絶望

無題

ぜんぜん、ブログ書かなくなった。
理由は、自分の書くブログの文章が好きじゃないので。
後から読み返しても、意味がぜんぜんわからない。

ところで、「渋谷ハロウィン」に関してですが、
「交差点で無秩序にバカ騒ぎするウェイどもより、コミケで秩序だった行動をするオタクの方が上!!」みたいな、謎の対抗意識を燃やしているツイートをいくつか見かけました。
クソださいです。
「オタクってすごいよね」ってことあるごとに言いたがるの、90年代後半くらいの感性です。
読んでてつらい。


ふだん「価値観の多様化」とか言っている人たちが、「渋谷で騒いでいる連中、しねばいいのに」とか。

それ以前に、「日本でハロウィンやる必要ない」って言っている人もいますが、それならクリスマスもバレンタインも、やめてくださいね。

おわり

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無題

すっかりブログを書く気がなくなった。
こんなもの、書いて何になるの?
しかし、ツイッターだけじゃダメなんだ。
140文字では書けないことはたくさんある。

この「ココログ」には、自分で「カテゴリー」を新項目として付けられる。
そこに、私は「サブカルチャー的絶望」という項目をもうけた。
自分で意味がわからなかったが、今、わかった。

やっぱりね、ひどかったですよねイジメが。

「とてもじゃないけど、こんな世界に入れない」って思ってたことを、急に思い出しました。
トシ取ると忘れちゃうんですよ。イジメてくる年長者がいなくなってくるから。

「サブカルとオタク」の定義とか分類はたいへん面倒くさく、また労多く実り少ないんですが、
80年代、「サブカル」の世界にいられない、居心地が悪いと思った人たちが「オタク」になったという要素はあると思います。
有名な、中森明夫の「おたくの研究」という文章が、まずイジメの内容ですから。

大塚英志が「イジメはいけない」って書いたの、今考えると当たり前なんですよね。
ところが、中森明夫も含めたサブカル陣営には、オタクと距離を置きたい理由がそれなりにあった。
それは彼らにとっては正当なものもあっただろうけれど、「おれたちが我慢していることを何でこいつらは我慢しないんだ」みたいな要素も、確実にありましたね。

それで、この話は終わるわけじゃないんですよ。
オタクの世界にもイジメがあって。
イジメの理由は、サブカル内でオタクをイジメる理由と、だいたい同じだったと思います。

今、テレビ観ていると、驚くんですよ。
ADさんの扱いが優しいので。
実情は知りませんよ。
だけど、少なくとも表面上は、虫けらみたいな扱いはなくなりましたね。
女性も増えましたし。

80年代は、ADさんがテレビに出ざるを得ない場合は、タレントの罰ゲームの実験台とか、なんかそんなのばかりで、言外のメッセージとして「ADは虫けらのように扱っていい」というのがテレビから出てましたから。

80年代後半の就職買い手市場のときも、「テレビだけはやめろ」というのはよく聞いていました。

テレビがサブカルかと言ったらそうじゃないので、話を戻します。

今考えると、80年代、90年代、自分の居場所なんか、どこにもなかったことtがわかります。
「居場所があった」かのようなフリをしていた、そう自分で思い込もうとしていただけなんです。

しかし広義のサブカル(オタクも含むという意味)の世界では、どうしてあんなにイジメが横行していたんでしょうか。
中には、「過剰に自分がイジメる側に回っている」とアピールしている人もいました。
イジメられる側に回るのが、恐かったんでしょうね。

逆襲した人も何人かいますど、「胸のすくような逆襲」ってのはあまりないんですよ。

この「逆襲」を集団で、思想・哲学もからめて行っているのがフェミニズムですね。
だから勢いがある。

そう言えば、「宅八郎」は同時代に「復讐」という概念を持っていましたね。
早すぎたのかもしれない。

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【社会全般】・「生の果ての死をつくることは罪か」

ある人の「子供をつくることは人間のエゴにすぎず、生の果ての死を確実につくり出すという点において、戦争とそう変わりない」(大意)という意見が、本気にしろ、たとえ冗談にしろ、ショックすぎて倒れてしまった。
人類がいない方が地球に優しいから、いいのだという。

