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2017年12月

【お笑い】・「ウーマン THE MANZAIでの漫才問題」

「ウーマン村本は、ツイッターなどでの発言は問題があるかもしれないが、お笑いでは実力がある」と私は発言し続けてきたのだが、THE MANZAIの「社会問題を題材とした漫才」を観て、
「」うーん、これはちょっと……」
と思いました。

村本が、「なんか、政治とか語る方向に行きたがっている」ことは、彼のやっているネット番組(未見ですが、テーマなどは知った)や、ツイートなどから明らか。
しかも、たぶん本当は、別にそんなに興味ないんですよ。
「そこに、『評価される、金になる』芽があるから」というだけのこと。
実際、「ファンをすぐ抱く、とかゲスぶって発言していたけど、それで受けるかと思ったら受けなかったからやめた」ということも言っています。

(なお、村本に「政治発言に関わるのは仕事としてアリ」と思わせているのは、ワイドナショーのダウンタウン松本であることはほぼ間違いがなく、松本の罪も重い。)

ただし、村本がテレビの「自主規制的な雰囲気」を意識して、「テレビでやる漫才ってこんなものだろう」と思っている視聴者の「忖度」を裏切ろうとしてあの漫才をつくったのならば、それだけは評価してやってもいいとは思っています。
これも一種の(笑いを生み出そうとする)「裏切り」ですからね。

でも、それだけのことです。
この漫才が評価されるなんて、正直、視聴者チョロすぎるでしょう。
この手のものが流行ったら、村本を増長させるだけで、彼以外にはいいことは何もありません。

ラサール石井が、ツイッターであの漫才について「中川パラダイスのアシストがすばらしい」とか書いていたけど、
私には往年の「うなずきトリオ」の何百倍もの「漫才ロボット」としての悲しみしか感じませんでしたけどね。

あの漫才は、「漫才」としてはただ「床屋政談」を言っているだけで評価できないし、「コメント」としても、やはり「床屋政談」だから、評価できません。
「賛否両論あっていい」みたいな意見もありますが、あれが賛否両論になること自体、日本の知性はどうなってしまったのか、と震撼します。

村本は(松本人志にも同じにおいを感じますが)、「知性」とか「知識」に関するリスペクトが、根本的に欠けているのも気に食わないですね。
知性、知識にリスペクトはないけど、どこか追い落としてやろう、と虎視眈々としている感じです。
芸人なんだから、「偉そうな政治家や文化人や大学教授なんかくそくらえ!」と思っているならそれでぜんぜんいいと思いますが、テレビで彼らを笑いものにするということと、彼らの言っていることに妥当性があるかないか、ということは、まったく別問題ですから。

それと、村本はツイッター上でゲイの人に対し、「被害者ぶるな」みたいなことを言っていたと記憶しますが、そういう彼の「被差別者だって別の局面で差別しているだろう」という、中学生みたいな意見が、彼の知名度によって拡散されることに私は危機感を覚えます。ま、そう言われればそうなんでしょうけど、そうならないようにがんばろう、ってのが「差別問題を解消する」という姿勢の出発点なんじゃないんですか?
もちろん、そこには「まあTPOで、これくらいのことは言ってもいいだろう」という「許容範囲」や、「人間の心の中の差別意識を完全に消すことはできないから、表面上だけでもそういう態度を取りましょう」(「礼節」ということです)、という考えが付随してくるわけですが。

「被差別者だって別の局面で差別しているだろう!」(それはそれで真実にしろ、そういう意識を織り込まない反差別運動があるとは思えない)という、低レベルなことを指摘して「言ってやった」と思っているであろう村本がつくった漫才に対し、「よくぞ言った! 彼はマスコミの怠慢や自己保身に対する反逆者だ!」と評価している人がいるとすれば、せめて村本のふだんの発言くらい、ググっておけよ、って思いますね。

漫才はプロパガンダではなく、表現ですから。そのことを知らない人たちは、恥じてほしいです。

かつて、小林よしのりのゴーマニズム宣言に対し、外山恒一だったか、
「あれは『俗情との結託』ではない、『俗情』そのものだ」
と言っていましたが、
ウーマンラッシュアワーのTHE MANZAIでの漫才にも、まったく同じことが言えます。
しかも、かなり知的レベルが高いと思われている人の中にも(いや、「だからこそ」なのか?)、あの漫才を評価していると知って、暗澹たる気持ちになりました。

