評論とは

【アイドル】・「ダイエット騒動」感想続き、あるいは今さら「BiSキャノンボール」の感想

前回の続き。

BiSのダイエット騒動で、「何もわかってないくせに」と言われるのがイヤでいちおう、過去どんなことをやってきたか観ましたが、リアルタイムではアイドルマニアの知り合いからいろんなことは漏れ聞いてたわけですよ。
で、そのときは「そういうアイドルもあるんだなあ」くらいの感想しかなかったわけです。

しかし、半月前の「童貞。をプロデュース舞台挨拶騒動」の映像を観てしまった後では、ファンの人には申し訳ないですがどれも陳腐に思えるんですね(27時間テレビのマラソンが「陳腐」というのと似たような感覚です)。

広い意味でのアイドル史、サブカル史ではどうか知りませんが、私の中で「童貞。をプロデュース舞台挨拶騒動」は自分でも驚くほど大きな出来事だったようで、「目標を達せられなかったら即休業のダイエット企画」なんて、もう「童貞。舞台挨拶騒動」以降はすべて陳腐化しちゃったと、個人的には思っています。

だから、あくまで個人的に、ですが、ダイエットしているプー・ルイも大変でしょうが、もうこの手の企画は「日野てるまさビンタ騒動」と似たようなもんでね。私にとっては。
「なんか他に面白い企画、考え付かないの?」
などと、無責任なことを考えています。

思い起こせば、私は「テレクラキャノンボール2013」に感動しすぎて、過去のテレキャノや、前にも書いたとおり他のパロディ的な企画の映画もつとめて観に行きました。

「テレキャノ2013」は、「ナンパされた女性のブスさ加減を嘲笑する映画」とだけとらえている人もいるようですけど、私はまったくそうは思っていないんで。
むろん反PC的な映画ではありますけど、監督たちも「痛い目」を観ている、罰ゲームに当たりに行っていること、女性たちを単に「笑いものにする」以上のものが確実に存在しているという点で、今でも私の評価は高いです。
(ただし、今、同じ方法論でつくったとしても、面白いと感じるかどうかはわかりません。理由は時代の変化です。)

で、テレキャノ好きが高じて「劇場版 BiSキャノンボール」を観ました。私の当時のBiSに関する知識は断片的なものでしかありませんでした。
だから、鑑賞直後はうまい感想が思いつかなかった。
(あ、ここからは「劇場版 BiSキャノンボール」の話です。検索していて未見の「完全版」があることを知ってしまい動揺したのですが、とりあえず「劇場版」についての話を進めます。)

で、あくまで2017年現在の観点からの感想ですが、まあ、ダメでしたね。
初期の上映時、監督のカンパニー松尾も舞台挨拶で納得のいかない表情をしていて、「まだ編集し直している」とか言っていたんですが、当時はその意味がよくわかっていませんでした。
とにかく「テレキャノ」側からの観点しか、私は持っていなかったので。

ちなみに「テレキャノ2013」では、登場する素人女性たちは、劇場版として映画館で上映されていることを知りません。
その点でアンフェアなのですが、まあそういう契約になっているのでしょう。

しかし、「劇場版 BiSキャノンボール」に関しては、アイドル側が「だまされていた」ことが明らかになるんですね。
映画の中で、「解散コンサートくらいまともにやりたかった」と泣いて怒っている子(確かファーストサマーウイカ)がいましたが、まあ当たり前だと思います。
やはり、この場でも「過去のサブカル内パワハラ」と同様、「意に沿わないことをされたアイドル(立場的には弱者側)と「仕掛ける大人たち」というのが露骨に出てしまっていて、まあAKBはそこをスマートにやるんだけれども、「わざと泥臭くやって煽る」ってのはね。
なんだかいやだなあ、と。
正直、「童貞。をプロデュース」の舞台挨拶映像を観てしまうと、そういうのがまったく面白く感じなくなってしまったんですよね。

今後、こういう……「サブカル的」っていうと雑すぎますが、「反ポリコレサブカル」をからめたアイドルは、もう話題にはならないと思います。

それと、「劇場版 BiSキャノンボール」でとくに気になったことのひとつは、(まず絶対に成功しないけど)セックスまで持っていこうとするビーバップみのるが、テンテンコに、雑誌でセミヌードになったことについて話を聞く際、
テンテンコが「私は裸になったことを、いやらしいことをした思っていないし、ヌードになる女性を下に観たことはない(大意)」
って言わせちゃったことです。