「子供をつくるのは親のエゴであり、それ以上のことはない」というのは、近代的で個人主義的な考え方だろう。個人主義を徹底すると、そうなるのかもしれない。
(通常は、子供をつくり、育てるときに「まったくの自分のエゴ」と考える人間はそうはいないだろう。いい悪いは別にして「親に孫の顔を見せたい」という常套句もあるし、「人類や日本人の次世代にバトンを渡す」という意識が、少なからずあるはず。あるいは、前に書いたが「日本人的な輪廻観」が無意識的にもあると自分は考える。何より、生まれてくる子供への責任がある)。

この「子づくりは戦争と同等に罪深い」という考えが衝撃的なのは、「ミーム」の伝播をも否定していることだ。
だって、子孫がいなければ伝えるミームを受け取る人間がいなくなるわけだから。

「自分は子供はつくらない」という人も、「ミーム」の永遠性を信じている人は多いと思う。私も無意識に信じているところがある。
が、それすらも否定するというのは恐ろしい話である。

この人はアーティストなので(どんな作品をつくっているのかは知らない)、多少、極端にものを言っているのかもしれないが、「徹底した近代、ポスト近代」にみえる、たとえば、社会主義国家が独裁化したり、超管理社会になったり、戦争を引き起こしたりするグロテスクさと、同じものを感じる。

(余談だが、イスラム過激派の「残酷さ」とは正反対に位置する考えだと思う。あちらは前近代的社会を近代社会に対抗させて復活させる、という大義名分で、たぶんやっているので。広義の「イスラム社会」の存続を前提にしないと、自爆テロだってやる気が起こらないだろう。つまり「自分は死んでも自分の愛する社会は続く」という考え方がないと。)

ぜんぶがそうではないと信じたいが、このような、フェミに対して多少はまともだと思える発言をしている人が、とんでもないことを言っているのをみると、「結局は言葉遊びかよ」と思わざるを得ない。

話は飛ぶが、私がとりたてて信奉しているわけではないがツイートを観ている哲学者がいる。
彼は、60年代の赤軍や連合赤軍のテロリズムを、共産主義革命の一端とは観ず、「戦争はなんだかんだ言って、不可避的に起こるものだ」という前提を認めたうえでの、太平洋戦争の「再戦」なのだとする特殊な見方をしている。
この考えに妥当性があるかどうかはともかく、感覚としては理解できる。というのは、この見解にはおそらく根底に「戦争で拳銃バンバン撃ち合って、大義の中で死んでいきたい」というカタルシスがあるからだ。
こういうのは幼児的な妄想にすぎないかもしれないが、勧善懲悪のバトルもののフィクションは結局は「そんなカタルシス」を追体験しているのだから、まったくトンチンカンというわけでもない。
最低限に見積もっても、夢想して酒の肴にするくらいの価値はある。

しかし、「子づくりは戦争と同等の罪」という考えはどうだろう。そこにはカタルシスもないし、ダイナミズムがない。ただただ静かな「無」が広がっているだけである。
フェミニズムにかぎらず、思想や哲学が何年くらいの「鮮度」を保つべきかはいろいろな考えがあるだろうが、もしも「子づくりは戦争と同じで罪だからやるべきではない」という意見が浸透したら、一世紀くらいで人類は滅亡してしまうかもしれない。
しかし、私がこうした考え方にショックを受けたのはヒューマニズムからではない。フェミニズムという「社会改革」と、「(子づくりをしないことによって結果的に)社会そのものを機能不全にしてやがて壊滅させる」という考え方がまったく矛盾しており、そこにカタルシスも崇高な大義を(勘違いだとしても)担うという喜びもないからだ。
まったく何もないからである。

別に刹那的に生きるのが悪いとは思わないが、だとしたら理屈などこねていても仕方なくはないか。
そうした「矛盾」を感じて、「こんな頭のおかしい理屈を知ったのは初めてだ」という感覚がある。このことについて考えていると頭がおかしくなる。当然だ、矛盾しているのだから。

