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【雑記】・「テレビが終わった、とか言ってるやつら」

「テレビ評」というものは、私の記憶で言えば80年代以前にはナンシー関出現以前には成立していなかったし、ナンシー関は「テレビ評」の黎明期の人間であって、いつまで経っても「現代のナンシー関」待望論がある以上、テレビ評の未来はないのである。

正確にはネットで「テレビ評」は育ちつつある。
たとえば「テレビのスキマ」なんて、面白くてヤバいだろう。
しかし、現状では今井舞みたいなどうしようもないやつが仕事をもらっているので、テレビ評の前途は暗い。
そんな流れの中で、
「テレビはつまらなくなった」
という論調が、(フジテレビ叩きなども含めて)ネットでは目立つようになった。
ますます、どうしようもない状況だ。

・その1
実は「テレビがつまらなくなった論」の前がある。
それは「テレビCMを評価するという動きがめっきりなくなった」ということだ。
これがいつ頃からかは、よくわからない。
広告業界が、非常にもてはやされる時代があった。私はそれほど興味がなかったのだが少なくとも90年代半ばくらいまではそういう風潮があったように思うし、視聴者もテレビCMに対してリスペクトがあった。
CMディレクターが映画を撮ったり、よその世界に進出することもあった。
それが、いつの間にか、CMが話題になるときは非難の対象だ。
直近で思い出すのは、「ハイジ」や「ジョー」を(ギャグというわけでもなく)設定破壊したCMや、セーラームーンやちびまる子ちゃんやら何やらが設定無視で混在しているCMだ。
現在、プラスの意味で面白がられているのは「ライザップ」と、ドキュメンタリー風の「青汁」のCMくらいではないだろうか。
まあそもそも、バブル崩壊で真っ先に削られるのは広告費だろう、と言われていたし、貧すれば鈍すると言っていいのかどうか知らないが、「単に耳に残らせるためだけ」が目的の音楽起用も激増した。
「カムとフニャンフニャン」のガムの歌が、「狼少年ケン」なのはどういう意味だ? サブリミナルテクニックなのか?

そんなわけで「CMからCMソングが大ヒット」という「あこがれパターン」も、減ったように思う。
いつの間にか、CMがリスペクトされた時代は終わり、CMは録画によって飛ばされ、トイレタイムに逆戻り、現在のCMの扱いは70年代くらいのときの認識に戻ってしまった。
(ついでに書くがCMの作品評価の低さは、ネット上の「嫌儲」と関係しているのかもしれない。)

・その2
その次には、テレビそのものも小馬鹿にされるようになった。
しかし、「テレビがつまらなくなった論」は、まず第一段階として「NHKスペシャルとクロ現と朝生だけがいい番組、後はクソ」みたいな人の論調が、まず80年代からあり、こういう人は単にマジメで、テレビを一種の教育機器としかとらえていなかったので、我々(そう、我々だ)も相手にしていなかった。
そして、その次にやっと「最近のテレビはつまらない論」が登場する。
だが、「最近のテレビはつまらない」と言っている人の大半は、「昔のテレビがどうだったか」も知らない。
たいていのテレビ批判者はテレビの歴史を知らず、知らないままで批判していいと思っている。他のジャンルには細かく文句を言う人も、テレビは自由な広場だとでも思っているかのようだ。
これは「テレビは品行方正であるべきである」というマジメ路線ともまた違った、不思議な考え方だ。
不思議だが、これが現状だとも言える。
とくに、テレビアニメ大好きなのに「テレビはもういらない」と発言するなどは、もう何がなんだかよくわからないのである。まあ、パソコンか何かでアニメを観ているのかな?

で、テレビのことを知りもしないくせに、「テレビがつまらない」と言っていることも看過しがたいが、最近では、
「テレビそのものが終わった」
と、知りもしないくせに偉そうに言う者も増えてきた。
この件について、私の考察ははっきりしていない。おそらくそういうことを言う人には、「テレビギョーカイ」に対する憎しみがあるのだろう。
テレビに出演したことのある人の中には、テレビ制作のずさんさに不信感をぶつける者も多い。
あげくには「テレビ持ってない」ことが、知的アピールになる人もいたりして。

……それでユーチューバー観てれば、世話ないっつーの!!