それをずっとビーバップみのるが、優しくせめるんです、「いやらしいと思っていないなら、同じこと(フルヌードになること)もできるでしょう?」って。

あれがキツかったですね。
そりゃ、ミュージシャンがジャケットなどでセミヌードになることは、別にBiS以外にもありますけど、そういう人たちも、表面上は「私たちはヌードになることを専業としている人たちを下に観ているわけではありません」としか言えないですよね。

だから「じゃあそう思っているなら、あなたも全裸になれるでしょう?」と問われてしまい、それにはうまく返答できないことになってるんです。

これは観ていてキツかったです。

実際には「裸になることを専業としている人が裸になることと、アイドルが裸になることは意味合いが異なります」とかなんとか、反論できなくはないんですが、そこまで理路整然と反論できるアイドルは、いないでしょう。

ビーバップみのるは、別に「自分のやり方」で攻略しようとしただけでしょうが、「劇場版」や、今回のダイエット騒動などを観ると、
「もしかして、アイドルたちは『洗脳されていない』と思い込みながら『洗脳されている』のでは?」って思ってしまうんですよね。
そこが、またマネージャーの思惑と重なっていると勘ぐったりなんかしてしまって。

結局、劇場版は、このビーバップみのるとテンテンコとの関係がどうなるか、が落としどころになるんですが、やはり無理矢理感はぬぐえなかったですね。
「完全版」はまた違うのかもしれませんが、「劇場版」は、ちょっとアイドルたちがかわいそうに観えてしまいました。

で、私が何が言いたいかというと、私は「行き過ぎたPC」に反対の立場なんです。しかし、だからといって、PC的には「アイドルに過剰にダイエットさせることは、グローバルスタンダードからしても、摂食障害などに影響を与えるからダメ」という正論があります。

もう、両者はどこかで折り合いをつけないとダメだろう、ではどうしたら着地できるのか? ってことです。

そもそも、本来の「芸能人は普通人と違うからモラルも価値観も違う」という物言いでさえ、
「都合のいいときだけ普通の人になったり、コミュニティ外の人になったりするんじゃねえよ」
という反論は、実際にできますから。

私は90年代半ば頃からの「オタク再評価」の機運は、「プロアマボーダーレス」ということが最も重要だと主張し続けてきたのですが、同じことはアイドルにも言えるってことです。

日本のアイドルは本質的に「不完全性」がキモですから、「どっちつかず」の存在なら、「無理なダイエットされてかわいそう!」という批判だって、当然通用するということです。

まあ、現在のBiSはそのことに、答えようとはしないでしょうけどね。

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【雑記】・「まだ童貞。をプロデュース騒動について考えている」

映画「童貞。をプロデュース」の舞台挨拶の事件について、まだ考えている。
いちおうつけくわえておくと、あの舞台挨拶の構図が、「いじめる側といじめられた側」という単純な図式ではないらしいことは、少しだけ漏れ聞いている。
また、肝心の映画に関しても未見なのも、そのままだ(第一、観る方法がもうない)。

しかし、あの映像、事情を知らない者にとっては「やられた者の復讐」以外に見えない。これは非常に危険なことを承知のうえで書いている。
私にとってそう見えてしまうのは、ここ20年くらいの日本サブカル界において、何度も何度も「いじめ」めいた光景を目にしているからだろう。

「サブカルチャー」って反体制的で自由なものに思えるのだが、正直言って「弱者が強者に噛みついて行って、勝利をおさめた」といった爽快な光景など、見たことがない。
大半が、いわゆるパワハラである。
「パワハラ」はPCから来る言葉で、今回の舞台挨拶の件についても、PC的に松江監督を批判することはしたくない。
日野皓正のビンタは「教育問題」がからんだくるのでPC的に批判されるべきだが、「童貞。をプロデュース」から、映画の撮影内でのパワハラをいちいちチェックすべき、ということにでもなったら、それはそれで困ったことになる。
鈴木砂羽の舞台トラブルも同じである。

