評論とは

精神

ひらめいたので、忘れないうちに書いておこうと思う。
ここ4、5年、マンガを読む気が起こらず、自宅には溜まる一方。
とくにオタクではない人にこのことを話すと、「コレクターのあるある話」としかとらえれないんですが、私としてはかなり深刻な問題だったのです。

ちょっと話を変えます。
私は、「私が何かしら、メディアに接して、どれくらいリラックスできるか、気分転換できるか」ということについて考えています。
私個人の話なので、他人には通用しないでしょう。

で、「気分が落ち込んでいるとき」に、鑑賞してその気分が転換する率がいちばん高いのは、「映画館で映画を観ること」です。
でも何でもいいというわけではなく、面白くて、こちらが前のめりになって見られるような題材にかぎります。
もちろん面白いかどうかは私の独断ですが。

つまらなかったり、イヤな気分になったりすると、何時間も「イヤな気持ち」が継続するのも映画です。

ゲームも気分転換になりますが、同時にやり続けることのストレスを感じるのが正直なところです。

テレビのなんてことのないバラティが、すごく気分転換になることもあります。私がテレビバラエティを重視しているのはこの点にもあります。
ただし、あからさまに「気分転換してください」的な番組は個人的にダメなんですよね。土日や早朝、深夜にやっているリラックスさせる前提の番組がそうです。

そしてマンガや本。
これらは、ある程度自分自身が能動的にならないと楽しめないことがわかりました。
「落ち込んでいるけど、マンガや本を読んで気分が逆転した」という経験は、実はほとんどありません。

あらかじめこちらに「読むぞ!」という、はたらきかける部分がないとダメなんですよ。

で、私の「精神状態」を考えたとき、自分自身で「これが平常心だ、普通の状態だ」と考えているより、もう一段、二段、気分がアッパーになっているのが、たぶん普通なんだと思います。
そこまで持って行かないといけないんだと思います。

普通の人は、何のストレスもなくマンガを読んでいるわけですから、私がその境地にいたるには、気分をもう少しあげていかないといけない、っていうことです。

もっと言ってしまうと、それくらいの気分、精神状態になることが、あるべき生活だと思います。でないと間違っていると思う。社会が。

|

【映画】・「ブラックパンサー」ネタバレあり

映画「ブラックパンサー」ネタバレあり

すでに町山さんとかが、私が以下に書く観点から言及しているかもしれないが、映画「ブラックパンサー」は、私がここ10年くらいいろいろとスーパーヒーローものの映画を観てきて、「ウォッチメン」とか「スーパー!」みたいなメタ色の強いものを除いては、最も「普通の人々が一般的に考える『革命』を『ヒーローの敵』として描いた映画」として、実にスリリングだった。

どうやって落とし前を付けるのかと思ったら、
・敵(従兄弟)は復讐の鬼と化しているので、成功率が低く犠牲も多い武力革命を、その成否にかかわらず遂行しようとしている。
・従兄弟はもともと、政府を混乱させ破滅させるプロで、父の持っていた大義を体現することよりも、ソッチ寄りの悪人らしい
以上の二点で、主人公の大義に整合性を与えていた。

しかし、実は本作で最も思想的にてごわいのは、いちばん最初に殺されたおじさんだった。だからこそ、だれもがあのおじさんの亡霊に悩まされる。

そして、最後は彼の鎮魂のために主人公は行動する。

そう言った意味で、かなり面白い作品だったのだが、「アメリカっぽいな」と思うところもある。
それは、おじさんも、その息子も、「世界中の抑圧されたアフリカ系民族」のために戦おうと思っていたということ。

つまり彼らは抑圧された白人やアジア人のことはどーでもいいと思っているのである。
というか、かなり無邪気に「白人やアジア人は、すべて救われているじゃないか」と断定している(ように、私には思えた)。

ま、そんなところも面白いっちゃ面白かった。

|

・「豪画沙」(下) 永井豪(2017、講談社)

[amazon]
永井豪画業50周年記念出版だそう。全収録作が初単行本化の短編集。その下巻。
あまり古いものは収録されていない。
「バイオレンスジャック 戦国魔人伝」、「夢幻戦士」、「カイケツ風呂頭巾」、「ワンだ君」が収録作。

