの反転、という側面も、確実にあります。

とくに80年代は、一億総中流、という意識の中で、「自由を謳歌しよう!」という雰囲気がみなぎっていましたからね。
「いい大学を出ていい会社に入ることが幸福なのか?」みたいな問いも、「ベタ」としてあった時代です。
つまり「高度成長期のモーレツサラリーマン」は、「忘れ去られるべき存在」ですらありました。
確かに「24時間戦えますか」というCMが流行ったり(1989年)、「むちゃくちゃ働くほど偉い」という価値観はその後もあったんですが、同時に「5時から男」なんてコピーも流行った時代。仕事もレジャーも恋愛も、全体的にいろんなことが膨れ上がったのが80年代中盤からバブル崩壊時くらいまでで、「ひたすら仕事」というイメージの高度成長期とは、やはりニュアンスが違うんです。

で、そうした「高度成長期のサラリーマン」のベタなイメージに生命を吹き込んだのが、「プロジェクトX」だったと言えます。
70年代~80年代は、「顔の見える」スターがひたすらに持ち上げられていた時代です(90年代はちょっとわからない)。当然、その裏にはスタッフがいるのですが、それはあくまで黒子として認識されていた。
高度成長期に開発された商品だって、だれがつくっているかなんて、業界以外の人は知らなかった。
そうした「高度成長期にがむしゃらに働いてきた人々」の「顔」を見せた、一個の人間としてクローズアップした、ということは、この番組の功績のひとつだと思います。

それと、「プロジェクト」という観点ですね。一人の天才ではなく、チームで成し遂げた仕事を番組で取り上げた。
そうした部分も、非常に大きかったと思います。
その後始まった「プロフェッショナル」では、また「すごい人」にスポットが当たるように戻っちゃってますけどね。よくも悪くも。

事実をねじまげたのは問題ですが(私が印象に残っているのは、あさま山荘事件でカップラーメンを無視したこと)、それまでのエンターテインメントにおけるオトウサンたちの「扱い」を観ると、「プロジェクトX」のヒットは必然だったし、「いい面も悪い面もあった」というのが、妥当な評価じゃないでしょうか。

たとえば産業史とかをやっている人からするとムチャクチャな番組に思えるかもしれませんが、テレビの視聴者はそういう人たちが当たり前に思っているところにまで、まったく到達していなかったんですよ。前述のように、「プロジェクト」の興味深さというのは理解されづらかった。そこに目を向けさせたというのは、やはり意味があると思います。

なお、「無理」の部分ですが、「徹夜なんていやだし、非人間的」と思っている人でも、がむしゃらにがんばっている人を見るとやはり感動してしまうことにこそ、目を向けるべきだと思いますね。
たとえば「ブラックジャック創作秘話」なんて「手塚プロってムチャクチャだな」って思うんだけど、やはり感動してしまう。
「プロジェクトX」を批判して、他の「無理や無茶をしている人たち」に感動してしまうとしたら、それは矛盾なのだ、ということにはしっかり向き合うべきだと思います。

以上、「プロジェクトX」についてのフォローでした。

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【表現】・「ラッキースケベ、および少年ラブコメ問題」その2(完結)

ちょっと気になったのが、一連の騒動を通して、
「ジャンプってマチスモでしょ」
と捨て台詞のように一行、だれかがツイートしていたことである。
検索すると「マチスモ」とは、ラテン・アメリカの男性優位主義のことのようだが、この場合は「マッチョイムズ」程度の意味だろう。

こうなってくると「ゆらぎ荘の幽奈さん」は、そもそも男性優位なマンガなのか? というところから議論を始めないといけないが、「だいぶマイルドにした、『おちぶれたマッチョイムズ』」だというのが、70年代後半以降の少年ラブコメや少年エッチマンガである、というのが私の認識だ。

だから、「幽奈さん」に限らず、ハーレムラブコメ作品にまつわる問題というのは、批判者側からすれば、「おちぶれたマッチョイムズを放置するのか、潰すのか」ということになるだろう。

そもそも、ハーレムの設定が「コメディ」として描かれていること自体、マッチョイムズをまともに描くのはアホらしいという含意がある。
こういう傾向が始まったのは、七十年代後半頃から。
「うる星やつら」とか、美少女二人どっちを取るかというあだち充の「みゆき」などが嚆矢となるだろう。
当時は「少年ラブコメ」と言った。もっと正確に言えば「ラブコメ」。少年誌だけで流通していた言葉だからだ。
(少女マンガのラブコメと少年マンガのラブコメはかなり違っていた。)

時代的には、松田優作主演のテレビドラマ「探偵物語」(79~80年)が、コメディ調に描かれていたことと重なる。
もちろん、同時代にも大藪春彦のハードボイルドの映画化や、渡哲也の「大門軍団」みたいな「男らしさ」を持ち上げる傾向は続くのだが、それでも70年代前半とは違ってきていた。

