・「ブッダ」 全6巻(ワイド版) 手塚治虫(2011、潮出版)
潮出版社の少年マンガ雑誌「希望の友」(後に「少年ワールド」→「コミックトム」と改題)にて、1972年から1983年まで連載された。
仏教の開祖・ガウタマ・シッダールタ(作品内ではゴータマ・シッダルタ)の生涯を描く。
といっても流布しているもともとの「釈尊伝」などに手塚治虫のオリジナルキャラを加え、手塚自身の死生観・宇宙観を語る内容である。
今から2500年前のインド。シャカ族の王子・ゴータマ・シッダルタは、「人はなぜ死ぬのか」、「なぜ身分制度があるのか」などの疑問に悩み苦しみ、ついには妻子を捨てて僧となる。
苦しい修行を経て、彼は「ブッダ」(目覚めた人)と呼ばれるようになるが、その後もさまざまな苦しみを経て、悟りの道を開いてゆく。
アニメ化の際、コンビニコミックとして出版されたものを読む。
私は手塚にも、仏教にもくわしくないが、まあ思ったところを書きます。
その1
まず一読した感想は「宗教を扱っているのに、非常に理知的な、というか論理的な内容だな」ということ。
別の言い方をすれば、手塚自身、最後まで宗教の開祖が起こす「奇跡」の扱いに、迷っていたように思う。
ゴータマ・シッダルタ誕生前、少年時代のタッタという人物が、「自分自身の意識を特定の動物の中に入り込ませ、自由に操る」という超能力を発揮する。
普通、これは物語内で「神秘」、「奇跡」、超常的な能力が「あり」であるということのサインである。
なにしろ、物語のいちばん冒頭ですからね。
ところが、後になって登場する、大人になった「タッタ」は盗賊となるのだが、この能力が完全に失われてしまっている。これはご都合主義と言われても仕方がない。
それと気になるのが「アッサジ」の存在である。ナラダッタは、シッダルタがいわば押し付けられた子供の僧だが、ちょっと与太郎みたいな感じで何を考えているかわからない存在である。
だが実は予言の能力があり、人々の未来をピタリと当ててしまう。あげくに自分の死ぬ日まで宣言するが、そのことに対して外観からは動揺した様子はない(それを知って、シッダルタは激しく動揺する)。
彼は自分が死ぬと宣言したその日、自分の体を野生動物の餌として与えることによって死ぬ。これにシッダルタは大きな影響を受ける。
これは私も知っている、「うさぎが何も与えるものがないので自身の肉を与えた」という仏教説話をもとにしたエピソードだ。
つまり、かなり重要な部分である。
一方、アッサジはマガダ国の王ビンビサーラに、「あなたはわが子によって○年後(何年後か忘れた)、殺される」と予言する。ビンビサーラは大ショックを受け、この予言は結果的に彼と、その息子であるアジャセの人生を狂わせてしまう。
物語の序盤において、アッサジは「運命を受け入れる存在」、「他人(動物)のために自分を犠牲にできる存在」、そしてさらに、「王家の父親殺しを予言する存在」という非常に重要な役割を背負っているのである。
しかし、これらがその後、伏線としてうまく機能したかはむずかしいところである。
とくにビンビサーラ王への予言については、実は「どうにかしたら逃れられたのか」、「本当にどうにもならなかったのか」が、いまひとつよくわからない。
本当ならば、「決まった運命を受け入れる」ということが言いたいのなら、「息子が父親を殺す」ということは逃れられずとも、そこに仏教による「救い」が明確に示されないと、「予言」という超自然的な能力を出す意味がなくなる。
その2
話がアッサジのことばかりになったので、少しシッダルタに戻す。彼は、その長い修行の中でさまざまな「奇跡」を起こすが、これの「源」がなんなのか、そのつど違うのである。
当初は、彼が王家の生まれであったがゆえに、他のサモン以上の知識と教養を持っていたということが「奇跡」ととらえられた、という合理的な解釈になっている。瀕死の重傷のものを医学的知識で救ったり、などはその例だ。
ところが、物語終盤近くではブッダは「超能力」のような能力を発揮することもある。サイコキネシスまで使うのである。「聖人には超能力があったのかもしれない」という設定がここで突然出てくるのだが、ここで重要なのは、「悟りを開くことと超能力は関係あるのか、ないのか」ということだ。
タッタという人間味あふれる少年に「動物の中に意識を入り込ませる」という能力があるのはいい。しかしタッタは「悟り」とはかけ離れた人格の持ち主である。
「聖人しか超能力を持たない」という設定でも「聖人であることと超能力は関係がない」でもどちらでもいいのだが、ここには手塚の「聖人の奇跡」に関するブレが、あるように感じる。
その3
また「予言」の話に戻す。「ナラダッタの予言」が、単に「父親殺し」の伏線にすぎないのならそれでもいい。だが、ブッダは晩年になって、「教団を維持するための重要人物」として、やはり同じような予言の能力のあるサーリプッタとモッガラーナという人物二人を、教団のリーダー格にすえる。この辺になると、元ネタを参照してみないと意味がよくわからない。
