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【アイドルソング】・「赤いスイートピーは地雷女の話か?」

ツイッターを眺めていたら、「松田聖子の『赤いスイートピーの歌詞は、男を振り回す地雷女を描いている」という書き込みがあり、「んんっ?」となった。
百歩譲って「そうとも読めるよね」という話なら、まあ……一種の「解釈遊び」なので引きさがってもいいが、もしも「本当に地雷女を描いている」と主張したいのなら、それは間違っている。

それは80年代アイドル歌謡の定番を無視した発言だ。

・その1
80年代の女性アイドルソングの歌詞にはおおまかに二種類ある。
簡単に言えば「女性が受け身の場合」と、「女性が能動的な場合」だ。
前者の代表曲は、岡田有希子のデビュー曲「ファースト・デイト」だ。「クラスでいちばん目立たない私を選んでくれたのはなぜ?」なんて自問自答してしまうひかえめな女の子の歌。
後者の代表曲は、パッと思いつくだけでも非常に多いが、「赤いスイートピー」は確かにこの系統だし、同じ松田聖子でもシングルカットはされていないものの「ハートをROCK」はメガネの優等生くんを誘惑する歌詞。
森川美穂の「姫様ズーム・イン」となると、ヤンキー少女がマジメ少年とセックスまで持ち込もうとする過激な歌詞になっている。

両者の中間、という歌詞も多い。
たとえば小泉今日子のデビュー曲「私の16歳」は、「好きだが声をかけられない男の子を路上で待ち伏せて、花ことばの暗示で思いを届かせようとする」という内容。まだるっこしいが「言い出せないけど、言いたい」という葛藤が描かれていてこの手のものも少なくない。

アイドルの曲は少年にとっての夢の世界であることは、昔も今も変わらないだろう(恋愛がテーマの歌ではなくても)。
普通に考えて、そこにめんどくさい「地雷女」のイメージを刷り込ませるなど、商売上でもありえないことだ。

・その2
だが、そう誤解される要素がないではない。どういうことかと言えば、80年代アイドル楽曲には、「女性の方が積極的」という歌詞が、妙に多いのである。あまりに多いので、80年代当時を知らない人には、警戒心を抱かせてしまうかもしれないからだ。
作詞家それぞれの傾向を調べたわけではないが、このテの歌詞の代表的な作詞家は松本隆だ。「赤いスイートピー」も彼の作詞である。
松本隆は、マジメでかたぶつで、女の子に好きと言い出せない男の子に対して、「なんで気持ちを打ち明けてくれないの?」と大胆にせまる女の子、という図式をよく描いていた。

他の作詞家でもこの「気弱な(あるいは思いに気付かない鈍感な)男の子に、女の子がせまる」という歌詞を描いている人はいて、一種の定番になっていた。「大胆な女の子が男の子を翻弄する」というところまで話を広げれば、「セーラー服を脱がさないで」もこの範疇に入る。秋元康も、このテの歌詞を80年代に書いていたということだ。
また、「クラスでいちばん目立たない女の子」を歌った岡田有希子は、後には「あなたが私を抱きたいと思っているのはわかっているのよ」という内容の歌詞である「くちびるネットワーク」という歌を歌うに至る。
ちなみに、作詞は「赤いスイートピー」を歌った松田聖子である。

私の調査不足なのだが、こうした傾向は同時代の他のジャンル(映画、マンガなど)にはあまり見られない、気がする。
80年代は、マンガにおいては「少年ラブコメ」の時代だが、「気弱な少年と大胆な少女」という図式は、「パターン」とされるほど定番化してはいない。
青春ドラマはどうだったか記憶が今ひとつだが、アイドルソングの歌詞に出てくる男の子ほど、登場人物の男子は情けなくなかったはずである。