本作では長らく宙ぶらりんになっていた「バイオレンスジャック 戦国魔人伝」の収録が大きい。投げっぱなしの尻切れトンボなのだが、100ページも書いて「続く」というのは何か事情があったとしか思えない。どうなのだろうか。

アマゾンレビューでその他の作品に関して「レイプや露出狂の描写が目立ってちょっと辟易しました。」と書いてあったのには驚き。レビュアーはジャックファンらしいが、レイプと露出狂描写がイヤで、よく最後まで読み通せましたね。

|

・「豪画沙」(上) 永井豪(2017、講談社)

[amazon]
永井豪画業50周年記念出版だそう。全収録作が初単行本化の短編集。
あまり古いものは収録されていない。
収録作は「悪魔騎士 Demon Knight」、「娘中天」、「シレーヌちゃん」、「霊界ドアー」、「ヴァンパイアコップ」、「ハレンチママさん」
「悪魔騎士 Demon Knght」は、「デビルマンサーガ」のプロトタイプだろうか?

|

・「怖すぎる永井豪 くずれる編」(2018、徳間書店)

[amazon]
70年代から2002年くらいまでのホラー短編を収録しているが、70~80年代のものが多いか。
「くずれる」、「白い世界の怪物」、「DON!」、「サタンクロース」、「霧の扉」、「ミストストーリー 面」、「永井豪の霊界探検」、「思い出のK君」所収。

永井豪の短編はざっくり分けて「自分は何者なのか?」という自問自答、あるいは「この世界は本当にまともな世界なのか!?」という世界への懐疑、を題材としたものが多い気がする。

表題の「くずれる」は、まさに自身のアイデンティティと世界への疑問を同時に表現した作品。
「思い出のK君」は、何度も短編集に収録されているが、「マジンガーZ」ファンは必読(ホラーではない)。

|

【アイドル】・「2000年~2006年のモーニング娘。と私 その3(完結編)」

前回の続き。そして完結編。
かなり私的な話です。

続きを読む " 【アイドル】・「2000年~2006年のモーニング娘。と私 その3(完結編)」 "

|

【アイドル】・「2000年~2006年のモーニング娘。と私 その2」

前回の続き。

続きを読む " 【アイドル】・「2000年~2006年のモーニング娘。と私 その2」 "

|

【アイドル】・「2000年~2006年のモーニング娘。と私」

2月12日昼間に、「モーニング娘。20周年記念スペシャル」という番組が放送された。
内容は、モーニング娘。(およびハロー! プロジェクト)の番組「ハロー! モーニング。」の特番。「「ハロー! モーニング。」(略称ハロモニ)」は、2000年4月~2007年4月までの間、放送されたテレ東の番組である(その後、「ハロモニ@」という番組が2008年まで)。
この「20周年スペシャル」について感想を書こうと思ったが、その前に、私が「いつ頃からいつ頃までモーニング娘。に興味を抱いていたか」を書いた方がいいだろう。
というか、私自身も忘れていた。

続きを読む "【アイドル】・「2000年~2006年のモーニング娘。と私」"

|

【お笑い】・「ウーマン THE MANZAIでの漫才問題」

「ウーマン村本は、ツイッターなどでの発言は問題があるかもしれないが、お笑いでは実力がある」と私は発言し続けてきたのだが、THE MANZAIの「社会問題を題材とした漫才」を観て、
「」うーん、これはちょっと……」
と思いました。

村本が、「なんか、政治とか語る方向に行きたがっている」ことは、彼のやっているネット番組(未見ですが、テーマなどは知った)や、ツイートなどから明らか。
しかも、たぶん本当は、別にそんなに興味ないんですよ。
「そこに、『評価される、金になる』芽があるから」というだけのこと。
実際、「ファンをすぐ抱く、とかゲスぶって発言していたけど、それで受けるかと思ったら受けなかったからやめた」ということも言っています。

(なお、村本に「政治発言に関わるのは仕事としてアリ」と思わせているのは、ワイドナショーのダウンタウン松本であることはほぼ間違いがなく、松本の罪も重い。)