同じ死でも「いつ死ぬかわからない」のと「何年後の何月何日に死ぬ」と言われるのとでは、少なくとも現代人にとってはだいぶ違う。もしかしたら、「先のことがわからない不安」と「先のことがわかっている不安」を同等のものとして扱いたかったのかもしれないとも思うが、どうもこの辺がよくわからないのである。
その後、マガダ国の「予言された」ビンビサーラとアジャセのドラマはそれなりに興味深いが、「予言がなされたこと」についてどう対処すべきか、という話はどこかへ行ってしまっている。
深読みすれば、「どうあがいても息子に殺されただろう」ということになるのだろうが、読者に受け入れられにくいと思ったのか明記はされていない。
一方、作品世界でのもうひとつの舞台である「コーサラ国」の王、パセーナディとその息子、ビドーダバの関係性も、シチュエーションは多少違うが、マガダ国と似たような「父と子の確執」になってしまっているところも気になる。
ちなみに、マガダ国の王家の父子問題(?)とコーサラ国のそれとが対比されているわけでもない。手塚が宿命的に「父と子の確執」を描き続けたという話は聞かないので、たまたまエピソードが似通ってしまったのかもしれない。
その3
そもそもシッダルタはバラモンの教えのような「生まれ変わり」から抜け出たいと思って出家したわけだし、シャカ族でも大変重要なポストにいてそれを捨てたわけで、彼自身が運命にあらがったと言える。
しかし一方で、「予言」のエピソードは「運命にはさからえない」ということを表現したかったように思える。
もっとも、現代人のインテリである手塚が描いたことを考えれば、このあたりの矛盾そのものが「現代の教養人としての手塚自身の矛盾」として考えられなくもないのだが。
さて、もうひとつ、一読して気になったことがある。これも、私は当時のインドの宗教界のことを知らないし、釈迦の生涯についても知らないことを前提に描くが、「ブッダ意外に悟った人物が何人も出てくる」ということである。
まずシッダルタが生まれる前から「動物のような暮らしをしている」というナラダッタ。ブッダは彼に出会い、「かれこそ悟った人物」と称賛する。ナラダッタは四つん這いで歩き、完全に動物のような暮らしをしていて他人に教えを説くこともない。「超・仙人」のような存在である。
それと、最初の方に書いた予言能力を持つ子供・アッサジ。彼も外部からは何を考えているかわからない。自分の死を知っていながらひょうひょうとしていて、やはり悟っているように見える。
そして、ときおり現れてはシッダルタを導こうとするブラフマン。この老人にいたっては、たぶん人間ではない。
さらに、物語終盤に出てくるサーリプッタとモッガラーナも、悟っているという感じではないがすでに何らかの悩みは超越しているようであるし、どちらも超能力の持ち主である。
何が言いたいかというと、「教えを乞う」という立場にある人は理知的で、理性的である。
本作の「ブッダ」は、ほとんど常にそのようにふるまっている。劇的に悟りを開いたわけではなく、段階的でもある。
要するに現代的な「教養人」に近い(それなのに、他人から見て「後光がさしている」のがはっきりわかったりするから、やはり手塚のブレが感じられる)。
一方で、ナラダッタ、アッサジ、ブラフマンなどは、理性的な思考では理解できないところに到達している。
つまり、ブッダにとって常に「悟っている」のは自分以外の他人であり、それを理性で理解しようとしているように描かれているところに、「「ああ、手塚治虫のマンガだな」と感じるのだ。
「日本発狂」という、別に有名でも何でもない手塚マンガのあとがきには「自分は霊界を信じないほど冷酷な人間ではない」的なことが書いてあった。
勝手な想像だが本作「ブッダ」は、評伝のかたちをとり、「火の鳥」のようにSFではないからこそ、手塚治虫の「理性と神秘のはざまで揺れ動く気持ち」が現れているように思う。
それは手塚治虫のような教養人であり、戦争(大量死)を体験した世代としてはしごくまっとうな感覚だろう。
もう少しふみこむと、水木しげるの神秘観と根っこのところはあまり変わりないのかもしれない、と思ったりもする。
最後に、個人的にはブッダが教団をつくりある程度名をなした後も、なぜか弟子になるわけでもないのにくっついていて、最後は好き勝手に「復讐」をなしとげようと戦争に参加して死んでしまったタッタの最期を、受け入れようとするブッダがグッと来る。
タッタが最終的にそのような立場になったのも作劇上の理由が大きいと思うが(最終的にみんな出家してしまうので俗人の象徴としての役割があった)、それでも本作を傑作ならしめている重要人物だと、私は考える。
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