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【雑記】・「死闘! おたくVSサブカル 第5487万回」

「おたくVSサブカルという対立はなかった」という意見がまたぞろ流れてきたので、またぞろ私見を描こうと思います。
ただし、現ツイッター上でのだれが何をどう主張しているかというようなことは、よくは知りません。
ほんの概略だけをつまんで、私見を書くというだけの話です。
ちなみに世代が重要になってくるので、私は1967年生まれである、ということは書いておきます。

・その1
まず、「サブカル軍」と「オタク軍」が存在し、お互いににらみあっていたような図式は、いつの時代にもなかったでしょう。
ここははっきりさせておきたいと思います。

次に、1983年に中森明夫が「おたく」について書く以前にどうだったかも、私の世代としてよくわかりませんが、日本でサブカルチャーが隆盛してきた時期、1967~1983年の間に、サブカル内で何か激しい対立があったという話も聞きません。

また、オタク第一世代の人には「そんな対立はなかったよ」という感覚が多いようです。これは世代の差なのかもしれません。以下がその例です。

竹熊先生の意見。
中森明夫「おたくの研究」をめぐって(1)(たけくまメモ)

当事者の同時代的な印象なので、反論のしようがありません。
しかし、これが1983年以降になると、やはり違ってきていたと思います。

これは当時私が中高生だったからかもしれません。大学生くらいだったら、もう少しさばけていたかも。

・その2
1978~1980年頃、サブカルチャーは当時、小中学生だった私の目の前が開けてくるように感じられる、まぶしいものでした。すべてが光り輝いていたと言っていい。
その理由については、書くと長くなるので省きます。

ところが、だんだんと「自分が好きなものは世界一カッコいいはずなのに、どうやらそれが友人周りでは小馬鹿にされている」と気づいてくるわけです。

そして、その意味がわからない。いや実はわかるけど、わからないということになってくる。

ここで「そうやっておまえを小馬鹿にしていたのもサブカルじゃないか、つまりサブカルがサブカルを叩いていただけだ」と言う人が出てくると思いますが、それが正しいかどうかです。

どうせ、私が「なんだかバカにされているな」と思った80年代中盤の数年後には、「宮崎事件」で「おたく」はバカにされたりキモがられたりするのだから、「外的な評価」としては、バカにしてくるのが「サブカル好き」だろうが「一般人」だろうが、おたくにとってはたいして変わらないんですよ。

で、そういう個人的な体験が、果たしてただの個人的な体験かどうかというのが問題です。
私はやっぱり、「対立」というほどではなかったにしても、「かっこいいサブカルキッズ」は、おたくを小馬鹿にしていたと思いますよ。
80年代中盤以降はね(70年代後半は私は小学生だったので、細かいことは知りません)。

・その3
「かつての狭義のサブカルは、今の『意識高い系』みたいなもの」という意見も読みましたが、そういう現代へのあてはめが、どこまで意味があるのかは、疑問です。

別の話をします。
何度も書いてますがざっくり言ってサブカルチャーは「新左翼的思想」と根強く結びついてました(私はそうじゃなかったぞ、という人もいるかもしれませんが、時代の雰囲気全体がそうでしたから)。

それは73年のあさま山荘事件から、だんだんと分断されていくんですが、それでも大塚英志の本なんかを読むと、屈折したり姿を変えたりしながら、80年代中盤くらいまではサブカルチャーというのは思想的背景に新左翼的思想を持っていた。

これがほぼ分離してしまう(私見です)のが80年代中盤からで、個人的にはこの頃から「サブカルチャー」は形骸化した(あるいはカッコいい、カッコ悪いだけが基準の)「サブカル」となり、オタクと分離した)と考えています。
あるいは、オタクの「サブカルっぽさ」……この場合の「サブカルっぽさ」というのは、「現実にコミットしたいのにできない、あるいは無理やりコミットしようとするような態度」だと思ってください。
そもそも、「社会思想」が、現実を把握するためのものである以上、それを背景に持つ「サブカル」は、何がなんでも現実とコミットする必要があったわけです。

私ももうジジイみたいになってきちゃって、何回書いたか忘れちゃいましたが、「好きなものを好きなように追及する」「オタク」は、別に思想的背景がなんだっていいし、なくってもいい。