こういう「混乱」を目の当たりにすると、言いたくはないが「やっぱりフェミニズムって、近代から生まれたから、近代そのものの矛盾はつけないのだな」と思い、絶望してしまう。

なお「人類がいない方が地球に優しい」という考えが私は個人的に嫌いで、理由は「人類がいなくなった地球を、いったいだれが『汚されなくてよかったね』と評価するのか?」という矛盾があるからである。

個人的には「地球」の「状態」を「評価」するのは人類しかいない。
人類がいない状態を想定して、地球がきれいだの汚いだの論じても、何の意味もない。
(この辺は、ごくたまにSFマンガなどにも出てくるテーマではある。)

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【アイドル】・「アイドルが何かの代替物だったら、応援する必要ないだろうが」

2012-12-10 浜野『なんとかはキリストを超えた』:あきれた。

たまたまネットウロウロしていたら、またこのテキストを目にした。
書かれた当時も、読んだのだが。

「前田はキリストを超えた」は、刊行当時「アホか」と思っていて、読んでない(実は買ってしまったので家のどこかにある)。
山形浩生先生のこのレビューも、そのとおりだ、山形先生よく言ってくれた、と2012年当時思っていたが、今現在、このレビューを読みなおしても、希望のキの字も浮かんでこない。そもそも山形先生の文章で「感心」したことはあっても、希望を持ったことはない。

2012~2013年当時、AKB48をわざと間違えて「アキバ48」って書くのってくそださいし、結論から言って「いい年こいたキモヲタは、社会によって大目に見られているんだよ。勘違いするなよ」とダメ押ししているから、まあそれが世界的な絶望感ではないにせよ、極私的な絶望感ではある。

そういう意味では、2017年末の私は、著作を一冊も読んでもいない濱野智史氏には少しだけ同情的だ。
というのは、「ハマったジャンルが、世界を変えてしまうのではないか」という言説は、アイドルにかぎらずチラホラあるからだ。
BLについてそう語っている人もいた。クラブ文化についてそう語っている人もいた。

文中では「アキバ48なんて、そんな崇高でも偉大なものでもないのは、ファンたち自身がよく知っているはず。かれらは、自分たちにやっていることがつまらない何かの代用行為なのも十分に承知しているはず。それでも、ほとんどのファンは、自分たちがキモヲタであることを十分に承知しつつ、それを半ば自虐的に、なかば胸を張って受け止めているはず。」と書いてあるが、AKBファンの人には悪いが、それは大衆をかいかぶりしすぎというものだろう。
もちろん、AKBファンにはそうした高度な自己評価能力を持っている人もいるかもしれないが、大半は「別に何も考えていない」というのが正しいはずだ。

(たいしたことのないものが好きな自分を半ば自虐的に、なかば胸を張って受け止める」という態度は、90年代くらいの「サブカル的」な態度であって、2012年の段階で、そのような「態度」があるかどうか、私は知らない。
たぶん、そのような屈託は、オタク全般にはもうないと思う。

そして「何も考えていない方が正しく、何かを考えたにしても間違った方向に行った人間は正しくない」と言うのは、言い方は悪いが「大衆」は「特殊学級生」扱いだから山形は批判せず、濱野氏に対しては「おまえも大学院出てるんだからしっかりしろよ」と言っているに過ぎない。

「自分の絶望に他人をひきずりこもうとする人々」は、何もインテリでなくても存在する。むしろ「前田敦子はキリストを超えた」の内容を丸飲みしている人より、日常的に「世をはかなんでいる人」の方が、世間的には迷惑だと言える。

数年前に、同じテキストを読んだときと私の心境が違うのは不思議だ。別にその間に、アイドルヲタクになったわけでもないし。
しかし、私にとっては前田敦子をキリスト扱いする濱野も、「アイドルファンは濱野よりはマシな見識を持っている」という「大衆観」を持っている山形も、「AKBグループについて」ということで言えば、たいして変わらない。

