「冷笑系」という雑なくくりはよくない
今でこそ「冷笑的な笑い」はすべて「冷笑系」みたいに言われるようになってしまったけど、「冷笑」とは「対象へのツッコミ」であったり「俯瞰の笑い」であったり、いろいろなバリエーションがある。
サブカルの流れで言えばもともと「面白主義」と言われた態度がある。70年代前半くらいに「とにかく眉間にしわを寄せて深刻に政治や社会について考えなければならない」という同調圧力的なものがあったらしく、それに抗して、「面白いこと、楽しいことをしよう」という態度であったと記憶する。
「面白主義」については「ビックリハウス」がよく引き合いに出されますが私は年齢的にもそのことはよく知らない。
関連するのは、「空飛ぶ冷やし中華」という本を出した「全日本冷し中華愛好会」や、「VOW」、路上観察などもこの部類に入るはず。
あ、それと「笑い」とはあまり関係がないが80年代前半のロリコンブームも、前時代の大人や若者の雰囲気(マッチョイムズ)に対するアンチテーゼだったはずだ。
むろん、MANZAIブーム以降、ビートたけしや島田紳助もそのような文脈で受け止められた。
80年代はパロディの時代だ、とざっくり言われ、リアルタイムでは本宮ひろ志がそうした傾向に不快感を表明している。
そして、そうした時代の雰囲気が、今度はそういう「パロディ的なノリ」についていけない若者を、オウムなどのカルトに向かわせることになる、という当時の「時代の雰囲気」は私も否定しない。
その後、80年代の「笑い」は「抗すべき、うっとおしいきまじめさ」という「敵」を次第に失い、バブルの狂騒に向かっていくが、現在、リベラルが「冷笑」を否定する場合、ちょっと待て、と思う。
というのは、リベラルは「異なる考えの人たちとも仲良く併存していきましょう」という考えだろう。突撃して突っ込んでいって相手を潰せ、と言う人はいないだろう。
しかしこういう考えでは、「相手が最初から敵意を持ち、徹底的にこちらを攻撃しようとする」場合、併存自体が成立しない。にもかかわらず、立場上、抵抗することもやり返すこともできない。
そうなると、もう「冷笑」くらいしかやることがないのだ。
そういう意味での「冷笑」は別に(ヘイト的なものでなければ)少しばかり存在してもバチは当たらないだろう。
いわば「ガス抜きとしての冷笑」だ。
もうひとつは、陰謀論やトンデモの問題だ。
こちらも「冷笑しないで共存しようよ」というわけにはいかない。トンデモ論者は論争してもぜったいに自説を曲げない、ということはよく言われている。
そうなった場合、新しい陰謀論者、トンデモ論者を増やさないようにするためには、真っ向から反論するのと同時に(それはそれで無力かもしれないが)「冷笑」してもいいだろう。
効果があろうとなかろうと、「そんなバカなことがあるはずがない!(笑)」という態度は、絶対に必要だ、と思う。
だから私は「冷笑にもいろいろある。ときには必要なこともある」という考えをいまだに持っている。
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