しかしまあ今回は便宜上、「パワハラ」という言葉を使うが、この20年間、サブカル界で先輩から後輩へのパワハラを、何度見て来たかわからない。

一時期、ロフトプラスワンの開演前に流す映像で、プロデューサーの高須基仁が若者を足蹴にするシーンが何度も何度も流されていたが、あれの事情は知らないが、やはり年長者が若者に向かって癇癪を起こしているように見える。
また、高須氏に関しては、怒って客席に向かってビールのジョッキを投げつけ、それが当たったお客さんがケガをしたという話も聞いた(示談は成立していたはずだが)。これだってお客さんに罪はない。

私の印象では、サブカル界は、他の縦社会や体育会系のまねごとをしているだけで、それだけにいじめる側も加減を知らない。
しかも「面白い」と思って客前でイジメるのである。「童貞。をプロデュース」騒動に関して「サブカルの冷笑主義が逆襲された」と言った意見がチラホラあったが、別にイジメはサブカルだけにあるのではない。むしろ、社会全体のイジメ構造の氷山の一角に過ぎないのだが、サブカル界全体が「イジメたら面白くなる」と変に思い込んでいた、ということについては、同意せざるを得ない。

実は最初は、私もサブカル界で、芸人の先輩後輩のような「いじったりいじられたりする」という関係が納得ずくで形成されていると思い込んでいた。

もちろん縦社会の芸人界に、イジメがないはずがないのだが、少なくとも「陰湿なイジメ」とは違った、「表面的ないじり、いじられる関係」があることは確かだろう。
そのような「役割分担」が、90年代半ば頃はサブカル界にもできていると思い込んでいたのである。

だがどうも実情はそうではなかった。
いじめられた側が「いじめないでくれ」と言えば、「シャレがわからない」、「空気が読めない」と言った批判が、先輩からなされるだけだ。

また、もうずいぶん前になるが、ある若者が生意気盛りに、「年長者でも間違ったことを言ったら正されねばならない」と主張したところ、「態度が気に食わない」という理由で、その若者がいる居酒屋に先輩格の男が乱入して若者を殴ったということもあった。
このとき驚いたのは、両者にはさらにリーダー格の男性がいたのだが、彼は「殴った方」の肩を持ったのである。まあ、当時から私がその集団に所属していたわけではないので、その後どうなろうが知ったこっちゃなかったのだが、もともと文化系的な雰囲気のゆるいサークルだと思っていたから驚いた。
せめて喧嘩両成敗にするくらいの料簡はなかったのだろうか。

他にも、当然、私はサブカル内のコミュニティの内情は知らないわけだから、知っているのは「イジメることをエンタメ化しようとした試み」ばかりだということになる。
90年代にしろ、2000年代にしろ、なぜサブカル界ではあんなにも若い層をイケニエにして笑いを取ろうとしていたのだろうか。
しかも、体育会系のようにじゅんぐりにやられていたわけでもない。権力を握っている側はサブカル界に参入当初から、実力で存在できる人たちが多く、「同じことを先輩にやられてきた」というわけでもないようだった。
そういう人たちが、面白がって後輩たちをさんざんイジメて笑いものにした。

他にも、「たとえ落ち度があっても業界内ならカタがつく」と思っていて、相手がまったく業界内慣習など知ったことじゃないのでこじれてしまったとか、自分の「子分」になれるようなやつを探して、サブカル界のコミュニティを渡り歩いていたヤツとか、とにかく「陰湿な世界だな~」という記憶しかない。

この際、「サブカルの世界は陰湿だった」とはっきり認めてしまって、ざんげでもすればいい。

もしかして、サブカル界に潜在的な「アンチPC的態度」が根底にあり、こうした「イジメ」を誘発していたのかもしれないが、だとしたらもうそのような態度にはアンチPCという観点からも何の意味もない、と業界全体で自覚した方がいいだろう。

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【社会全般】・「日野皓正の体罰問題」

「童貞。をプロデュース」の舞台挨拶問題とともに、こちらもPC(ポリティカル・コレクトネス)問題として、取り上げられるケースが多いだろう。
しかし体罰そのものに関しては、私が子供の頃からさまざまな局面で問題視されており、当然ながら別に今、始まった問題でも何でもない。
ではどのように体罰に対するとらえ方が変わったのか、駄文を書き連ねたい。

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【オタク】・「正義を問わないのなら、ヒーローものなんて見なくていい」

実は、まったく好きではない勧善懲悪のシリーズものがある。好きではないのですべてを鑑賞して論評することもできない。ただそれが絶賛されるさまを、横目で眺めているだけである。

