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【書籍】・「なぜ公立高校はダメになったのか 教育崩壊の真実」 小川洋(2000、亜紀書房)

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本書刊行の2000年当時の、高校入試を中心とした教育問題について論じた本。
学生時代の思い出はいろんな人が語るが、その所属する「学校」そのものが、人為的システムであることにはなかなか気づけない。
本書では2000年当時、なぜ公立高校の学力が低下し、私立高校が進学校として存在感を出してきたのかについて、戦後間もない頃、首都圏に「集団就職」でやってきた地方の人たちが都市に定住し始めた頃から調べ、考察している。

タイトルからは、とうに学校を卒業してしまった者、学校に通う子供のいない者にはあまり関係のない内容のように思えるが、実はとんでもない話である。
本書は通俗的な教育指南書が語らない、秘密の部分を暴くような刺激的な内容である。

・その1 本書の内容について
本書ではまず、都市圏の高校の問題点に関し、ざっくり言って「戦後から続く、格差社会」が原因であると説いている。「格差社会」という言葉はひとことも出てこないが、現在わかりやすく説明すると、そうなる。
収入格差は、親の子供の教育に対する考え方に違いをもたらすため、それぞれの階層の親の教育方針の違いが、学校現場での混乱を招いている、というような主張である。
これは2000年当時は画期的な論考だったと思う。

それをふまえたうえで、筆者は「15歳で、高校入試によって子供を選別すること」そのものに疑問を呈する。理由は、18歳くらいまでの学力がないと、ロクな仕事につけないのに、中学卒業の段階で選別してしまう(学習が選別のためだけのものと認識してしまう)と、大学進学の意志のないものは学習意欲がくじかれてしまうということ。
「勉強のできないやつは勝手におちこぼれればいいじゃないか」と思う人もいるかもしれないが、そういう人が国内に増えると、国力そのものが低下してしまう。
つまり、教育問題は、国力の問題であり、そのためにもいわゆる「勉強が苦手な子」にも一定水準の学力を与えなければならないということなのだ。
そしてそのことは、「落とすための試験」によって人を選別する競争システム(受験戦争)とは最終的に相いれないことになる。そこをどうするかというのが、本書では提言されている。

・その2 私が勝手に思ったこと
本書を読んでうならされるのは、「個性尊重教育批判」のカウンターのカウンターである、ということである。

巷の教育論は、「青春ドラマみたいな教師」、「金八先生のような教師」を理想とする、言い方は悪いが「お花畑な学校教育論」に対する潜在的な反発から出発している、と私はみている。

そして実はその根底にあるのは、60~70年代に吹き荒れた「反体制的ムード」に対する、人々の根強い反発である。
まず特定の人々の中には「かつてあった、秩序だった厳しくも理想的な学校」というのが心の中に存在し、それを瓦解させたのが60~70年代の反体制的ムードだった、と多くの人が考えているフシがある。

よく言われることとして、「教育は本来動物である人間を社会的な人間にするところ(だから多少厳しくても問題にすべきではない)」というのと、「本当の個性は伸ばさなくても自然に出てくるものだ」というのがある。
このふたつは、かつての「反体制的ムード」に対する嫌悪感が根底にあり、「個性尊重教育」に対するカウンターとして、よく保守派の知識人から出てくる。

これらの文言は、完全に間違っているというわけではない。しかし、「いったいどの程度の厳しさなら許されるのか?」ということがまったく不問になっているところに特徴がある。
よい言い方をすれば「本質論」なのだが、悪い言い方をすれば、ざっくりしすぎていて、「現状をがまんする」ときのお題目くらいの意味しか持たないだろう。