ただし、村本がテレビの「自主規制的な雰囲気」を意識して、「テレビでやる漫才ってこんなものだろう」と思っている視聴者の「忖度」を裏切ろうとしてあの漫才をつくったのならば、それだけは評価してやってもいいとは思っています。
これも一種の(笑いを生み出そうとする)「裏切り」ですからね。

でも、それだけのことです。
この漫才が評価されるなんて、正直、視聴者チョロすぎるでしょう。
この手のものが流行ったら、村本を増長させるだけで、彼以外にはいいことは何もありません。

ラサール石井が、ツイッターであの漫才について「中川パラダイスのアシストがすばらしい」とか書いていたけど、
私には往年の「うなずきトリオ」の何百倍もの「漫才ロボット」としての悲しみしか感じませんでしたけどね。

あの漫才は、「漫才」としてはただ「床屋政談」を言っているだけで評価できないし、「コメント」としても、やはり「床屋政談」だから、評価できません。
「賛否両論あっていい」みたいな意見もありますが、あれが賛否両論になること自体、日本の知性はどうなってしまったのか、と震撼します。

村本は(松本人志にも同じにおいを感じますが)、「知性」とか「知識」に関するリスペクトが、根本的に欠けているのも気に食わないですね。
知性、知識にリスペクトはないけど、どこか追い落としてやろう、と虎視眈々としている感じです。
芸人なんだから、「偉そうな政治家や文化人や大学教授なんかくそくらえ!」と思っているならそれでぜんぜんいいと思いますが、テレビで彼らを笑いものにするということと、彼らの言っていることに妥当性があるかないか、ということは、まったく別問題ですから。

それと、村本はツイッター上でゲイの人に対し、「被害者ぶるな」みたいなことを言っていたと記憶しますが、そういう彼の「被差別者だって別の局面で差別しているだろう」という、中学生みたいな意見が、彼の知名度によって拡散されることに私は危機感を覚えます。ま、そう言われればそうなんでしょうけど、そうならないようにがんばろう、ってのが「差別問題を解消する」という姿勢の出発点なんじゃないんですか?
もちろん、そこには「まあTPOで、これくらいのことは言ってもいいだろう」という「許容範囲」や、「人間の心の中の差別意識を完全に消すことはできないから、表面上だけでもそういう態度を取りましょう」(「礼節」ということです)、という考えが付随してくるわけですが。

「被差別者だって別の局面で差別しているだろう!」(それはそれで真実にしろ、そういう意識を織り込まない反差別運動があるとは思えない)という、低レベルなことを指摘して「言ってやった」と思っているであろう村本がつくった漫才に対し、「よくぞ言った! 彼はマスコミの怠慢や自己保身に対する反逆者だ!」と評価している人がいるとすれば、せめて村本のふだんの発言くらい、ググっておけよ、って思いますね。

漫才はプロパガンダではなく、表現ですから。そのことを知らない人たちは、恥じてほしいです。

かつて、小林よしのりのゴーマニズム宣言に対し、外山恒一だったか、
「あれは『俗情との結託』ではない、『俗情』そのものだ」
と言っていましたが、
ウーマンラッシュアワーのTHE MANZAIでの漫才にも、まったく同じことが言えます。
しかも、かなり知的レベルが高いと思われている人の中にも(いや、「だからこそ」なのか?)、あの漫才を評価していると知って、暗澹たる気持ちになりました。

たとえば、保毛尾田の出演が不適切ということであれば、きちんと外部から批判が来るし、擁護する側もいましたが、それほど低レベルな議論にはなっていませんでした。

しかし「だれもが、まあまあ首肯できることを漫才で言う」となると、(精査すれば間違っているかもしれないが、あくまでもパッと聞いた限りでは「まともだな」と思える発言を漫才でやるとすると)だれも反論できないし、批判すればするほど、する側が言論弾圧している、みたいな構図になってしまいます。