ドラマ「アオイホノオ」だったか、学生時代の庵野監督がゴジラの模型の口を観て「いついつのゴジラだな」ってつぶやく、あれがすべて。

むろん、何か政治的主張があった人もいたでしょうけど、それはおたくであることの絶対条件ではない。

・その4
別の角度から観ると、80年代の大塚英志が「毎度おなじみ全共闘批判」と題して、全共闘を批判し続けてきたのは、「おたく」の立場から、「全共闘と基本的に地続きであるサブカル」を撃っていたとも考えられます。

実は理由はいまだによくわからないのですが、80年代初頭の「サブカルな空気」を知っている大塚英志が、80年代後期にはちょこちょこ、「サブカル批判」をやっているのですが、この辺も再検討の必要がありそうです。

で、80年代初頭くらいまでにサブカルチャーに内包されていた「新左翼的思想」をさらに深化・発展させようとしたのが大塚英志だったんだと思いますが、それが結果的に思いどおりにならなかったので、「現代(80年代)は不毛だ」とか、そんないらだちや自嘲みたいなことばっかり書くようになる。

そして、サブカルは80年代後半にはもう単に「カッコいい、カッコ悪い、いや逆にカッコいい」みたいなセンス合戦のようになってしまう(もちろん、個々にはちゃんとした人はいますよ。根本敬とかね)。

そしてチクチクチクチク、おたくを小馬鹿にするようになる(笑)。

こういう図式だったら、立派にありました。80年代中盤以降は。

ただ、90年代以前に「対立」とか「激突」したことはない。そもそも「おたく」ってのは好きなことができてさえいればよかったはずだし。

そんな中、大塚英志だけは文章でサブカルに対して(おおっぴらに)文句を言っていた。結果、この私のテキスト、大塚英志の話ばかりになりましたけど(笑)、彼は民俗学界隈では「民俗学用語を軽々しく、間違って使って広めた野郎」ということになっていてたいへん評判が悪いですし、確かに「少女民俗学」なんて調子コキすぎなトンデモ本も出していましたが、彼の80年代後半以降のオタク、サブカルをめぐる問題意識は、今でも意味があると思っています。

彼が岡田としおと決別したのは、岡田としおが、大塚英志が捨ててはならないと思っていたおたくの中の「何らかのマイナスの要素」を捨て去ろうとしたからです。だから、大塚にとってたぶん岡田としおは「サブカル」なはずです。

いえ、これは詭弁じゃないです。前にも書いたけど、「対立」はなかったかもしれないけど「おたくとサブカル」の区別は80年代中期にはある程度、ついていた。

これが「対立」に至らなかったのは、ある程度棲み分けができていたからでしょう。
だから併存していた、というだけです。

「本来対立のなかったサブカルコミュニティに、おたくVSサブカルという対立を持ち込んだのはオタクアミーゴスだ」という意見も読みましたが、80年代後半の「宮崎事件」をも無視した、あまりに聞き捨てならないものいいです。
(宮崎事件が「かっこいいサブカル」と「かっこ悪いおたく」を結果的に分けることになった要素は、強いと私は思っています。)

・その5
そもそも、95年以降の岡田としおの「オタク活動」は、「おたくのイメージをよくしよう」というのが大目的ですから、もともとイメージがそんなに悪くなかった「サブカル」と衝突するのは当然でしょう。
しかも、それまで「対立」どころではない、ずっとチクチクチクチクやられてきましたからね。
これは私の実感としてそう思います。

たとえば、マンガの中で、クラスのいじめられっ子がアニメが好き、という設定だったりすることがです。
具体例が思い浮かぶのは岡崎京子「リバーズ・エッジ」で、登場人物の姉が、同人BL作家という設定です。しかもいつも暗い顔をしているような設定になってました。
岡崎京子は、作品テーマのために、たいした情報もなくステロタイプな「暗い人」として書いたのでしょうが、私はこういうことは、執念深く覚えていますので(笑)。

さて、岡田としおが持ち出してきた別の対立項を見れば、彼が「おたくVSサブカル」という図式を「無」から対立を生みだしたわけではないことはわかります。

それは、彼が90年代当時、ヒップホップをディスっていたことです。

確かに、おたくとヒップホップは対立していたわけではありません。

しかし、それに「近い」ことはじゅうぶんすぎるくらいあった。

だから「もともとなかったおたくとヒップホップに対立を持ち込んだのは岡田としおだ」と断言できるかというと、ちょっとあやしいのです。

激しい対立はなかったが、そのレベルの「対立」はあった、というのが私の説です。
主に80年代中盤以降ね。強調しておきますけど。

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