本書では「15歳で人を選別する意味があるのか、あるとしたらどんな方法がベストなのか?」といったことに具体的に切り込んでいるところがすごいのである。

前から感じていたことだが、教育論というのはミクロとマクロがある。ミクロの、「閉じた系」では、一定の「育つべき人材」が育ちさえすれば、どんなにおちこぼれが出てもかまわない。「学ぶ側」がイヤなら、やめてくれればいいだけである。
ところが「閉じた系」からはみ出した人間は、結局マクロ視点でだれかが(要するに国が)面倒を観なければならなくなる。
「閉じた系」で教育が問題となるのは、「必要な人材が必要なだけ育たなくなる」ときだけで、その理由は外的なものだ。
「閉じた系」の教育システムは、競争原理が安定しているときには何も問題にされないし、個人の力ではどうすることもできない。
ある大御所落語家(故人)が、「自分が先輩からいじめられたなら、後輩をまたいじめてやればいい」と平気な顔して言っていたのもそういうところから来ている。おそらく彼のところには入門者が殺到しただろうから、いじめでいやになったらやめてもらってかまわないのである。
(彼が落語家の育成そのものに、改革を行ったらしいことと、「いやならやめてもらっても困らない」ということとは、ぜんぜん別の次元の話である。)

ところがマクロ視点で見れば、まあ話の流れ上、落語家の話にするが、落語家修行がつとまらない人も、どこかで食っていかなければならないわけで、それは最終的には国が面倒見ることになる。

で、国の負担を減らすためには、どうにかして勉強な嫌いな人にも、18歳くらいまでは学んでおいてもらいたいわけである。

私が何を言いたいかというと、「勉強」……「修行」などと言い換えてもいいが、そのシステムそのものは、特定のコミュニティ維持さえできれば、後のことは実はどうでもいいのである(システムそのもに意志があるわけではないが)。
先生や師匠が、おちこぼれそうな者を温情で助けてやったとか、ルール外の特例を認めてやった、という「美談」は、例外だからこそ美談たりうるのであって、本当はただ秩序が秩序を維持するためだけにシステムが存続しているにすぎない場合も、多くあるのだ。
ただ、そんなことを個人でわめいてもしょうがないので、ほとんどの人が黙っているだけである。

本書に話を戻すと、日本では「低学歴の親は子にも高学歴を求めず、結果的に階層ができあがってしまっている」、「その階層の子どもたちの学習意欲を奪っているのは高校入試である」ということを言っている。
「中学」、「高校」、「大学」という個々の閉じた世界では成立することも、中学、高校、大学と流れで見て行くとさまざまな矛盾点がある。それをどうにかするには、やはりマクロな視点から見ざるを得ない。

本書では「プロ教師の会」が、「勉強をしない(高校に行かない)という選択」を認めていることに強く憤っている。
確かにそれはそのとおりで、「高校に行かないで立派な植木職人になった」という卒業生を「高校に行かない選択」の例としてあげているらしいが、それは私から見ると、「マイク・タイソンだって貧困からチャンピオンになった」と言っているのとあまり変わらないように思える。

もう30年くらい前のことになるが、おちこぼれの少年少女を受け入れているという高校の校長先生がテレビに出ていて、「高校を中退しても、結局、男は寿司職人、女は美容師くらいしか仕事がない。だからやめてももう一度、戻ってこれる制度を採用している」と言っていたことを思い出す。
今なら、職業差別的とも取られかねないし、まさか高校中退者の職業として寿司屋と美容師しかないとは思えない(それこそ植木職人だってある)が、ミもフタもない言い方をすればそうなるだろう。

「プロ教師の会」の主張は、学校の秩序維持に関してはリアリストでありながら、「勉強ができない子、きらいな子」に関してはずいぶんと冷たい、というか、創造力が欠如しているように思える。
そもそもが、彼らの世代的に、私の勝手な予想だが「野放図な個性尊重に対する反省」がその主張の根底にあるに違いない。
確かに新左翼的な「お花畑」な意見に私もウンザリすることがあるが、そろそろ「新左翼に対するカウンター的意見」も、見直す時期に来ているだろう。

「新左翼的な考え」に対するカウンターが、知的水準としてはずいぶんと低下してしまい、「ネトウヨ」、「ヘイトスピーチ」という一種のモンスターとして路上を闊歩している現在においては、なおさらだ。

本書は、飛躍するようだが「新左翼」、「新左翼へのカウンターとしての保守」、さらに「保守」の鬼子としてのネトウヨ、という硬直した言論の現状に対する、一服の清涼剤であるとすら思う。

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