たとえば、保毛尾田の出演が不適切ということであれば、きちんと外部から批判が来るし、擁護する側もいましたが、それほど低レベルな議論にはなっていませんでした。

しかし「だれもが、まあまあ首肯できることを漫才で言う」となると、(精査すれば間違っているかもしれないが、あくまでもパッと聞いた限りでは「まともだな」と思える発言を漫才でやるとすると)だれも反論できないし、批判すればするほど、する側が言論弾圧している、みたいな構図になってしまいます。

こういう「漫才における」村本の態度が、正しい意味での「反知性主義」というのではないか、と、(もちろん批判的な意味で)なんとなく思えてもきます。

町山さんも村本と仲良くなったみたいで立場上、批判できないのかもしれないし、漫才のことがよくわかっていないのかもしれませんが、あの漫才を評価しているとしたらヤバいと思いますね。

それこそ、オリラジの中田あたりが「知性」の立場からビシッと言ってやらないものか。
中田の方が後輩だから、無理かなあ。

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【騒音】・「園児の声問題」

「保育園の騒音」訴えた近隣住民が敗訴確定

このケースの具体的なことは知らないし、「子供は社会が育てるもの」、「子育てを地域で優先させること」という意見には賛成である。
しかし、老人の問題が関わってくること、そう簡単にはいかない面もある(ニュースの男性は「老人」ではないようだが)。

今は、両親が子供夫婦と同居することが減り、別居して暮らすケースも多い。
大金持ちなら、近くに保育園ができてもまた引っ越せばいいだけだが、息子夫婦と同居したがらない老夫婦は「終の棲家」として、なけなしの金を払って、家を借りたり買ったりして、なじみでもない土地に引っ越してくる。

その後に、「すぐそばに保育園ができます」ということになると、昔から知っている人の子供というわけでもなく、「静かに過ごしたい」という理由で選んだ場所だったりしたら、「はいそうですか」と引き下がらない人がいても不思議ではない。

なにしろ、一度買った土地や家から、金銭的に引っ越すこともできないからだ(裁判にも金がかかるらしいので、訴訟まで行くかどうかは知らないが)。
となると、「子供は宝、特別」ということで、「老人」の生活がおびやかされることになる。
これは、なかなかに難問だと思う。老人の生活だって、特別なものにしてあげたいではないですか(老人に対し「なぜ他人の子供をかわいいと思えないのか?」という糾弾は、あまりに残酷すぎやしませんか)。

これは実は「騒音」の問題ではないんですよ。だからリンク先で「保育園の子供に地域の人々への挨拶をしつければ、問題はある程度解決するのでは」という意見があるが、ありうることと思う。
「顔」が見えていれば腹が立たない、ということは、ある。
要は、地域社会の問題なんです。

以前、住宅街に、お葬式前の遺体を安置する施設ができて、住民から大反対の声が起こったというのをテレビで見た。
遺体は、騒ぐどころかひと言もしゃべらない。
それでも、抗議があるところは、ある。

しかも、「地域の結びつき」がなくなったのは昨日今日ではない。みんなが望んだことだ。
それは「金曜日の妻たちへ」などの80年代のドラマを見てみれば、すぐにわかる。
実は「恋愛至上主義」とも関わってくることなのだが、そこは割愛する。
(恋愛至上主義というのは、個人主義の一側面、という部分がある)

簡単に言えば「個人主義」の、立場が変わった者同士でのコンフリクトが起こっているということ。

だから、あまりに他人事で「訴えること自体信じられない」と言っている人も、私には信じられない。

私の家の近所には、私自身が卒業した小学校と中学校があるが(家の前が通学路)、中学生のうるささについては中学校に抗議したことがある。
うるささから言えば、小学生より中学生の方が何倍もうるさいんですよ。

いろいろな理由で、ほぼ一日中家にいるのだが、家にこもっている人が外をいかにうるさく思っているかは、理解されないことが多いんだよな。

思いやりで物事がうまくいけば、そんなにいいことはないが、現実にはそんなに簡単には行かない。

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【創作小説】・「超巨人 ライトニング・ギガント」

「超巨人 ライトニング・ギガント」
十年に一度、日本の都心部に飛来し、暴れまわる巨大生物「邪壊獣」を倒すため、「水晶の国」からやってきた「ライトニング・ギガント」と合体し、戦う雄須田ユウジも今年は五十歳。ミドル・エイジ・クライシスというもうひとつの敵を相手に、果たして彼は「邪壊獣」を退けられるのか!? 悩める中高年アクション。
まあ、私の自己満足です。ただあまりに読まれなくてもさびしいので、本当は読んでほしい。でもけなされたくない(笑)。まあ、アマチュア小説書きの人たちは大半がそう思っているでしょうけど。