また、別のことも過去にあった。
ある人が言っていた。
「鉄人28号」で、正義の正太郎くんの側につくか、悪の組織につくか選ぶのだったら断然、悪の組織だ。そっちの方がずっと楽しそうじゃないか」

まあ、「鉄人28号」のシリーズというのは、いちおう勧善懲悪ものだが、そもそも「正義とは? 悪とは?」を問うような話ではない。よく言われる「リモコンを使うものによって鉄人は正義にも悪にもなる」というのも、形成が「リモコン」をきっかけにたやすく逆転するストーリーの面白さを表現したかったということだろう(原作の「バビル二世」でも、三つのしもべはヨミも扱えるという設定になっている)。
別に「鉄人」において、「何が善で、何が悪か」は明朗すぎて疑うところはない。

とは言え、「勧善懲悪モノ」は文字どおり、善をすすめて悪を懲らしめるものである。これは絶対的なもので、いかに定型を崩そうと、あるいは定型どおりにやろうと、この「勧善懲悪」の部分から目をそらしたら、それは「ものすごく面白い物語」であるのかもしれないが、「勧善懲悪もの」ではないのである。

私の経験上、オタクはすれっからしというかひねくれているというか、「勧善懲悪モノを好む」のが性癖であるようで、実はまったくそんなことはない。
こだわっているのは私くらいのものであり、いつも孤独を感じている。

ハリウッド映画を観ていると、「勧善懲悪」ということにかなり意識的だ。
半可通を承知で言えば、これはキリスト教などの「唯一神」と「個人」が対峙するという、文化的な背景があるように思う。

だから「バットマン」は、彼にとっての「神」である、「正義(むろん彼にとっての)」に準じている存在である。
彼は自分の行動に際し、常に自分の心の中の「正義」を参照しているのだ。
人気のスパイダーマンも、「大いなる力には大いなる責任が伴う」というのを価値基準にしているようだ。
「責任」をまっとうすることが、スパイダーマンにとっての正義ということだ。

対するに、日本人にはこういう「戒律」的なものはそぐわないようだ。
実は日本で人気のヒーローものでも、精査していくと結構いいかげんであったりする。
こうした、日本におけるヒーローの「正義論」については、戦後の作品に関して言えば「日本自体が先の戦争で悪いことをした(とされている)」ことが根底にある。何も考えていないような作品にも、それがある。
だから、「世界の警察」とか言っていたアメリカとは、事情が違う。

しかし、それすらも考察の対象にはなっていないことが多い。
巷のヒーロー論を読むと、日本のヒーローものが好きな人は、「ヒーローの倫理観」みたいなものに無頓着な人が多い気がして、本当にウンザリする。

当然だが、「勧善懲悪」そのものに興味がないのなら、勧善懲悪ものは観ないでもらいたい。
あくまでも「勧善懲悪とは何か?」をベースにしないと、ヒーローものを論評する意味は半減する。

それがわかっていない人が多すぎる。

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【社会全般】・「えっ、韓国領事館にベトナム反戦像?」

8・15在福岡韓国領事館前“ベトナム反戦像”設置にあたっての韓国向け声明(「我々少数派」)
外山恒一の声明文。
知的ユーモアというのは、こういうことを言うのだろうな。
海外ではたまに、こういう「知的、かつ政治思想への問題提議的なパフォーマンス」の存在を耳にするが、日本ではこの人くらいしか実践者はいないのではないか。

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【オタク】・「オタクを始めることにも、やめることにも意味なんかない」

オタクがオタクでなくなるとき 「ヤメヲタ」はオタク活動を終止するとき何を遺すか(山本一郎、文春オンライン)
「だれかがオタクをやめる」ことで、他のオタクたちは言いようのない不安に包まれるらしい。
44歳の山本一郎にとってはそうなのかもしれないが、50歳の私にとっては、どうでもいいことではある。
そのことについて語りたい。

まず、「オタクをやめる」ことについて語るには、「オタクを始める、続ける」ことの意味について考えなければならない。
で、私の考えでは、別に何の意味もない。
趣味なんだから。

実はそこにこそ、まず第一のトリックがあるのだ。

「オタクこそ、実はエリートなんだ」的な言説をばらまいたのは、岡田斗司夫だと言っていいだろう。
それまでにも、オタク擁護に尽力した人はいる。大塚英志の功績は小さくないと私は思っている。宅八郎だっていた。他にも、目立たないがいとうせいこうなどはオタクに関して重要な発言をしている。
が、ここでは置こう。

