70年代

【ドラマ】・「小野田さんと、雪男を探した男~鈴木紀夫の冒険と死~」

ドラマ「小野田さんと、雪男を探した男~鈴木紀夫の冒険と死~」
脚本:仲井陽(ドラマパートのみ?)

29年間、終戦後もフィリピンのジャングルに身を潜めた小野田元少尉(塚本晋也が演じている)。
彼は、さまざまな経緯の果てに1974年、帰国する。それは二年前の横井さん帰国とともに、当時の日本人に衝撃をあたえた。

ここまでは当時小学生の私も知っている。私の父親は戦争に行ってモンゴルで捕虜になった経験がある。子供の頃は、しょっちゅうその話を聞かされた。新宿の西口には、おそらく偽物だろうが、傷痍軍人がいつもいた。
 74年にはまだ戦争の傷跡が、そこかしこに残っていた。

 しかし、小野田さんが、一人の日本人の若者と接触し、彼の導きによって初めて帰国を決意した、ということはまったく知らなかった。
 その若者が、鈴木紀夫(演じたのは青木崇高)。大学時代に日本を飛び出し、三年以上もの間、海外(主にアジア、アフリカ圏)を放浪した彼は、帰国後、小野田さんが再三の投降勧告にもまったく耳を貸さない状態をテレビで見たため、「自分なら連れてこられるのでは!?」と思ったというのである。
 そして、鈴木紀夫の無謀な試みは成功し、小野田少尉と接触した彼は、夜通し話し込む。そのうち、小野田さんから「上官の命令が直接下されれば、それに従う」という言質を取る。そしていったん帰国、かつての上官であった人と再びフィリピンに赴き、小野田さんは日本に帰国することになる。
 帰国後、大きな話題となったが、わずか半年で小野田さんはブラジルに移住。
 こうして一連の「騒動」は終息したかにみえたが、ドラマの焦点は、この後、青年・鈴木紀夫の「その後」に絞られていく。
 彼は、「小野田さんと接触した鈴木紀夫」ではなく、一人前の冒険家になることを渇望した。そして、ヒマラヤの「雪男」を探すことに情熱を燃やしていく。

 ……というような内容の、ドラマパートとドキュメンタリーパートを合わせたドラマである。
 あまり期待していなかったのだが、見始めると止まらなくなってしまった。

ネットで調べると「小野田さんは日本の敗戦を、実は知っていた」という話はよく出てくる。トランジスタラジオを持っていたというから、情報は入ってきていた。本作の中でもそう言っている。
しかし、このドラマでは「事実は知っていたが、それを敗戦だと解釈しなかった」というふうに小野田は述懐する。人間は信じたいものを見てしまうのだと。
 鈴木紀夫は「そんなものか」と思うのだが、雪男を追い求め、ヒマラヤに何回も行くうちに、「自分自身が観たい雪男」という幻想に取りつかれてゆく。

おそらく、このドラマは小野田元少尉と鈴木紀夫、双方の遺族の許可のもとにつくられているはずだ(鈴木紀夫に関しては、遺族や仲間たちが多数、ドキュメンタリーパートに出演している)。
そのうえでの、二人の心情に関する大胆な解釈と、その表現に驚かされる。
というのは、鈴木紀夫は、1986年の最後のヒマラヤ遠征で雪崩に会い、死んでしまうのだが、その死の瞬間、彼の幻想世界に、小野田少尉が兵装で現れるのだ。
「いつまでも幻想を追うな、帰ってこい!」と。
これは、かつてのフィリピンにいた小野田と鈴木紀夫の立場が、完全に逆転したことを意味する。

軍国教育に忠実だった(と、このドラマでは解釈されている)小野田と、戦後教育のもとで育ち、おそらく「宇宙船地球号」的な考えを持っていた鈴木紀夫という、まったく違う環境で育った二人の考えが、一瞬合致するのだ。
「観たいものを観てしまう」という、危険性において。

ひさびさに、ドラマを観て興奮してしまった。

なお70年代に、「横井さんや小野田さんが隠れていたのだから、未確認生物もいるだろう」という発想は、わりと自然だった。
通常は笑い話とされることが多いのだが(よくよく考えれば発想が飛躍しすぎている)、そうした「時代の雰囲気」をここまで真摯に突き詰めて見せたのは、本作くらいなのではないか。

なお、現実に小野田元少尉は、鈴木紀夫を気にかけていたようだ。
彼の死後、小野田は追悼のためかヒマラヤに登っているから。

なお、私は小野田さんを過剰に英雄視するという立場ではありません。

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【アニメ映画】・「ルパン三世 ルパンVS複製人間」

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ひさしぶりに観る。もともとまあ「普通」くらいの好き度の映画なのだが、ルパンというともはや「カリ城」しか知らない世代もいそうだし、公開時期が近い「カリ城」と対比する意味でも、重要な作品だと思っている。