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【お笑い】・「ジャルジャル問題」

【M-1】映画「火花」を見て、ジャルジャル福徳の涙に思うこと(ナガの映画の果てまで)

上記のブログのエントリ、ツイッターなどで評判が良いので読んでみたが、私は少々異論があるのでその点について書きます(全体通して、大きな違和感があるわけではないのですが)。

(引用開始)
 (ジャルジャルの)直前に登場し、上沼恵美子に酷評されたことで話題になっている「マヂカルラブリー」がやったのは漫才かどうか怪しいラインのネタでした。2人の会話のかけあいを基調とする漫才というシステムからはあまりにもかけ離れていました。だからこその低評価だったとは思います。
(引用終わり)

 いやああいう漫才、昔からありますよ。根本的に上記の引用部分で疑問なのは、M-1出場者は準決勝までに数度の審査を経ているわけです。本番のM-1の前にね。ということは、数度の審査の中で、決勝までの審査員が「漫才というシステムからかけ離れているネタだけど、まあ受からせちゃおう」というような話があったのか、なかったのか? 決勝にあげても低評価だろうと、準決勝までの審査員が思って受からせているのか? ということです。
そんなことはないでしょう。
準決勝までの審査員と、決勝の審査員の好みが著しく異なる、ということも考えられますが(R-1ぐらんぷりなどは、「そういう感じ」をすごく感じるときがある)、そこは微妙なところだと思います。

私が今回のM-1の「マヂカルラブリー」を見て連想したのは、2006年に決勝に出た「変ホ長調」です。言うなれば飛び道具、ひっかきまわし役だったのではないかということです。
(この間のキングオブコントにおける、「にゃんこスター」の役割です。)

で、「変ホ長調」もそれほどハネなかった。松本も、どこか「特別枠」みたいな、悪く言えば「みそっかす」みたいな扱いをしていた。
M-1では、こういう「ひっかきまわし役」が毎年出ているわけでもないとは思いますが、飛び道具的な漫才は、審査員に受けが悪いですね。
それは今回の「ジャルジャル」の順位にもつながっていると思います。

今回の「ジャルジャル」のネタは、コントでやっていた「おばさんを、学生が『おばはん、おばはん!』と展開もなくずっと言い続ける、というネタや、擬音をゲームのように言い合う、というネタに似ていると感じました。
そして、それらの方は実は「コント」としては「普通に成立している」んです。
「普通」というのとはちょっと違いますが、「先進性がある」というのとは違っていた。

だから、今回のジャルジャルの漫才が新しいとしたら、問われるのは、
「コントでまあまあ普通に(それでもとがったネタですが)成立していたネタが、なぜ漫才だと斬新なのか?」ということではないかと思います。

私もジャルジャルが努力家だということは否定しませんが、私個人としては、「バカルディがさまぁ~ずになり、海砂利水魚がくりいむしちゅ~になって捨てて来たこと、ポップ化への道を歩んだことを、ずっと拒み続けている」というふうにしか見えないんですよね。
もちろん、「同じようにしろ」とは言いませんが、最初から「とがっている」ということで、いばらの道を歩んでいるのだから、それはこういう結果だろう」というふうに、観えてしまうんです。

繰り返しますが、ジャルジャルが努力家で、芸人として真剣にいろいろなことに取り組んでいることは認めます。

ただ個人的には、リンク先の文章はあまりにウェットすぎて、ちょっと納得できませんでした。
で、これはM-1そのものにまつわる「あまりにも真剣すぎる」という、番組の特性から来ているのだとも思いますけどね。

だとすれば、なぜM-1のファンは、リラックスして笑うものである「漫才」を、過剰なまでに真剣に観てしまうのか」という疑問が持ち上がってくるのですが、それはいつかまた。

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【社会全般】・「生の果ての死をつくることは罪か」

ある人の「子供をつくることは人間のエゴにすぎず、生の果ての死を確実につくり出すという点において、戦争とそう変わりない」(大意)という意見が、本気にしろ、たとえ冗談にしろ、ショックすぎて倒れてしまった。
人類がいない方が地球に優しいから、いいのだという。