設定としては、多くの場合、主人公は優柔不断、何となく本命の女の子はいるのだが告白できず、そのうちなぜかいろんな美少女が集まってきてしまうというパターンである。
しかし、ときおり不良にからまれたりとか、冬山の山荘に二人きりになったりしたときには男気を見せる。
エロ描写で言えば、サービスショット的なものもときおり入っていたと思う。
(少年エッチマンガを、ラブコメ作品ととらえるかは面倒だがここではとりあえず、別物とする。)

ここにははっきりと「理想の男性像」の変質がある。別に昔っから同じことをやってきたわけではないのだ。

そのあげく、「ラッキースケベ」の導入となった。こうなったら、たとえ合意でも好きなこと手を握ったり、キスしたりすることもむずかしい。
つまり、そこまで「旧来の男像」を骨抜きにしたのが現在の「ハーレムラブコメ」の主人公なのだ。

だから、問題とするならそうしたハーレムものの構造自体を問題にしないといけない。

そもそも、すでに「幽奈さん」は6巻くらいまで単行本が出ている。
しかも、週刊少年ジャンプという超メジャー誌だ。
それが巻頭カラーになって「見つかり」、騒ぎ立てられる。

たまたま子供の買ってきたジャンプを観て、顔をしかめる母親、というのはわかる。
だが、それに寄ってきてわーわー言っている人は、「そういうのの監視員」としても、ぬるすぎる。

むろん私としては、繰り返すが「放置しても何ら問題ない」という考えである。
まあはっきり言って、どうでもいいということだ。
たとえば、「優奈さん」がこの騒動で打ち切りになったら、世の中変わるのだろうか?
まず変わらないだろう。

少年マンガ界が今まで無法地帯で何もやってこなかったのならともかく、時代の流れで、主人公の少年のキャラ設定まで「ヘタレ」になっているのに、それでもまだ批判する意味がわからない。
まあ、ジャンプも客商売だからクレームが来れば考慮はするだろう。

だがそれにしても、どうでもいい話だ。
フェミニズム的な課題にしぼったとしても、他に考えるべきことはたくさんあるはずだ。

(関連)
「ゆらぎ荘の幽奈さん」巻頭カラー問題

「ラッキースケベ、および少年ラブコメ問題」その1

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【表現】・「ラッキースケベ、および少年ラブコメ問題」その1

「ラッキースケベ」の語源については、いろいろあるのかもしれないがとりあえず、ネットで検索していちばん最初に出てくるのは「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」(2004~2005年)の作中に出て来たという話。
その後、「少年主人公の側から、絶対にエッチなことを仕掛けないようにしよう」と、原作者とマンガ家のあいだで決めたという「To LOVEる -とらぶる-」が2006~2009年まで週刊少年ジャンプで連載されている。
(この「取り決め」に関しては、単行本の1巻に書いてあったと記憶するが、今手元にない。すいません。)

ネットを観ると「To LOVEる -とらぶる-」が、少年誌エッチの限界を超えた、みたいな意見が多く誤解されがちだが、連載当初に、「少年主人公の側から、絶対にエッチなことを仕掛けないようにしよう」と決めた、というのはすなわち、
「ラッキースケベなシチュエーションしか登場しない」
ということである。

ではなぜ「ラッキースケベ」なシチュエーションが多様されるようになったかと言えば、現場でどういう話し合いがあったか知らないが、普通に考えて「少年主人公からのセクハラ的な行動を描かない、要するにセクハラを描かない」ということが目的だとしか、考えられない。
(80年代には、「少年主人公やその仲間たちが、女子更衣室や女風呂を覗く、などの明確にセクハラなシチュエーションが定番化していた。)

くわしく調べていないが、2004年に「用語」として「ラッキースケベ」が登場しているということは、シチュエーション自体はそれより前からあったと考えられる。
また、こちらも調べていないので申し訳ないが、「女性の乳首を描かない」というのも自主規制としてずいぶん前から行われてきた。
これも立派な自主規制である。

もちろん「時代は変わったのだから、もっと厳しくすべき」という意見もあるだろうが、個人的にはピンと来ない。
少年マンガなんだから、戦いや恋愛や、多少の(ここが反対派にとっては問題なのだろうが)エッチシーンが出るのは普通だとしか思えない。

なお、「エロではなくハラスメントだからいけないのだ」という意見に関しては、風でスカートがめくれるとか、雨でブラウスが透けてしまうとか、水着が吹き飛ばされてしまうとかいったシチュエーションに、「ハラスメントする側」がないので、成立しづらいと思う。
「作者がハラスメントをする側だ」という意見もあるだろうが、それでもマンガ作品内で行われる非・道徳的行為(暴力や殺人、ほかの違法行為)よりも率先して規制されるべきという理由が見当たらない。

そもそもが「ラッキースケベ」自体が妥協の産物なのだから、それに反対するなら、「もう時代が変わったんだからそれすらも許されない」というロジックがなければならない。

では「ラッキースケベ」に到達する前は少年マンガはどうだったのか、ということについて、気力があれば次回、説明する。

続く。

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