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・「ゴリラーマン」全19巻(1988~1993年、講談社)

週刊ヤングマガジン連載。
ある日、白武(しらたけ)高校に転校してきた池戸定治という男。まったくしゃべらないこの男は、藤本修二をリーダー格とした高校の不良グループとなぜか気が合い、顔がゴリラに似ていることから「ゴリラーマン」と呼ばれ、いじられつつもなんとなくつるむようになる。

物語は藤本たち不良グループの日常を淡々と描いたり、不良ゆえに巻き込まれる日々のトラブルを、ゴリラーマンが人知れず(主に暴力で)解決したりといった出来事を描いてゆく。
通常なら藤本が主人公の「ヤンキー日常マンガ」になるところを、「ゴリラーマン」という謎の人物を配置したことで読者の視点がメタ化されるという、実に不思議な作品である。

・その1
本作はヤンキーたちが主人公で、なおかつヤンキー的な日常がメインの作品である。掲載誌から考えても、「ビーバップハイスクール」の延長線上にあると言っていいだろう。
しかし本作がいわゆる「ヤンキーマンガ」かというと、読後「ちょっと想像していたのと違う」と多くの人が思うのではないだろうか。
そしてまた、私は「この作品で、『ヤンキーマンガ』というのは一度終止符を打たれたのではないか」とさえ思っているのである。
マンガには、いくつか柱というかキモとなる作品が歴史上存在するが、私は本作はそのひとつではないかと思っているのだ。
と言いつつ、細かいエピソードは忘れてしまっているので、うろおぼえですがすいません。

・その2
重要事項のひとつは、二年のときの担任の河野と藤本たち不良グループには心の交流がまったくないということ。
河野は体育教師であり、くわしいことは忘れたが他の生徒たちにもにらみをきかせているのだろう。
何かの本で読んだが、80年代に表面上は「自由な校風」などと言っておいて、本当に秩序からはみ出すものは体育教師が目をつけて管理する、というのは当時の常とう手段だったようだ。
だからすごくリアルに感じる。
で、河野と藤本たちの関係性がとことん不快かというと、そうでもない。まあ高校なんてこんなものだよな、と思える。それがこの作者のすごいところである。

重要事項のもうひとつは、藤本がヤンキーになった原因が、野球部をやめたからだということ。
くわしいことは忘れてしまったがエース級の存在だったが、野球部を辞めざるを得なくなり、このため藤本は高校三年間、打ち込むことが何もなくなってしまった。ヤンキーものには、もっとハードな過去を持つ者がいる場合も少なくないが、本作ではそこにとどまっている(連載途中で、藤本の母親が自殺してしまうエピソードがあるそうだが、単行本未収録である)。

こうして、白武高校のヤンキーライフは、他校とのケンカなど微妙な緊張感をはらみながらも、基本的には空虚に進んでいく。「ビーバップ」と比べると、どこかに決定的に「スコーン!」と抜け落ちた何かがあり、その空虚感の中での生活がときにはギャグまじりに描かれているのだ。
最近のヤンキーマンガはモラトリアムを描くジャンルだ、とはよく言われるが、この「ゴリラーマン」に関しては、「打ち込むものがなくなった者」を主人公とした作品となっている。

・その3
重要事項の三番目は、ゴリラーマンの正体である。
私は、途中まで読んで「ゴリラーマンの正体は最後まで明らかにならないのではないか」と思っていた。
本作は、それでもじゅうぶん成立する作品である。ゴリラーマンは、白武高校の者たちにとって、まあ座敷わらしみたいな存在であってもおかしくはない。
日常を描く作風の中で、ゴリラーマンだけが極端に非常識的な存在だったから、そこは「不良たちの守り神」的な存在であってもいいと思っていたのだ。