「子供をつくるのは親のエゴであり、それ以上のことはない」というのは、近代的で個人主義的な考え方だろう。個人主義を徹底すると、そうなるのかもしれない。
(通常は、子供をつくり、育てるときに「まったくの自分のエゴ」と考える人間はそうはいないだろう。いい悪いは別にして「親に孫の顔を見せたい」という常套句もあるし、「人類や日本人の次世代にバトンを渡す」という意識が、少なからずあるはず。あるいは、前に書いたが「日本人的な輪廻観」が無意識的にもあると自分は考える。何より、生まれてくる子供への責任がある)。

この「子づくりは戦争と同等に罪深い」という考えが衝撃的なのは、「ミーム」の伝播をも否定していることだ。
だって、子孫がいなければ伝えるミームを受け取る人間がいなくなるわけだから。

「自分は子供はつくらない」という人も、「ミーム」の永遠性を信じている人は多いと思う。私も無意識に信じているところがある。
が、それすらも否定するというのは恐ろしい話である。

この人はアーティストなので(どんな作品をつくっているのかは知らない)、多少、極端にものを言っているのかもしれないが、「徹底した近代、ポスト近代」にみえる、たとえば、社会主義国家が独裁化したり、超管理社会になったり、戦争を引き起こしたりするグロテスクさと、同じものを感じる。

(余談だが、イスラム過激派の「残酷さ」とは正反対に位置する考えだと思う。あちらは前近代的社会を近代社会に対抗させて復活させる、という大義名分で、たぶんやっているので。広義の「イスラム社会」の存続を前提にしないと、自爆テロだってやる気が起こらないだろう。つまり「自分は死んでも自分の愛する社会は続く」という考え方がないと。)

ぜんぶがそうではないと信じたいが、このような、フェミに対して多少はまともだと思える発言をしている人が、とんでもないことを言っているのをみると、「結局は言葉遊びかよ」と思わざるを得ない。

話は飛ぶが、私がとりたてて信奉しているわけではないがツイートを観ている哲学者がいる。
彼は、60年代の赤軍や連合赤軍のテロリズムを、共産主義革命の一端とは観ず、「戦争はなんだかんだ言って、不可避的に起こるものだ」という前提を認めたうえでの、太平洋戦争の「再戦」なのだとする特殊な見方をしている。
この考えに妥当性があるかどうかはともかく、感覚としては理解できる。というのは、この見解にはおそらく根底に「戦争で拳銃バンバン撃ち合って、大義の中で死んでいきたい」というカタルシスがあるからだ。
こういうのは幼児的な妄想にすぎないかもしれないが、勧善懲悪のバトルもののフィクションは結局は「そんなカタルシス」を追体験しているのだから、まったくトンチンカンというわけでもない。
最低限に見積もっても、夢想して酒の肴にするくらいの価値はある。

しかし、「子づくりは戦争と同等の罪」という考えはどうだろう。そこにはカタルシスもないし、ダイナミズムがない。ただただ静かな「無」が広がっているだけである。
フェミニズムにかぎらず、思想や哲学が何年くらいの「鮮度」を保つべきかはいろいろな考えがあるだろうが、もしも「子づくりは戦争と同じで罪だからやるべきではない」という意見が浸透したら、一世紀くらいで人類は滅亡してしまうかもしれない。
しかし、私がこうした考え方にショックを受けたのはヒューマニズムからではない。フェミニズムという「社会改革」と、「(子づくりをしないことによって結果的に)社会そのものを機能不全にしてやがて壊滅させる」という考え方がまったく矛盾しており、そこにカタルシスも崇高な大義を(勘違いだとしても)担うという喜びもないからだ。
まったく何もないからである。

別に刹那的に生きるのが悪いとは思わないが、だとしたら理屈などこねていても仕方なくはないか。
そうした「矛盾」を感じて、「こんな頭のおかしい理屈を知ったのは初めてだ」という感覚がある。このことについて考えていると頭がおかしくなる。当然だ、矛盾しているのだから。

こういう「混乱」を目の当たりにすると、言いたくはないが「やっぱりフェミニズムって、近代から生まれたから、近代そのものの矛盾はつけないのだな」と思い、絶望してしまう。

なお「人類がいない方が地球に優しい」という考えが私は個人的に嫌いで、理由は「人類がいなくなった地球を、いったいだれが『汚されなくてよかったね』と評価するのか?」という矛盾があるからである。

個人的には「地球」の「状態」を「評価」するのは人類しかいない。
人類がいない状態を想定して、地球がきれいだの汚いだの論じても、何の意味もない。
(この辺は、ごくたまにSFマンガなどにも出てくるテーマではある。)

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