しかし、まじめな話、テレビに往年の勢いはないし、今後、今まで以上に盛り上がることがあるとも思えない。
不況も大きいだろうが、情報発信が複線化したことが、その理由としては最も大きいと、私は考えている。
最近ではタレントの告知でも、「番組に出まーす」とだけ言われても、それがテレビなのか、ネット番組なのか、単に自分が自分で発信しているニコ生か何かなのか、わからなくなってきた。
テレビの権勢というのは「テレビに出られなくなったら、ほとんど出る場を失う」という強迫的な存在だからこそあった。だからその牙城が崩れれば、往年の権威はなくなるだろう。

先ほども言ったように、CMとの蜜月関係も、もう崩れてきているようだし。

・その3
では「つまらない番組ばかりか」というと、実はまったくそんなことはない。それは、探さない方が悪い。
みんな、本や映画やゲームは面白そうなものを血眼になって捜すが、テレビだけは、適当につけた瞬間にやっていたテレビが面白くないと、もう「ダメだ」と言い出すという、わがまま貴族になっている。
今後、偉そうにポストモダンか何かとからめて「テレビは終わった」という学者は後を絶たないだろうが、私は、

「みんながネットに走るので、私、テレビを独占させていただきます」

とでも、言っておくことにする。

あ、最後に二つ、「テレビ評が成立しづらかった」理由の仮説を書いておく。
テレビというのは、他のジャンルに比べて「裏方」の顔が見えると面白さが目減りするジャンルであると、私は思っているのだ。
たとえば「アホ太郎」というタレントがアホゆえに、テレビで大人気になったとする。
そのとき、アホ太郎で大笑いしている人々は、自分が「アホ太郎を見出し、笑っている」と、なぜか主導的に思い込んでいるのだ。
ここにアホ太郎を見出し、起用したディレクターなんかが現れると、一挙にシラケてしまうのである。
さらに、そのディレクターが「アホ論」を語りだしたり、「アホ太郎」以前に売れていたアホキャラたちも、そのディレクターの起用によって売れていた、などと知ってしまうと、視聴者は虚脱してしまい、次第になんだかテレビ界が憎らしく思えてくるのだ。

さらに、「テレビの裏方は荒っぽいし、ハードである」ということも昔からというか、90年代初頭くらいまで、まったく関係ない業界にもうわさがとどろいていた。
とくに「ADは人間以下の扱いを受ける」とはよく言われていたことだ。
いちばん先進的だと思われているテレビ業界で、いったいどこ発祥かわからない徒弟制度がまかりとおっているというのは、視聴者を大いにシラケさせた。
要するに、「テレビは『やくざ』がつくっているものである」という認識が、広く浸透してしまっていた。
「やくざなんだから、背景なんて観なくていい」。
そう思ってきたようなところが、視聴者側にはある。
ナンシー関が、頑迷なまでに「テレビのつくり手」に触れなかったことも、そこと関係していると私はにらんでいる。

これではテレビを「観る側」も、内情を「なかったふり」にする他あるまい。

ま、そうしたイメージを一般人に植え付けたのは、名指しをすれば土屋敏男とテリー伊藤だと思っていますけど。
土屋敏男の方がよく知らないが、「ADをやたらと殴る」というテリー伊藤の部下扱いは、いったいどこから来たものなのか、ウィキペディアなどではよくわからない。

テリー伊藤がいじめ問題について言及したところを観たことがないが、何を言ったにせよ、よく言えるもんだと思ったことである。

しかし、優れたテレビ評は、ネットでこそ生まれ続けるだろう。テレビの衰退とは裏腹に。
根拠なくそう断言して、この項、おわりとする。

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