ただやはり何回観ても「ん?」と思うところがある。

今回再見して感じたのは、マモーの「生への妄執」と、ルパンの「長生きしたってろくなことにならねぇ」的な人生観の対比がうまくできていないというところだ。

てっきりマモーは、不二子と結婚してその子孫を、自分自身として育てていくのかと思っていたのだが(この辺は『家』を最重要なものとみなす「カリ城」と混同していた)ぜんぜんそんなことはなかった。本当に、ただ美しい不二子に惚れていただけだった。

一万年も生きてきたマモーが、過去の配偶者とどう生きてきたかなどは、まるごと端折られている。この辺、もう少し説明が欲しい。

もうひとつ、マモーの行動で謎なのが、「賢者の石」でクローンの強化ができないと知ったマモーが、人類を滅亡させようとする点である。ここの意味がまったくわからない。

「人類の歴史に干渉してきた」と作中で言っているが、人類そのものにルサンチマンがあるわけではなさそうだ。だから、マモーが人類を滅亡させるのは謎だ。
そんなわけで、本作のルパンとマモーは激突しそうで、微妙にすれ違う。ただし、ルパンが聖女のような女性ではなく、いつ裏切るかもしれない不二子に固執する、というのは大変良いと思った。

「裏切りは女のアクセサリー」とは、ルパンが第一シリーズで言った言葉だが、本作でもそのとおりなのだろう。そして女性のわがままや裏切りに手を焼きながら(当然、他の女性にも手を出しながら)死期が来たら死ぬつもりなのだろう。

一方で、マモーの不二子に対する固執は「美の賛美」と「自身の孤独の補てん」という以上の意味はないように思える。というよりも、映画冒頭で不二子のシャワーシーンをカメラでのぞき見したり、ルパンと不二子が乳くりあっているシーンを観て怒鳴りつけたりするところを観るに、マモーが執着しているのはおそらく「セックスの能力」なのだろう、と少々勘ぐってみる。

マモーの「永遠の生命」は、おそらく「永遠のセックス能力」の暗喩なのだ。
(というように、私が勝手に妄想しているわけです。)

だからマモーが人類の歴史に干渉しているとか、核ミサイルで人類を滅亡させるとかいうのはマモーにとっては付随的なことにすぎない。要は不二子さえいればいいのだ。しかし一緒にいるだけではダメだ。

年老いたマモーはたぶん、「若い女はセックスの快感でつなぎとめないといけない」と思い込んでおり、だからこそ「賢者の石」に執着したのである。

最終的には、不二子すらもあきらめ、宇宙に旅立つことになるが、人類を支配することにも対して興味がなく、永遠の生命も手に入らない以上、配偶者もいない状態で地球に居続けることはプライドが許さなかったのだろう。

つまり、ルパンが言うように、彼は「やっと死ねた」のだ。

しかし、ここまで書いて、本作はマモーの妄執が「セックス能力の暗喩」からズレていること、マモーの欲望とルパンの欲望が微妙にズレていることこそが、重要なのだと思いなおした。
そうでなければ、本作はただの「若いカップルを引き裂き、ヒロインをわがものにしようとするヒヒジイイ」という陳腐な図式で終わってしまうからだ。

ルパンという男とマモーという男が、それぞれの欲望を追及していく中で、ある瞬間に決定的に激突する。
それがいいんだなあ、と思った次第(ぶっちゃけ、展開としては多少中ダレしますけどね)。

なお、掘り下げられてはいないが、若いルパンがまだ「女性」に幻想を持っているのに対し、作中で妻子がいるとされる銭形は、女性に幻想を持っていない。そして、だからこそ「世紀の盗賊ルパン」を捕まえることに、あれほどまでに血道をあげているのではないだろうか?

世界を飛び回っている銭形だが、本作だけを観るかぎり、本当は家に帰りたくないのかもしれない。

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【雑記】・「おニャン子はモラルを破壊したか」

(引用開始)
×××@xxxxx ・ 4月6日
アイドルちゃんにきわどい歌歌わせるのは山口百恵のアイドル歌謡時代に確立されて、おにゃん子でモラル破壊に繋がったんだな。
(引用終わり)

なんだか眠れないので、たまたま目にしたこのツイートについて思ったことを書いてみる(注:別に、このツイートに対する批判ではありません)。

「若い子がきわどい歌を歌う」というのは、パッと思いつくと「藤圭子の夢は夜ひらく」が1970年で、藤圭子は20歳。山口百恵デビューのわずか三年前ということにまず驚く。