で、岡田斗司夫が95年に「オタク学入門」を出した年というのは、宮崎勤の連続幼女誘拐殺人事件から数年が経ち、ようやく「オタクイコール危険で気持ち悪い」というイメージから、何かアクションがあれば脱却できそうな時期だった。
だから、「オタク学入門」は、プロパガンダの書であり、今読むとおかしなことがたくさん書いてある。
だが、それは「オタクイコール気持ち悪い」イメージからの脱却のために書かれたため、仕方がない部分もある。

「気持ち悪い」というイメージが、そもそも、「オタクはアニメやゲームを愛するかぎり、そこから抜けられない」ということを意味していた。中島らもは引きこもりのイメージがある「おたく」とは逆の「おそと」なる言葉も編み出したが、やはり「脱却不可能」というイメージを感じたのだろう(定着はしなかったが)。

岡田斗司夫はオタクに関する負のイメージを逆転させるために、いろいろな策を弄したわけだが、そのため「逆転したオタク像」は、求道的で、まるで修行僧や武道家、お茶やお花のような「道」としてとらえられた。
実はここから「錯誤」が始まっている。
だって、オタク趣味って、趣味なのだから。

それまでの「大人の趣味」であった、切手集め、盆栽、囲碁、将棋、釣り……。どれも、「脱却不可能な道だ」と唱えられたことはなかったはずである。

というより、「オタク趣味」は「それ以前の趣味とは違う」という差別化を図らなければならなかった。なぜか。
「新しいライフスタイル」として売り出すためだ。
だれが何のために、というのはいろいろややこしいので置いておく。

おれは岡田斗司夫なんか関係ない、彼のことなんか昔から嫌いだった、何の影響も受けていない、という人たちも、オタクを「道」ととらえている点は同じである。

そうじゃないのだ。
ただの趣味なのだから。

「ただの趣味」なら、やめようが、やめてからまた始めようが、個人の勝手である。

「オタク趣味の情熱は、必ずしも年老いてから持続しない」と言うが、そんなのは当然である。
趣味なのだから(しつこい)。
そうでなくても、仕事だって、情熱を四十代、五十代になって持続させている人ばかりかどうかはわからない。

それと「オタク趣味を持続させるかどうか」は、結婚や子育てと関わってくる。結婚したり子育てするようになれば、趣味にさく時間は確実に減るからだ。
だが、ここの点でも、別に結婚や子育てに当てる時間と趣味の時間が、等価交換になるわけではない。

ここで注意してほしいのは、私が「だから結婚しても子供が生まれても、オタク趣味は続けられる」と言っているわけではない、ということだ。
別にやめてもいいんじゃねえの、と言いたい、ということである。

「オタク趣味をだれかがやめると、オタク仲間に不安が広がる」などと言うのは、
不安商法とまでは言わないが、それに近いものを感じる。
本来、ほぼどうでもいいことなのだから。

オタク的趣味を持続させることは果たして「求道」なのか? ということから、まず考えた方がいい(余談だが、小池一夫のツイートにおけるオタク擁護も、この「求道精神」が垣間見える)。

求道なら、オタク趣味に一生を費やした後、虚無感しかない、ということはないはずだし、求道でないなら、イヤになったり無理が生じたら、やめてもいいはずである。
宗教じゃないんだから、途中で投げ出したって地獄に堕ちることはないだろう。

それだけの話だ。

まあ、気楽にやろうよ、ってことである。

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【同人誌新刊】・「ぶっとびマンガ大作戦 Vol.21」(WAIWAIスタジオ)

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一般的評価の対象外となってきた、主に70~80年代のマンガを紹介する本です。

夏コミで頒布予定。
スペースナンバー:U 05b
サークル名:WAIWAIスタジオ

まあだれでもそうでしょうが、つくるのに苦労しました。
買ってね!!


