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【社会全般】・「日野皓正の体罰問題」

「童貞。をプロデュース」の舞台挨拶問題とともに、こちらもPC(ポリティカル・コレクトネス)問題として、取り上げられるケースが多いだろう。
しかし体罰そのものに関しては、私が子供の頃からさまざまな局面で問題視されており、当然ながら別に今、始まった問題でも何でもない。
ではどのように体罰に対するとらえ方が変わったのか、駄文を書き連ねたい。

ネット上でPC的に燃えやすい状況として、性表現、セクハラ、体罰、暴力がある。あえて厳密に区分しないが、「性と暴力」の問題が多い。
国籍差別、人種差別などの問題はあるが、これらは議論がワンパターンで、永遠に平行線なので、この場では除外する。

性と暴力。どちらも「平穏な社会システム」の埒外のものであり、それだけに問題が起こりやすく、それだけにPCという「基準」が出て来たと言える。
しかしこれらは今に始まったことではなく、1968年以降の動きだという説がある。私もこの説を取っている。

当然ながら、過去のこうした諸問題の方が、「まあいいじゃないか」とか「そこまで騒がなくても」という人の方が多く、中には「どこが悪いのかわからない」とか「騒ぎ過ぎでは?」というような感じで処理された事件も多い。
現代に近づくほど、セックスにしろ暴力にしろ、少なくとも表現の部分ではゾーニングもきっちりなされるようになった。

たとえば「あぶない刑事」を再放送でぼんやり見ていたのだが、毎回銃撃戦で決着がつくことに軽い驚きを覚えた。
もちろん、「あぶない刑事」が人気の頃にはごく当たり前の光景であり、なおかつ「あぶない刑事」における銃撃戦や暴力シーンは、やや記号的な側面があった。要するにリアルではなかったから、当時も問題視した人は少なかったのではないだろうか。
しかし、現在の刑事ドラマであれほどの激しい銃撃戦が描かれることはまれである。もしかしたら、何らかの別の理由(屋外での銃撃戦シーンが激しく法規制されるなど)のことがあったのかもしれないが、それにしても、テレビから暴力描写が減ったことは確かである。

エッチなシーンも、同じようにテレビの地上波からは消えた。

まあ、こんなことは戦後ずっと、繰り返されていると言われればそれまでである。
しかし、最近のこうした「いかがなものか」な意見が特徴的なのは、まああくまで私の印象でしかないのだが、
「ぜったいに叩きのめして消滅させないと気が済まない」
という、批判者の気概ではないだろうか。

で、こうした激しい気概には理由があると思っている。

というのは、たとえば左翼が左翼的観点からセックス描写や暴力を否定する場合、それは「まだ実現していない、あるいは実現しても各国で維持に四苦八苦している革命政権」を拠り所にしていたということだ。
まだ観ぬ世界の価値基準をもとにしているから、土台もそれほどしっかりしていない。
単純なところでは、50年代くらいまで否定的にとらえられていた流行歌や、いわゆるサブカルなどが「まだ観ぬ革命後の世界を志向している」ということで評価されるようになった、というような価値基準の変化のことだ。

これに対し、いわゆる「リベラル」は、劇的な社会改革はおそらく求めていない。現状を少しずつ改革していくという考えだろう。
この立場に立つと、現状起こっている「問題」は、絶対に是正されなければならない。
何かのはずみで革命が起こり、世の中がひっくり返ることは期待していないのだから、今、正しておかなければいけないことは正しておかないと、リベラルにとっては、永遠にもとのままなのだ。

だから現在のPC的立場では「スルーする」、「お目こぼしする」ということができない。
「お目こぼし」自体が、無限の後退への第一歩だからだ。

たとえば日野皓正を中学生ジャズバンドの「校長」として採用することは、彼が一度でも体罰を行ったら、リベラルにとってはまったくのゼロとなる。
おそらく、「日野皓正を区の関わるジャズバンドの校長にすること」には総合的なメリットデメリットがあるだろうが、それよりも何よりも、殴られた少年やその親の方が大事(おおごと)にしたくなくても、リベラルにとってはアウトはアウトとなる。
それ以外の判断はできない。

これが共産主義革命を目指す左翼が「来たるべき世界(革命政権)の到来こそが第一義にある」と考えるのなら、いいか悪いかは別として「まあ、日野の一件くらいはいいんじゃね?」ということもあるかもしれないし、逆に戸塚ヨットスクールを「戦後社会が積み残してきた何かを担っている」と評価もできる(個人的にはそのような立場は取らないが、実際にそのような言説も80年代にはあった。それも、どちらかと言えば左翼の立場からである)。

そもそも、「革命」にとって暴力は暴力そのものとして「必要」になってくる可能性もあるし(どっちみちいつかは革命戦争をしなければならない)、セックスにしても、「既存社会が隠蔽していること」自体を罪悪として、「セックスしたっていいじゃないか!」みたいな論調がずっと続いていたのだ。