確かに山口百恵は十代からきわどい歌詞で歌っていたので、成人していた藤圭子と比べて大きな対比となるか微妙だが、「若い」、「薄幸」、「きわどい」ということで言えば、やはり一時期の山口百恵の楽曲と藤圭子のそれには共通点が否定できない。

そして、藤圭子の方が山口百恵より早い、ということになると思う。

藤圭子よりも前がいるかもしれない、というかいると思うが勉強不足で、知らない。

ただし、山口百恵は「アイドル」という枠内で、きわどい曲を歌った嚆矢とは言えるだろう。

さて、山口百恵の、たとえば「ひと夏の経験」みたいな歌が、おニャン子の「セーラー服を脱がさないで」に直接つながっているか? というと、これも私には断言はできない。

というか、そもそも、おニャン子の歌っていたことが「モラル崩壊」と言えるかどうかという疑問が残る。

70~80年代アイドルは、むちゃくちゃ大雑把に言うと、非処女よりも処女に価値を置く「処女信仰」で成り立っている。

山口百恵~中森明菜の路線はちょっと違うが、歌っている歌と本人たちのキャラは別だった。だからこそ、百恵・友和カップルは一般庶民にとって一種の「理想」だった、という、百恵が歌っていた歌との矛盾が出てくるのだが、それはまた別の話。

で、「処女が最も価値が高い」というのはどういうことかというと、原理的には生涯に一度しか男性と付き合えない。処女でなくなったら神通力を失う、ということ。

だから「別に処女でなくてもいい」というのは、少女側からすると「解放」である一面が確実にある。実際の性行為の有無だけでなく、あらゆる「処女っぽさ」を守らなければならない行動から解放されるからだ。

おニャン子の一連のぶっちゃけた歌は、こうした「別に処女じゃなくてもいい、むしろ処女じゃない方が身軽」という「解放」面に重点が置かれたものだった。

それに対し、山口百恵が十代の頃の歌というのは、その全段階というか、もっとジメッとしている。

おニャン子の歌が、山口百恵の歌に対し、「何をジメッとしてんだよ! もうそういう時代じゃないんだよ」という意味で歌われたという文脈であれば、山口百恵の(一時期の)歌とおニャン子の路線は、つながっていると、いちおう言える。

ちなみに、アイドル楽曲には「一見清純な歌なのに、エッチな隠喩とも受け取れる」という技法もあるので、

「アイドル楽曲がだんだんとモラルを失っていった」みたいな流れにはならないと思う。

一例として、河合奈保子の「大きな森の小さなお家」をあげておく。

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【創作小説】・「不可思議ハンター・奇門狂介 あっ、口裂け女だ!! の巻」

小説 不可思議ハンター・奇門狂介 あっ、口裂け女だ!! の巻(ピクシヴ)
小学六年生の青葉武雄は、ある晩、塾帰りに「口裂け女」に遭遇する。学校では口裂け女の話題で持ちきり。だがクラスは「実在派」と「否定派」にまっぷたつに割れる。もちろん「実在派」の武雄は、同級生の織田ココノたちとともに、口裂け女に対抗する方法を考えるが……。

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・「改訂版 マジンガーZ」全4巻 永井豪(2013、講談社)

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週刊少年ジャンプとテレビマガジンに、合わせて1972~74年まで連載されていたものを合成して一本のストーリーにしたもの。
以前に出た単行本が、(私の家の)入れないところにしまってあるので細かい比較ができないが、マジンガーZの顔と、弓さやかの顔が描き直されている。他にもいくつかの修正がなされているようだ。

以下は、メモ程度に。

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・「新オバケのQ太郎」全4巻 藤子・F・不二雄(2011、小学館)

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あまりにも思い入れが強すぎて、何も書けない。

とか言いつつ書いてしまうが、旧オバQに比べてドタバタ色が強くなり、ギャグもドライだ。FとA、どっちのセンスかというと……勘だけでテキトーなことを書くと、たぶんFのセンスなのではないかと思う。

先述の「チンタラ神ちゃん」には、「クルパー教」という、キャラクターが全員頭を打ってクルクルパーになる、というちょっと破滅系のメチャクチャなエピソードがある(旧オバQと同時期)。
だが、「新オバQ」では落語のオチのようなものがちゃんとつくエピソードが多いのだ。まあ、どっちも合作ということなんだが……。わからんよね細かいことは。