・その3
「80年代のアイドルの世界なんて、ミニスカートを履いて、ニコニコ笑って男に媚びた歌を歌っていただけだろう」と思い込んでいる人もいるようだが、実際はそう単純な話ではない。
まず80年代は、「大量に十代の女性歌手が芸能界に参入した」時代でもある。別の言い方をすれば男女共学的というか、テレビを「青春時代の謳歌」のイメージで染めることとなる。いわゆる「青春ドラマ」はかなり前から存在していたが、80年代にはよりポップに、明るくなった。
次に、「女の子の恋愛、あるいは性に対する開放」を、暗に歌っているケースが多くなった。しかもそれは70年代の山口百恵の歌のような暗さはなく、どこか突き抜けていた。
これは逆に言うと、男の子に対して「別に以前ほど質実剛健、ゴリラみたいな男でなくてもいいんだ」というメッセージでもあった。
言うなれば「梶原一騎的男観」に対する(結果的な)アンチである。
話がややこしくなるのは、「梶原少年マンガ」の恋愛観は、「男は男らしくしていれば女が勝手に寄ってくる」という、実にご都合主義的なもので、それと「気弱な少年が勝気な女の子に誘惑される」というアイドル楽曲の歌詞は、ねじれたかたちで(聞く側の少年の心中で)連結していたとも言える、ということなのだが本稿ではそこは深く掘り下げずにおこう。長くなりすぎるので。

で、百万回くらい言われてきたと思うが、こうした傾向は「おニャン子クラブ」の、「セックスして非処女になったから『お先に失礼』」と歌っている「お先に失礼」や、「男の子の方がリードしてくれているから、何をしたいかはみえみえだけど、それに乗っかってあげる」と描いた、うしろ指さされ組「なぎさの『……』」くらいまで行くのである。
これが、「思いきって処女をささげますけどこれ、大変なことだから責任とってよね」的な思い詰めた内容の山口百恵「ひと夏の経験」(1974年)からいかに離れた境地にまで達するか、考えると感慨深い。

・その4
さて、それでは最後に、ごく最近、「赤いスイートピー」が「地雷女を歌った歌だ」と解釈されてしまう(誤解されてしまう)理由について書く。
アイドル楽曲は、ところどころで「性愛の解放」を歌ってきたのだが、それは「好きな人と一緒にいたい」とか、「女の子にも男をふる権利はある」とか、さらには浮気ギリギリまで行くと河合奈保子の「けんかをやめて」なんていう歌まであるのだが、「悪意で(あるいは、自覚もなしに)その気もない男を振り回す」というところにまでは、至らなかった。
当然である。女性のアイドル楽曲を聞く大半は、男性なのだから。

すなわち、どんな描き方をされようが、女の子の「真剣な欲望」が描かれていたことは間違いがなく、それは「生への誠実さ」と言ってもいいだろう。

ところが、「赤いスイートピー」を「地雷女の歌」と解釈するということは、現代の「聞く側」が、もはや女の子側からの「生への誠実さ(相手への思いやりを伴った)」をすら、信じられなくなっているということを表している。
簡単に言えば、男が「騙されているかもしれない」と思っているということだ。歌詞の中の女性にまで。

あらゆる制度や慣習が相対化されてしまったため、男からすれば、もはやチョコレートをもらおうが、一緒にデートに行こうが、処女をささげられようが、セックスをさせてもらおうが、アナルを解禁されようが、同棲しようが、籍を入れようが、子供を産んでもらおうが、わが子を育ててもらおうが、「永遠におとしどころが見つからない世界」に突入しているとも言える。
(女性側もそうかもしれないが、私は女性ではないので、よくわかりません。)

「ネトウヨは、『国家』を相対化しつくした左翼が誕生を準備したものだ」と言う人がいるが(私は必ずしもそうだとは思っていないが)、なんでもかんでも相対化したら、人は疑心暗鬼になるに決まっているのである。

「赤いスイートピー地雷女説」は、そんなせちがらさを象徴していると思う。

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