こういう「漫才における」村本の態度が、正しい意味での「反知性主義」というのではないか、と、(もちろん批判的な意味で)なんとなく思えてもきます。

町山さんも村本と仲良くなったみたいで立場上、批判できないのかもしれないし、漫才のことがよくわかっていないのかもしれませんが、あの漫才を評価しているとしたらヤバいと思いますね。

それこそ、オリラジの中田あたりが「知性」の立場からビシッと言ってやらないものか。
中田の方が後輩だから、無理かなあ。

|

【お笑い】・「ジャルジャル問題」

【M-1】映画「火花」を見て、ジャルジャル福徳の涙に思うこと(ナガの映画の果てまで)

上記のブログのエントリ、ツイッターなどで評判が良いので読んでみたが、私は少々異論があるのでその点について書きます(全体通して、大きな違和感があるわけではないのですが)。

(引用開始)
 (ジャルジャルの)直前に登場し、上沼恵美子に酷評されたことで話題になっている「マヂカルラブリー」がやったのは漫才かどうか怪しいラインのネタでした。2人の会話のかけあいを基調とする漫才というシステムからはあまりにもかけ離れていました。だからこその低評価だったとは思います。
(引用終わり)

 いやああいう漫才、昔からありますよ。根本的に上記の引用部分で疑問なのは、M-1出場者は準決勝までに数度の審査を経ているわけです。本番のM-1の前にね。ということは、数度の審査の中で、決勝までの審査員が「漫才というシステムからかけ離れているネタだけど、まあ受からせちゃおう」というような話があったのか、なかったのか? 決勝にあげても低評価だろうと、準決勝までの審査員が思って受からせているのか? ということです。
そんなことはないでしょう。
準決勝までの審査員と、決勝の審査員の好みが著しく異なる、ということも考えられますが(R-1ぐらんぷりなどは、「そういう感じ」をすごく感じるときがある)、そこは微妙なところだと思います。

私が今回のM-1の「マヂカルラブリー」を見て連想したのは、2006年に決勝に出た「変ホ長調」です。言うなれば飛び道具、ひっかきまわし役だったのではないかということです。
(この間のキングオブコントにおける、「にゃんこスター」の役割です。)

で、「変ホ長調」もそれほどハネなかった。松本も、どこか「特別枠」みたいな、悪く言えば「みそっかす」みたいな扱いをしていた。
M-1では、こういう「ひっかきまわし役」が毎年出ているわけでもないとは思いますが、飛び道具的な漫才は、審査員に受けが悪いですね。
それは今回の「ジャルジャル」の順位にもつながっていると思います。

今回の「ジャルジャル」のネタは、コントでやっていた「おばさんを、学生が『おばはん、おばはん!』と展開もなくずっと言い続ける、というネタや、擬音をゲームのように言い合う、というネタに似ていると感じました。
そして、それらの方は実は「コント」としては「普通に成立している」んです。
「普通」というのとはちょっと違いますが、「先進性がある」というのとは違っていた。

だから、今回のジャルジャルの漫才が新しいとしたら、問われるのは、
「コントでまあまあ普通に(それでもとがったネタですが)成立していたネタが、なぜ漫才だと斬新なのか?」ということではないかと思います。

私もジャルジャルが努力家だということは否定しませんが、私個人としては、「バカルディがさまぁ~ずになり、海砂利水魚がくりいむしちゅ~になって捨てて来たこと、ポップ化への道を歩んだことを、ずっと拒み続けている」というふうにしか見えないんですよね。
もちろん、「同じようにしろ」とは言いませんが、最初から「とがっている」ということで、いばらの道を歩んでいるのだから、それはこういう結果だろう」というふうに、観えてしまうんです。

繰り返しますが、ジャルジャルが努力家で、芸人として真剣にいろいろなことに取り組んでいることは認めます。

ただ個人的には、リンク先の文章はあまりにウェットすぎて、ちょっと納得できませんでした。
で、これはM-1そのものにまつわる「あまりにも真剣すぎる」という、番組の特性から来ているのだとも思いますけどね。

だとすれば、なぜM-1のファンは、リラックスして笑うものである「漫才」を、過剰なまでに真剣に観てしまうのか」という疑問が持ち上がってくるのですが、それはいつかまた。

|

より以前の記事一覧