「ウーマン村本は、ツイッターなどでの発言は問題があるかもしれないが、お笑いでは実力がある」と私は発言し続けてきたのだが、THE MANZAIの「社会問題を題材とした漫才」を観て、
「」うーん、これはちょっと……」
と思いました。
村本が、「なんか、政治とか語る方向に行きたがっている」ことは、彼のやっているネット番組(未見ですが、テーマなどは知った)や、ツイートなどから明らか。
しかも、たぶん本当は、別にそんなに興味ないんですよ。
「そこに、『評価される、金になる』芽があるから」というだけのこと。
実際、「ファンをすぐ抱く、とかゲスぶって発言していたけど、それで受けるかと思ったら受けなかったからやめた」ということも言っています。
(なお、村本に「政治発言に関わるのは仕事としてアリ」と思わせているのは、ワイドナショーのダウンタウン松本であることはほぼ間違いがなく、松本の罪も重い。)
ただし、村本がテレビの「自主規制的な雰囲気」を意識して、「テレビでやる漫才ってこんなものだろう」と思っている視聴者の「忖度」を裏切ろうとしてあの漫才をつくったのならば、それだけは評価してやってもいいとは思っています。
これも一種の(笑いを生み出そうとする)「裏切り」ですからね。
でも、それだけのことです。
この漫才が評価されるなんて、正直、視聴者チョロすぎるでしょう。
この手のものが流行ったら、村本を増長させるだけで、彼以外にはいいことは何もありません。
ラサール石井が、ツイッターであの漫才について「中川パラダイスのアシストがすばらしい」とか書いていたけど、
私には往年の「うなずきトリオ」の何百倍もの「漫才ロボット」としての悲しみしか感じませんでしたけどね。
あの漫才は、「漫才」としてはただ「床屋政談」を言っているだけで評価できないし、「コメント」としても、やはり「床屋政談」だから、評価できません。
「賛否両論あっていい」みたいな意見もありますが、あれが賛否両論になること自体、日本の知性はどうなってしまったのか、と震撼します。
村本は(松本人志にも同じにおいを感じますが)、「知性」とか「知識」に関するリスペクトが、根本的に欠けているのも気に食わないですね。
知性、知識にリスペクトはないけど、どこか追い落としてやろう、と虎視眈々としている感じです。
芸人なんだから、「偉そうな政治家や文化人や大学教授なんかくそくらえ!」と思っているならそれでぜんぜんいいと思いますが、テレビで彼らを笑いものにするということと、彼らの言っていることに妥当性があるかないか、ということは、まったく別問題ですから。
それと、村本はツイッター上でゲイの人に対し、「被害者ぶるな」みたいなことを言っていたと記憶しますが、そういう彼の「被差別者だって別の局面で差別しているだろう」という、中学生みたいな意見が、彼の知名度によって拡散されることに私は危機感を覚えます。ま、そう言われればそうなんでしょうけど、そうならないようにがんばろう、ってのが「差別問題を解消する」という姿勢の出発点なんじゃないんですか?
もちろん、そこには「まあTPOで、これくらいのことは言ってもいいだろう」という「許容範囲」や、「人間の心の中の差別意識を完全に消すことはできないから、表面上だけでもそういう態度を取りましょう」(「礼節」ということです)、という考えが付随してくるわけですが。
「被差別者だって別の局面で差別しているだろう!」(それはそれで真実にしろ、そういう意識を織り込まない反差別運動があるとは思えない)という、低レベルなことを指摘して「言ってやった」と思っているであろう村本がつくった漫才に対し、「よくぞ言った! 彼はマスコミの怠慢や自己保身に対する反逆者だ!」と評価している人がいるとすれば、せめて村本のふだんの発言くらい、ググっておけよ、って思いますね。
漫才はプロパガンダではなく、表現ですから。そのことを知らない人たちは、恥じてほしいです。
かつて、小林よしのりのゴーマニズム宣言に対し、外山恒一だったか、
「あれは『俗情との結託』ではない、『俗情』そのものだ」
と言っていましたが、
ウーマンラッシュアワーのTHE MANZAIでの漫才にも、まったく同じことが言えます。
しかも、かなり知的レベルが高いと思われている人の中にも(いや、「だからこそ」なのか?)、あの漫才を評価していると知って、暗澹たる気持ちになりました。
たとえば、保毛尾田の出演が不適切ということであれば、きちんと外部から批判が来るし、擁護する側もいましたが、それほど低レベルな議論にはなっていませんでした。
しかし「だれもが、まあまあ首肯できることを漫才で言う」となると、(精査すれば間違っているかもしれないが、あくまでもパッと聞いた限りでは「まともだな」と思える発言を漫才でやるとすると)だれも反論できないし、批判すればするほど、する側が言論弾圧している、みたいな構図になってしまいます。
こういう「漫才における」村本の態度が、正しい意味での「反知性主義」というのではないか、と、(もちろん批判的な意味で)なんとなく思えてもきます。
町山さんも村本と仲良くなったみたいで立場上、批判できないのかもしれないし、漫才のことがよくわかっていないのかもしれませんが、あの漫才を評価しているとしたらヤバいと思いますね。
それこそ、オリラジの中田あたりが「知性」の立場からビシッと言ってやらないものか。
中田の方が後輩だから、無理かなあ。