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【テレビお笑い史】・「1989年のテレビっ子」 戸部田誠(2016、双葉社)

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「たけし、さんま、タモリ、加トケン、紳助、とんねるず、ウンナン、ダウンタウン、その他多くの芸人とテレビマン、そして11歳の僕の青春記」というのがサブタイトルのようだ。
著者が11歳だった1989年が、テレビバラエティのひとつの「節目」だとする「史観」に基づく、テレビ好きによるテレビバラエティ史である。

個人の史観だから、異論のある人もいるかもしれない。
しかし、おそらく「正当な異論」はほとんど出てきていないのではないかと思う。
それほどまでに、テレビバラエティというのは、系統立てて語られることは少ない。
ましてや「視聴者」の立場からは。

・その1
私はこれでもいっぱしの「テレビ好き」のつもりである。本書の著者よりは10歳ほど年上だ。
しかし、驚くべきことに、著者の「テレビバラエティ史観」に、まったくと言っていいほど異議はなかった。
著者は、「マンザイブーム」も、初期の「ひょうきん族」も、最初の方の「ザ・ベストテン」も、リアルタイムでは知らないはずである。
お笑いは過去のアーカイブに当たることがむずかしい。ネット上での「お笑い論」が、「欽ちゃんブーム」をまるごと無視して語っていることもよくある。これは欽ちゃんが、85年以降、急に失速し、テレビからはセミリタイアしてしまったからで、「視聴率100パーセント男」と言われた頃の欽ちゃんを想像できないのは、若い世代には無理もないのである。

しかし、本書は違う。著者がよく知らない部分も、よくここまで調べたな、と思う。しかも、ただ調べただけではない。
本書が「バラエティ史」として魅力的なのは、「テレビバラエティの青春」、「芸人たちの青春」の軌跡として、テレビバラエティを扱っている点にある。そして、一視聴者であった「テレビの前の自分」が、「テレビの中の人々の青春」にいかに自分を重ね合わせていたかということを描いているのである。

・その2
だから、本書の中でもとくに輝くのは「半年で自分の漫才に結果を出す」と言った島田紳助や、「自分は最強のシロートだ」と自認していた石橋貴明などである。
中でも「とんねるず」がなぜ若者に支持されたかは、詳細に書いてある。例の「保毛尾田事件」のときに、いちばん勢いのあった頃のとんねるずのことを知らないでネットでテキトー書いている人が大勢いたが、せめて本書を読んでいれば、もう少しまともな物言いになっただろう(私個人は保毛尾田復活を擁護するものではない。念のため)。

そもそも「テレビのお笑いの批評」は、批評としていまだに成立していない。芸人は基本的に研究されたり批評されたりすることを非常に嫌う。また、批評する者が現れても、放送作家や芸人自身など、業界内部の人がほとんどだ。
本書のように「テレビ視聴者」という立場で、お笑いに言及することはむずかしく、また勇気のいることなのだ。

しかし、本書は「一視聴者」の立場から書かれているからこそ意味がある。人生で苦しいとき、寂しいとき、「笑いたい」と思い、テレビのバラエティの笑いで癒されてきたものでなければ、書けない内容なのだ。

本当によく書いたと思う。絶賛したい。
まだ読んでいないお笑いファンは、すぐ読んだ方がいい。

・その3
さて、ほめてばかりいると私の存在意義が消失してしまうので、本書に書ききれなかったことを考えてみよう。
まず「テレビを鑑賞する側」の問題としては、ナンシー関の問題がある。
もちろん、テレビバラエティについて書いた本書が、「テレビを観る側」に言及する筋合いはないのだが、ナンシー関のテレビ評は避けて通れないのも事実である。

ナンシー関がなぜテレビに言及し続けることができたかと言えば、「視聴者」の立場を最後まで崩さなかったからである。しかも、彼女の批評スタイルは、まったくの「作品主義」であって、プロデューサーやディレクターや放送作家はだれかといったことには言及しなかったし、個別に取材をするようなこともなかった。本人がそうしたことをチェックしていたかどうかも謎である。
具体的に言うと、ナンシー関がテレビ出演したのはNHK教育テレビの「婦人百科」(段取りの悪さに怒りをあらわにし、二度と出ないと言っていた)、タレントと対談したのは私の知るかぎり、とんねるずだけだが、他にあったとしても多くはないはずだ。

逆に言えば、このような徹底した「外部の視点」を保っていたからこそ、ナンシー関はテレビについての「批評家」でいられたと同時に、そのスタイルがあまりに完璧だったために、映画やアニメやマンガのように、スタッフにインタビューしてバラエティ評をする、というタイプの批評を活性化させるとか、そういうことはまったくなかった。
そんなナンシー関の完璧性は、今でも「テレビ評」に影を落としている。

逆に言えば、ナンシーの影響を振り払いたければ、取材するか、文献に当たればよい、ということになる。
たとえば「実際に取材している人」としては吉田豪が現れ(もちろん他にもたくさんいるだろうが、彼がいちばん目立っている)、本書は膨大な文献によって成り立っているので、その著者は後者ということになる。

また、雑誌「テレビブロス」の影響も大きいと思うが、話が長くなるので置いておく。

・その4
もうひとつは、散発的に、「笑い」に対して興味のない文化人が言う「日本の笑いは反権力的ではない」という指摘についての問題である。
この問題は、根が深い。まず、「お笑いは本当は反権力なのか」というところから始めなければならないからだ。
確かに、日本のテレビのお笑いはほとんどの場合が、弱者に対する「いじり」で成り立っている。しかし本当にそうなのか、それだけなのか、という疑問は残る。
茂木健一郎のような、お笑いに対するシロートの発言がときに効力を発揮してしまうのも、その辺に関する理論武装が、「お笑い」の側やテレビバラエティにできてないということの証左だろう。

つまり、日本のテレビバラエティに関する考察は、まだ始まったばかりなのだ。
なんだか少年マンガの最終回みたいな物言いだが、本当にそうなのである。

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