自分が藤子マンガでいちばんオバQが好きなのは、基本的に彼が何の役にも立たないからである。そして、負けずおとらず人間たちもまぬけだからだ。

これが「ドラえもん」になると、ずいぶんと世知辛い。「ゴジラ」に比べて「ジャイアン」はシャレにならないいじめっ子だし、キザくんに比べてスネ夫はずっとずるがしこく、のび太を陥れる。ジャイ子だって、「マンガがうまい」ってのは後から付いた設定で、登場時は単なるブスキャラだった。
オバQに、レギュラーのブスキャラはいないし、ゲストで出てきた「バケ寺ベソ子さん」とは、オバQはすぐに仲良くなってしまう。

そういうのが好きだったのだ。

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・「エスパー魔美」(3)  藤子・F・不二雄(2010、小学館)

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「エスパー魔美」は、私が小学校高学年から中学生にかけて連載されていた作品。
今はどうか知らないが、私の周囲では中学に入ると藤子不二雄を卒業してしまう者も多く、私もその一人だった。
(まあ、なんだかんだで「忍者ハットリくん」のアニメをかなりよく見ていたりしたのだが。)

本書に収録されているのは78年頃の作品だが、リアルタイムでは数えるほどしか読んでいなかった。

だが思う、もしも私がずーっと、子供の頃から大学生くらいまで、リアルに藤子不二雄(の二人)を追い続けていたら、どういう感想を持ったのかと。あまりに完璧すぎて、その後もマンガにのめり込むこともなかったんじゃないか? と考えてしまうのであった。

2巻の感想

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【映画】・「マイ・バック・ページ」

公式サイト
監督;山下敦弘、脚本:向井康介

70年代初頭。大手新聞社に勤める沢田(妻夫木聡)は、学生運動をする学生たちにシンパシーを感じつつも、決して当事者になれない自分に負い目を感じていた。
ある日、自称活動家の梅山(松山ケンイチ)からのコンタクトで、今後起こすというテロに関して取材をするが、先輩記者は梅山を「ニセ者」だと言いきる。にも関わらず、沢田は梅山に惹かれていく……。

とても丹念につくられたいい映画で、私は感動した。だが、時代背景が最低限わからないと、なぜ沢田が梅山を信じてしまったのか、観客は理解できないだろう。

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・「教師女鹿」全2巻 沼礼一、川崎三枝子(1978、芳文社)

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品行方正なある学園に、若い美人教師が赴任してくる。あらゆる規律に従わない彼女は、学園そのものを崩壊させようとしているかのようだった。
教育熱心な校長は、彼女の心を「調教」するために、教師たちにあの手この手を使わせるが……。

一時期はどこの古本屋にもあって、ワイド版も出た。映画化もされている[amazon]、川崎三枝子の作品では最も有名なのではないか?

本作の重要なところ、そして最もよくわからないところは、ヒロインの敵である校長が決して悪人でも過度の管理教育を推進しているわけでもない、ということである。
ネタばれになってしまうが、ヒロインの復讐の相手は管理教育のために狂気の世界に入り込んでしまった母親であり、母親と思想を同じくする(しかし別に狂気の領域には達していない)校長との戦いは「代理戦争」にすぎない。
このため、読めば読むほどよくわからないことになっている。
70年代という時代状況をかんがみれば、ヒロインにとって自由と快楽のためにはすべての規律は破るべきであり、すべての社会秩序のために己を抑えている人々は偽善者となる。ヒロインはその偽善の皮をひっぺがし、人々を欲望に殉じるけだものにすることに、何よりも喜びを感じるのだ。

が、もともとが「代理戦争」であるため、ヒロインと他の教師たちとの戦いにまったくカタルシスがない。
やや雑に言ってしまえば、「捨てられた鬼っ子」がその出自ゆえに社会に復讐するという、貸本怪奇劇画にあるようなパターンだと解釈すればいいのだろうが、やはり最後は母親との対決にすべきだっただろう。

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・「マスコミ無頼 TVスキャンダル作戦」 堂本龍策、緒方恭二(1979、日本文華社)

悪徳プロデューサーの神代五郎は、ディスコの女の子をレイプしたとされテレビ局をクビに。しかしすぐさまプロモーション会社を設立、かせいだ視聴率のぶん報酬をいただくという仕事を開始した。
視聴率のためならどんなことでもやってのける、神代五郎のテレビやくざ人生を描く。

テレビやマスコミを題材とした同時期の劇画としては、谷あくと原作、峰岸とおる作画の「マスコミ非情派」とか本作と同じ堂本、緒方コンビの「マスコミ戦士(ゲリラ)」があるが、これらが反体制的な側面を持っていたのに対し、本作はどうにもこうにも主人公が本気の悪人なので、どのエピソードもあまり後味がよくない。

なお、いちばん面白そうだった「PART2 超能力操作」の三分の一くらいのページが印刷されていない真っ白なページで、内容がさっぱりわかりませんでしたとさ。

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