セックスに関して言えば、左翼の「革命志向」の中に、男女観の差別が隠蔽されていると考えたのがたぶん上野千鶴子あたりのフェミニズムだろう。
そこから、性に関しては、左翼方面でも単純に「セックスばんざい」とは言いきれない状況が出てきて、現在に連なっている。

暴力の方も、実は革命のために(あるいは右翼的立場から言えば、いつか来るかもしれない他国との戦争のために)「温存」されてきたのだが、もうそんな物言いが世迷言だと判定されてしまえば、すべての暴力は否定さるべきものとなるから、当然、日野の行為もリベラルの立場からすれば全否定となる。

さらに言えば「日野氏とビンタされた生徒だけにわかる関係性がある」という意見も、リベラルには通用しない。
なぜなら、それは対外的には「容認さるべき関係」なのか「そうではない」のかの判別が、不可能だからである。
これは恋人間、夫婦間のDVやモラハラ、
親子間の虐待の問題にも通じる。
「個人の関係性の中には、特別なものがあるのだろう」と、いったん「公的」に認めてしまうと、公権力が個人間の暴力行為に介入できなくなってしまうのだ。
(昔は合言葉のように「民事不介入」と言っていたらしいが、それがどう変わったのかは勉強不足で知らない。)

別の言い方をすれば、セックス、暴力、その他でも「個人的なこと」をすべて白日のもとにさらさせ、その是非の判断を公のもとにさらすのが「ポリティカル・コレクトネス」と言える。

だから、日野皓正のビンタの問題にしても、体罰の是非以前に、「殴るほど愛情深い教師」や「殴られてもそれを愛情だと感じ取る生徒」というロマンチシズムを無意識的に信じ、それが否定されることに対する不快感のある人は多いだろうと思われる。

体罰反対の表明はなされるべきだが(私も体罰には反対)、体罰を容認するのは、「殴ればことがうまく、早く進む」とか「子供は大人の言うことを聞くものだ」という思考停止とは別に、ノンポリの人たちのある種のロマンチシズムにあるのかもしれないということは、体罰反対派の人たちは考えた方がいいだろう。

なお、この流れで「童貞。をプロデュース」に関して言えば、未見で本当に申し訳ないのだが、「童貞か童貞でないか」という個人に帰結する問題を、「白日の下にさらすのが面白い」というコンセプトが最初に上映された2007年頃、あったことは間違いないだろう。
(舞台挨拶で「仕掛けた」側の人のブログを読むと、彼も「童貞。をプロデュース」出演以前から、自身の童貞をテーマにした映像をつくっていたというから、少なくとも2007年以前においては、「童貞を白日の下にさらしたら面白い」という感覚は、サブカル周辺においては普遍的にあったことなのだろう。……などととぼけなくても、心当たりはいくつか思い当たる。)

「童貞かそうでないか」の場合は、「童貞を卒業するイコール恋愛を体験する(もしくは大人の世界での買春を体験する)イコール大人の階段をのぼるイコール大人とは社会的な存在である」ということ、すなわち「童貞を卒業することは『大人になる』ことである」というロマンチシズムがある。
まあそんなことは、本宮ひろ志の「俺の空」の1巻を読めばわかることなのだが。

ヒマつぶしにいろいろと書いてきたが、もうひとつ書いておくべきことがある。

それは、日野氏の暴力が、すべて映像に撮られていたという点である(これは「童貞。をプロデュース」の舞台挨拶も同じである)。
これが、撮られていなければ、ここまで大事にはならなかっただろう。
(ついでに言うなら、豊田議員の「このハゲーッ!!」という暴言も録音されていたからこそ、ここまでの騒動になった。)

「映像に撮られる」ということは、PCとは直接関係のないことではあるが、「撮られているからアウトになったのだ」という意見があることも忘れてはならない(バックヤードで注意すべき、というのも、同じ範疇の意見である。「人前で叱る」ということは、かなりの重要時であるととらえる人もいる。私もそうとらえている)。

日野皓正氏は、「撮られていた」ということの重要さのみ、まったく理解していなかったのだろうと思う。

彼の体罰に賛成している人も、たとえばあの状況で、もっと体罰がエゲツなかったら自分がどう感じるか、を考えた方がいいかもしれない。
もしも日野皓正が、少年の目に指を突き入れたり、首を絞めたり、奪ったスティックで喉を突いたり、あるいはパンツをずり降ろすなどの「恥をかかせる」たぐいの体罰を行っていたとしたら?
「日野さんにかぎってそんなことをするはずがない」というのであれば、そもそも「体罰をするとは思えない日野さんが体罰を行った」ことが問題になっているのだから、どうどうめぐりで何の意味もない。

それと余談だが、私は日野氏の体罰には基本的に反対の立場だが、私に対して、体罰賛成の立場の人が文句を言ってきたのには参った。
私が体罰をしたわけでも、止めたわけでもない。文句を言うなら、もっと有名な、オピニオンリーダー的な人に言った方がいいと思う。

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