インテリも、大衆からの支持がなければたいていは生きていけないので、変な色気を見せることがあるが、そんな屈託、おれの知ったことか。

ささくれがちぎれて、血でもちょっと出せ。

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ZETSUBOU

今日は、サラリーマン時代の同僚だった、田中くんと鈴木さんの結婚パーティーだった。
それほど親しい間柄だったわけではないが、それでも数年間、苦楽をともにした仲。招待状も私のところに届いていた。
会場は、こぢんまりした洋食屋だった。地元の人にも親しまれているし、遠方からも食べに来る人がいるという。
店主の人柄に惹かれている人も多いそうだ。

「平服でお越しください」と書いてあったが、礼服で行くことにした。

洋食屋のドアを開けると、今回のパーティーの幹事とおぼしき若い女性(おそらく鈴木さんの友人だろう)と、店主が談笑をしていた。
しかし、私の顔を見るなり二人の顔から笑顔が消えた。
心なしか、幹事とおぼしき女性の方は、店主の影に隠れた。
「だれ? あんた」
店主は、じろりと私をにらんだ。よくよく考えてみれば、料理をつくるために厨房にいるはずの彼が、なぜここにいるのだろう。
「新田五郎です。今日のパーティーに出席するために来ました」
私は招待状を出した。
受け取った店主は、それをまじまじと見つめると、「ケッ」と嫌な笑みを浮かべて、それを灰皿に放り投げた。
「じゃ、おまえさんはあっち」
店主は親指で、隅の方の席をさした。ずいぶん態度が悪いなと思ったが、文句を言おうと思った幹事とおぼしき女性はもういなかった。

丸テーブルに案内される。すでにそこには三人の人物がいた。
いずれも私の知らない人物ばかりだった。

一人はやくざ風、一人はオタク風でノートパソコンから顔をあげようとしない。最後の一人は、出っ歯の老婆だった。

「おまえさん、なんでここに来たんだ」
出っ歯の老婆が言った。細長いタバコを吸っていた。
「なんでって、結婚パーティーに……」
言いかけると、やくざ風の男が低い声で肩を揺らして笑った。
「結婚パーティー? だれのだ?」
「だれって、田中くんと鈴木さんの……」
私がそう言うと、やくざ風の男、オタク風の男、老婆が一斉に笑い出した。
「田中と鈴木か……。ふうん、田中と鈴木ね」
やくざ風の男は、一人うなずいたかと思うと突然、床につっぷしてしまった。
「ありゃ、死んだな」
隣のオタク風の男が、ノートパソコンから顔を上げて言う。

どうしていいかわからずとまどっていると、老婆が急に高圧的な態度で、
「悪いことは言わないから、一万円置いていきな。そして黙って帰るんだ」
と言った。
私は納得できなかったので、「なぜですか?」と聞くと、老婆はキッとなって叫び出した。
「あたしの言うことが聞けないってのかいっ。いいから、一万円置いていくんだよッ。金のことなんか関係ねえんだよッ」

私はその声を聞いて反射的に右ストレートを、老婆の鼻づらに叩き込んでいた。
「ぶぎゃっ」
老婆はぶざまな声を出して、後ろに椅子ごとひっくり返った。

その声にいらだちを覚えた私は、おたく風の男のノートパソコンのキーボードに、左拳を叩きつけて粉砕した。
「何をするんだよッ」
おたく風の男が金切り声をあげた。あまりの高音だったので、なんだかおかしく、私は笑ってしまった。
「うるさいんだよ」
私は突っ伏したまま死んだやくざ風の男の襟首をつかんで、そのままおたく風の男に向かって投げつけた。

おたく風の男は、投げつけられたやくざ風の男を抱きしめて、傾いた椅子のバランスを取ろうとガマガエルのようにもがいた。
が、すぐにバランスを崩してひっくり返る。
やくざ風の男の下敷きになった状態だ。
私はそのやくざの背中に、近くに合った大きな木彫りの人形を叩きつけた。

そして、入り口に戻った。入り口には店主と、幹事とおぼしき女性がまだ談笑している。
私はまず、女性の方の口の中に、丸テーブルの上に置いてあったガラス製の灰皿を突っ込んだ。
その瞬間、その女性の歯はすべて折れた。
歯と血を口から飛び散らし、女性は変な声をあげたので、イライラしてその女性のベルトを掴み、思いきり遠くへ放り投げた。
遠心力によって、その女性はこじゃれた窓まで飛んでいき、ガラスに激突して動かなくなった。