ところが、ゴリラーマンの正体は最後に明かされた。これが当初予定したものだったかどうかは、はっきりわからない。たとえば「車椅子に乗っていた」というエピソードなどは、どこか「後になって付け足した」感じが否めない。
「実は総合格闘技をやっていた」というのも、当時流行っていたから、という理由の方が強いかもしれない。少なくとも「格闘技」の伏線は、終盤になるまでほとんど出てこなかったと思う。

で、作者が苦しまぎれに出したアイディアだったとしても、ほとんど無意識だったとしても、やはりすごいと思ったのだ。
それは父親の「根性、根性の精神主義」による格闘技道場において、ゴリラーマンの兄が死んでいる、という点である。このため、ゴリラーマンは父に不信感を抱き、家族もなんとなく信用できない状態にあった、的なことが描かれてあったはず、だ。

やはり、再考してみてもそれが用意されてあった「真相」とは思えない。連載途中から考えたのだろうと思う。
第一、ゴリラーマンの父親は終盤にしか登場しない。姉は以前から出てきていたが、コメディリリーフとしか思えない扱いだった。

・その4
ここから先は完全に私の深読み、というか自分で勝手にそう読み取っているだけなのだが、

藤本も、ゴリラーマンも、どちらもスポーツの世界から逸脱してしまっている存在だ。まあ野球の世界はそれほど理不尽には描かれていないし(ゴリラーマンの弟の、少年野球のエピソードを見よ)、ゴリラーマンの方はもっと前時代的な、梶原一騎の世界のようなシゴキで兄が死んでしまったらしいのでちょっと違うのだが。

80年代というのはそれこそ梶原一騎が失脚した時代であり、「学校」も見直されたり見直されそうになってスルーされたりした時代なのである。「反・体育会的」な野球を描こうと思ったのがあだち充の「タッチ」だし、80年代の前半から中盤に少年マンガ界で流行した「ラブコメマンガ」も、裏には反・体育会、反・学校、反・男権主義といったテーマがあったのだ。
今よりもずっと、学校から一流企業までのルートがはっきりしていただけに、そこから落ちこぼれた人間はどうするのか、が問われた時代でもあった。

「ヤンキーマンガ」は、その点を「家業を継ぐ」とか「自動車修理工になる」といった「リアル」から「レーサーになる」、「ミュージシャンになる」といった「ファンタジー」まで織り交ぜて「ごまかしてきた」のが正直なところなのだが、それでもやはり、「ゴリラーマンの世界では(兄の死によって)根性主義は死んでいるのだな」というふうに、私は解釈したのだ。

・その5
だから、「ゴリラーマンには『家族』がいるのだろう」というのは姉と弟の存在で示唆されていたが、それはおそらく「兄の死」によって、壊れかけた家族なのだろう。だからこそ、ゴリラーマンはなんとなく孤独なのだろう(むろん、馬鹿正直に生きたら世間と衝突する、というのも大きな理由だが)。

なんだかそこに、とてもグッと来てしまったのである。

逆に言えば、本当の「家族」が壊れかけているからこそ、藤本たちヤンキー同士の絆が大切に見えてくる。
もっとも、終盤の「堂上商業(ドノショー)」との戦いにおいて、藤本たちは、殴り合いのケンカをした果てにお互いを認め合い友人になっているが、そのずっと前、藤本は、「殴り合いのケンカをして仲直りしたことがある友人は一人だけ」と語っている。

つまり、「堂上商業」との抗争の一種のハッピーエンドは幕引きのため便宜上、そうした可能性も高い。作者が「家族」とか「仲間」を、「帰るべき絶対的なところ」と考えているかどうかは、疑わしいのだ。

それでも、過去のいろんなものが壊れてしまっても、生きていくほかない……それが熱血ではなく、実にクールに描かれているのが本作のヤンキーマンガとしての特徴なのだ。

ここまで描けるなら、もう同じテーマで中途半端な作品はいらない。
だからこそ、私は本作は日本のマンガ史上、キモのような作品だと思っているのである。

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