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【アイドル楽曲】・「えっ、状況を皮肉った曲なんじゃないの? それと追いつめられた者のプライド。」

欅坂46「月曜日の朝、スカートを切られた」が波紋 切り裂き被害者が「不謹慎」と指摘、署名活動へ

(引用開始)
しかし、尾崎が抑圧への抵抗、自由を手にするために行動することの解放感を歌うのに対し、『月曜日の~』は、「目立たないように息を止め」ることで抑圧を受け入れよとの文脈を持つ。その文脈で、切り裂き被害に遭った曲中の主人公が「私は悲鳴なんか上げない」と言う。これは、犯罪被害者側に沈黙を強いていると受け止められても仕方がないのではないだろうか。
(引用終わり)

いやーそうは思わないけどなぁ。

「どこかの暗闇でストレス溜め込んで 憂さ晴らしか」
っていうフレーズが一番から入っているから、
「悲鳴を上げたらスカートを切ったやつが喜ぶだろうから、そんなやつの憂さ晴らしなんかには付き合わない」
ということなんじゃないの?

どんなに抑圧的な社会でも、女の子のスカートを切り裂くことがいいわけないんだから。

検索したら、この歌詞は「サイレントマジョリティーの前日譚」ということになっているらしいので、「スカートを切られても声を上げないことが、唯一の矜持」だった女の子が、「サイマジョ」で積極的に声をあげるようになる、という流れでしょ。
まあ「サイマジョ」を知らなくても、この歌だけで完結していてもいい。

世の中が息苦しい、でも出口がない、どうしよう、そういうときに他人を苦しめて憂さ晴らししようとするやつがいる。
社会が抑圧的なことには変わりないけれど、「どこかの暗闇でストレスを溜め込んでいるやつの標的にだけはなりたくない」という歌詞なんではないかと思いますけど。

違うの?

おれの読解力も鈍ってきたかなあ。

でも「歌詞全体が皮肉」ってのはごくたまにあって、
パッと思いつかないけど、植木等の、
「これで日本も安心だ」
とかさあ。
その路線なんじゃないの?

秋元康の「額面どおりに受け取れない、状況を皮肉った曲」としては「サイレントマジョリティー」とは正反対の「他の星から」(乃木坂46)っていうのがありますしね。

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【表現】・「ラッキースケベ、および少年ラブコメ問題」その2(完結)

ちょっと気になったのが、一連の騒動を通して、
「ジャンプってマチスモでしょ」
と捨て台詞のように一行、だれかがツイートしていたことである。
検索すると「マチスモ」とは、ラテン・アメリカの男性優位主義のことのようだが、この場合は「マッチョイムズ」程度の意味だろう。

こうなってくると「ゆらぎ荘の幽奈さん」は、そもそも男性優位なマンガなのか? というところから議論を始めないといけないが、「だいぶマイルドにした、『おちぶれたマッチョイムズ』」だというのが、70年代後半以降の少年ラブコメや少年エッチマンガである、というのが私の認識だ。

だから、「幽奈さん」に限らず、ハーレムラブコメ作品にまつわる問題というのは、批判者側からすれば、「おちぶれたマッチョイムズを放置するのか、潰すのか」ということになるだろう。

そもそも、ハーレムの設定が「コメディ」として描かれていること自体、マッチョイムズをまともに描くのはアホらしいという含意がある。
こういう傾向が始まったのは、七十年代後半頃から。
「うる星やつら」とか、美少女二人どっちを取るかというあだち充の「みゆき」などが嚆矢となるだろう。
当時は「少年ラブコメ」と言った。もっと正確に言えば「ラブコメ」。少年誌だけで流通していた言葉だからだ。
(少女マンガのラブコメと少年マンガのラブコメはかなり違っていた。)

時代的には、松田優作主演のテレビドラマ「探偵物語」(79~80年)が、コメディ調に描かれていたことと重なる。
もちろん、同時代にも大藪春彦のハードボイルドの映画化や、渡哲也の「大門軍団」みたいな「男らしさ」を持ち上げる傾向は続くのだが、それでも70年代前半とは違ってきていた。

設定としては、多くの場合、主人公は優柔不断、何となく本命の女の子はいるのだが告白できず、そのうちなぜかいろんな美少女が集まってきてしまうというパターンである。
しかし、ときおり不良にからまれたりとか、冬山の山荘に二人きりになったりしたときには男気を見せる。
エロ描写で言えば、サービスショット的なものもときおり入っていたと思う。
(少年エッチマンガを、ラブコメ作品ととらえるかは面倒だがここではとりあえず、別物とする。)

ここにははっきりと「理想の男性像」の変質がある。別に昔っから同じことをやってきたわけではないのだ。

そのあげく、「ラッキースケベ」の導入となった。こうなったら、たとえ合意でも好きなこと手を握ったり、キスしたりすることもむずかしい。
つまり、そこまで「旧来の男像」を骨抜きにしたのが現在の「ハーレムラブコメ」の主人公なのだ。