店主の方は体が大きかったので、力負けすると思い、いきなり隠し持っていたガソリンをぶっかけて火をつけた。
一瞬のうちに、店主は燃えた。悲鳴をあげることもできなかった。

他に結婚パーティーの出席者はいないか探したが、だれもいなかった。
私は新郎新婦へのプレゼントに、と持ってきた小さなオルゴールを地面に叩きつけ、踏みつけて壊した。

しばらくいらだちがおさえきれず、じっとしていたが、いきなりレストランを破壊して象が二匹、入ってきた。
象の片方が言った。
「一万円、返してくれ」
もう片方の象も言った。
「もう何もかも手遅れだ」

利いた風なことを言うな、と思って私はますますイライラして、窓ガラスに叩きつけられて気絶している、幹事と思しき女性の首根っこをつかんで引っ張り上げ、左腕を掴んでぶんぶん引っ張りまわし、象たちにぶつけていった。

「痛い」
「痛い」

象が日本語をしゃべるなんて信じられないのでますますイライラして、
そのショックで私は死んでしまった。

後から地獄で聞いた話だが、田中くんは第六地獄、鈴木さんは第八地獄にいて、それぞれ、
「自分の肛門にハウスねりがらしを塗り付ける」
という苦行を強いられているそうだ。

ちなみに私は、地獄など想像上の産物だと思っているから、何も問題はなかった。

早く死にたい。
(完)

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【絶望】・「同人誌の話、ほか」

いろいろと絶望が続いている。そりゃあ何億もの負債を背負ったとか手足が取れてしまったとかそういうことはない。
でもそういう問題ではないのは、一度でもぜつぼう的な気分を味わった人にはわかるだろう。

先日、生まれて初めて一度引き受けた同人誌の原稿依頼を断ってしまった。関係者には本当に申し訳ない。

とにかく話し相手がいないのがいちばん辛い。人間、話し相手さえいればなんとかなるのだ。
「カウンセリング」だって、結局は「話し相手に話す」ということだろう。

同人誌にちょこちょこ書いていた小説に関しては、一種のうさばらしとして書いていたのだが、もう小説を書いても何か心が浄化されるというか、そういうことがなくなってしまった。
そこまで追い込まれてしまったのだ。

本もマンガも読む気になれない。集中力が続かない。
もうダメだ。

おしまい。

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無題

ブログも頻繁に更新しないと忘れ去られてゆくし、どんどん孤独になる。

ところで、「水曜日のダウンタウン」を楽しみに観ていて思うのは、どうやって問題をクリアしているのか、していないのか知らないが、「ちょっとくせのある素人」を、タレントとして扱うでもなく出している点。
これが異様に面白いのだ。

逆に言えば、他の番組から失われた点だ。

「クセのある素人をちょっといじる」という行為は、おそらく許可を取ってないという点ではものすごく大雑把に言って、反グローバル、反リベラルである。
こんなもん、常識に照らしてダメには決まっている。だけれども面白い。

「お笑い」の世界では、それが「くだらない」、「だれも本気で観ていない」ということで免除されてきた。

そういうようなことが、免除されなくなった。

そういうことに、気づいていない人が多すぎて、イライラする。

なんでもかんでも、「リベラル」方向に話が進めば、なんでもかんでもがんじがらめになるに決まっているではないか。
でもそれにほとんどの人が気づいていないわけでしょ?

最近のリベラル運動でイライラするのは、レギュレーションをきちんと決めようとし過ぎることだ。
「優等生が、決まりをきちんと決めましょう」という会になっている。

かといって、こういうことに徹底的に反対すれば、自分が参加できない、別のルールでがんじがらめの世界ができてしまう。
そのジレンマ。

本当にイライラする。

おわり。


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無題3

「逆にいい」、「逆に面白い」
ということ自体(侮蔑的に価値相対主義とも言われたりするが)を蛇蝎のごとく嫌っている人がいて、「ふーん」と思うだけなのだが、30年くらい考えたが、やはり「逆にいい」、「逆に面白い」(あるいは「逆によくない」、「逆に面白くない」)という感覚は、現実にありうる。
それは、ポストモダンだとかなんだとか言う前に、そもそも成熟した文化の中では必ず現れる。

たとえば「一流の、キラキラしたレストランに、一流の料理」というのに飽きてしまえば、「汚い店で、素朴なB級グルメを味わいたい」という気持ちがめばえても、それは逆張りでもあまのじゃくでもなく、自然な感情だろう。

「逆に……」というのが、特定の人々から忌み嫌われるのは、それが「価値相対主義」であり、シニシズムから来ているといういらだちから来ているのだろう。
しかし、そもそも「逆に」感覚と、思想(とくに政治思想)が結びついており、それ以外のコンテクストがない、と思っていること自体、少々度量が狭いのではないかと思う。

コイン収集は、おそらく(政治思想と密接な関係にある)カウンターカルチャーでも何でもない、単なる「趣味」だが、それでも「印刷がズレている」とか「穴が空いてない」などに「価値」がある。
いやそれよりも、カウンターカルチャー好きで価値相対主義が嫌いな人は、なぜ「思想なき趣味」、囲碁や将棋や切手収集や釣り、キャンプ、ミステリ小説読書、ハーレクイン・ロマンス読書、などを「無意味だ」と徹底攻撃しないのであろうか。

中森明夫が流行に関して、
「そもそもスカートには短いか長いかしかないんだから、ミニスカートとロングスカートの流行が交互に着ても何の不思議もない」というようなことを言っていたが、「逆にいい(悪い)」というのも、その程度の問題なのではないかと思えてならない。

たとえば若者が政治に関心を向けないとかいうことがあるとしたら、問題はまた別のところにあるだろう。

それと、関係ない話だが、ツイッターで、
「安保に反対しなかったものは、もし徴兵されても文句言わないんですよね?」みたいな言い方をする人がいたのだが、それとこれとは別だろう。
それは「日本は戦争をしないから、あるいは徴兵などしないから、安保に賛成するという立場もありうる」ということだけではない。

何かを選択したとき、わざわざ悪い方の状況を提示して「こうなっても文句言わないよね?」というのは、おかいしだろう。
だれだって、思いどおりにならない結果が生じたら、その時点で軌道修正しようとしたりするだろう。

子どものケンカじゃないんだから、「こうしたらこうなっても文句言えないよね?」という言い草は、幼稚だと思う。

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無題

ネットウロウロしていたら、「教育問題に取り組めば世の中が変わると思っているやつはアホ」という意見があり、意味はよくわからないがまあ、そのこと自体には何か論理的な理由がありうることは、想像できる。
検討の価値はある。

しかし、その同じ人物が、「デモは、嫌われたとしても注目されれば勝ちなのではないか」と言うのは、教育問題に対する意見とニコイチで、賛同しかねる。

毎日まいにち、学校で同じお題目を聞かされていれば人間が洗脳されることはありうる。
その効果を否定することにもそれなりに意味はあるのかもしれないが、同じ人間が「デモにだって(効果はないと言われているが)効果はあるんだ」と、たいしてくわしい論証もなしに言ってしまうのは、「デモびいき」と勘違いされても仕方なかろう。

そもそも、過激な「学校教育不要論」は、理系の学問を無視しているところに致命的な穴がある。
体系だてて、きちんとした実験器具などを準備しないと成立しないのが理系学問であって、寺子屋みたいなものでなんとなかなる文系学問とはちょっと違う。

理系教育をつぶしてしまったら、たとえ革命政権を樹立しても(教育不要論、廃止論を唱えるのはそれくらい過激な論者であろう)長期的には兵器開発・維持が困難になるし、戦争が起こっても諸外国に負けてしまうのではないか?

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【雑記】・「『不安増幅罪』について

「アドバイス罪」について調べたのだが、どうも私が思っているのとは違うようだ。
「アドバイス罪」については、興味のある人はネットで検索していただくことにして(「思っていたのと違う」私が要約するスジアイのものでもないので)、私の考案した「不安増幅罪」について言及する。

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