だから、問題とするならそうしたハーレムものの構造自体を問題にしないといけない。

そもそも、すでに「幽奈さん」は6巻くらいまで単行本が出ている。
しかも、週刊少年ジャンプという超メジャー誌だ。
それが巻頭カラーになって「見つかり」、騒ぎ立てられる。

たまたま子供の買ってきたジャンプを観て、顔をしかめる母親、というのはわかる。
だが、それに寄ってきてわーわー言っている人は、「そういうのの監視員」としても、ぬるすぎる。

むろん私としては、繰り返すが「放置しても何ら問題ない」という考えである。
まあはっきり言って、どうでもいいということだ。
たとえば、「優奈さん」がこの騒動で打ち切りになったら、世の中変わるのだろうか?
まず変わらないだろう。

少年マンガ界が今まで無法地帯で何もやってこなかったのならともかく、時代の流れで、主人公の少年のキャラ設定まで「ヘタレ」になっているのに、それでもまだ批判する意味がわからない。
まあ、ジャンプも客商売だからクレームが来れば考慮はするだろう。

だがそれにしても、どうでもいい話だ。
フェミニズム的な課題にしぼったとしても、他に考えるべきことはたくさんあるはずだ。

(関連)
「ゆらぎ荘の幽奈さん」巻頭カラー問題

「ラッキースケベ、および少年ラブコメ問題」その1

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【表現】・「ラッキースケベ、および少年ラブコメ問題」その1

「ラッキースケベ」の語源については、いろいろあるのかもしれないがとりあえず、ネットで検索していちばん最初に出てくるのは「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」(2004~2005年)の作中に出て来たという話。
その後、「少年主人公の側から、絶対にエッチなことを仕掛けないようにしよう」と、原作者とマンガ家のあいだで決めたという「To LOVEる -とらぶる-」が2006~2009年まで週刊少年ジャンプで連載されている。
(この「取り決め」に関しては、単行本の1巻に書いてあったと記憶するが、今手元にない。すいません。)

ネットを観ると「To LOVEる -とらぶる-」が、少年誌エッチの限界を超えた、みたいな意見が多く誤解されがちだが、連載当初に、「少年主人公の側から、絶対にエッチなことを仕掛けないようにしよう」と決めた、というのはすなわち、
「ラッキースケベなシチュエーションしか登場しない」
ということである。

ではなぜ「ラッキースケベ」なシチュエーションが多様されるようになったかと言えば、現場でどういう話し合いがあったか知らないが、普通に考えて「少年主人公からのセクハラ的な行動を描かない、要するにセクハラを描かない」ということが目的だとしか、考えられない。
(80年代には、「少年主人公やその仲間たちが、女子更衣室や女風呂を覗く、などの明確にセクハラなシチュエーションが定番化していた。)

くわしく調べていないが、2004年に「用語」として「ラッキースケベ」が登場しているということは、シチュエーション自体はそれより前からあったと考えられる。
また、こちらも調べていないので申し訳ないが、「女性の乳首を描かない」というのも自主規制としてずいぶん前から行われてきた。
これも立派な自主規制である。

もちろん「時代は変わったのだから、もっと厳しくすべき」という意見もあるだろうが、個人的にはピンと来ない。
少年マンガなんだから、戦いや恋愛や、多少の(ここが反対派にとっては問題なのだろうが)エッチシーンが出るのは普通だとしか思えない。

なお、「エロではなくハラスメントだからいけないのだ」という意見に関しては、風でスカートがめくれるとか、雨でブラウスが透けてしまうとか、水着が吹き飛ばされてしまうとかいったシチュエーションに、「ハラスメントする側」がないので、成立しづらいと思う。
「作者がハラスメントをする側だ」という意見もあるだろうが、それでもマンガ作品内で行われる非・道徳的行為(暴力や殺人、ほかの違法行為)よりも率先して規制されるべきという理由が見当たらない。

そもそもが「ラッキースケベ」自体が妥協の産物なのだから、それに反対するなら、「もう時代が変わったんだからそれすらも許されない」というロジックがなければならない。

では「ラッキースケベ」に到達する前は少年マンガはどうだったのか、ということについて、気力があれば次回、説明する。

続く。

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