【雑記】・「トシとってつらい、ベッキーの目は青い」
タイトルとぜんぜん関係ない話だが、ベッキー、というか「不倫した芸能人」、叩かれすぎだろう。
まさに「水に落ちた犬」状態。
おれは、現状の「バランスとして」ベッキーを擁護するね。「不倫は悪」ということがあまりにも自明になっているがゆえに(おれが浮気されたら、それはやっぱりいやですから(笑))。
しかしこういう人(おれみたいに擁護する人)は少ないというか、かなり特殊な人が多い。
要するに、自分自身も性愛に対して非常にオープンであるとか、まあそういう人たちだ。
だが、比較論で言えばよくわからん快楽殺人者や、「これこそ近代の超克!」などとわけわからんことを言ってイスラム国(国ではないそうだが)を擁護したり、動物愛護者へのいやがらせのために、「子猫を崖に落として殺している」と「わざわざ書く」という露悪的な行為よりは、よほどマシだろう。
大急ぎでつけくわえるなら、私のベッキー擁護には知性的なものは何もない。ただ、鬼の首でもとったかのようにやいのやいの言っている連中が気に食わないだけである。
石田純一が悪手だったのは、「不倫は文化」などと、「知性的(本来ならこのレベルは知性でもなんでもないと思うが)にみえる手でやり返してしまったことにある。一般庶民は、インテリをありがたがりつつも心の底では憎悪しているからだ。
なぜなら、日本は学歴社会であり、「大学」が最高学府であり、大学へ行くことが「学問をきわめる」ことである以上、日本人の大卒者は、学者以外は全員、「学者になれなかったおちこぼれ」なのだ。
泣いてもわめいても、構造的にそうなっているのである。
あ、ここでまたつけくわえておくと、私は大学の「職業訓練校化」のような方針には絶対的に反対である。
大学というのは、そもそも他人とロクに口もきけないが山手線の駅をぜんぶ覚えているようなやつらの最後の砦であり、そういうやつらは別に有益性などで動いていないのであり、大学とは「無駄なことをやる」ことこそに意味があるからだ。
つまり、大学というのは「無駄なことを、かしこまってやること」を国家が承認していることの証明であり、その存在は当然、そうなると「近代国家」であることの証明でもある。
さらに別の連想で言えば、「学問」に接近しつつ、絶対にそぐわないものに「職人」がある。職人は、「仕事をする者」であり、別に学者のように「遊んで」いるわけではない(ガキカッコ付けたからな、誤解しないように)。仕事の無駄をそぎおとし、「有用性」のみを追求する存在である。
そして、そのことにより、逆説的に真実をつかむという、仙人のような過程を経て存在する。
話を戻そう。
私は石田純一はバカ、しかも自分を利口だと思っているバカだとは思っている。バカでなければ、「王様のブランチ」の読書コーナーで「アガステイアの葉」というスピリチュア本を紹介するはずがない。
しかし、石田の問題意識は、ぜんぜん検索も何もかけずに書くが、「アガステイアの葉」にしろ「不倫は文化」にしろ、いちおうは一貫している。
それはすなわち、どこまで本気か知らないが彼は「近代社会」が絶対的なものとは思っておらず、それを「討てる」と思って、「アガステイアの葉」や、「不倫だって文学に貢献しているではないか(大意)」ということを言ったのだろう、と予測できるからである。
もしかしたら、最近シールズの集会で演説したりしたのも、彼なりには何か一貫性のある行動なのかもしれない。
なぜ「不倫」ということが起こり、たぶん法には触れていないのにそれをなす者が罪人扱いされるかというと、いちおう「それをしない」ことが近代社会秩序を維持する重要な部分だと、人々が暗々裏に思っているからである。
しかし、一方で矛盾もある。どういうことかというと、近代社会では人々は「個人」として生きている。
結婚したからといって、「幻魔大戦」のザンビとザメディみたいに肉体的に合体してしまうわけではない。
だが、やはり、結婚にしろ、家族にしろ、あるいは会社にしろ、「集団」というのはどれほど注意深く組織されたとしても、「個」を奪ってしまうものなのである。
だから「個である私が、自由に恋愛して何が悪いの?」という開き直りに対し反論するには、「人は一対一で愛し合わねばならない」、という凡庸な意見でしか返すほかないのだ。
夫婦別姓の裁判でひとつ気になったことがある。それは「名前が変わるとアイデンティティがおびやかされる」というのが、反対の理由のひとつになっていたことだ。
しかし、たとえば何らかの師匠の弟子となったら、意に沿わない芸名をつけられることもあろう。
そういうのは「個がおびやかされる」として批判されないのだろうか?
むろん、師弟関係における上下関係の絶対性というのは「近代的」ではない。近代的ではないところに「名前」のルールが存在していて、別にそれは法律でもなんでもないから、いやならその世界をやめればいい。
だが他にも「個」がおびやかされることは、日常的に、常に存在している。「個がおびやかされるから名前を変えたくない」という人は、「個の他者による浸食」を最小限におさえたいと考えているのか、それとも、そもそも根本的に間違っていると考え、徹底的になくしたいのか。
根本的に間違っていると考えているとしたら、名前を変えなかろうが、なんだろうが、「個」は必ずおびやかされるし、結婚もできないしシェアハウスもできない。同じ風呂やトイレを使用することもできない。
最近のいわゆるリベラルに対して、私が胡散臭く思っている部分があるとしたら、そこである。
「完全な個人」なんて、はたして成立しうるのだろうか?
単なる程度の問題で、「実際的にどうにかしよう」というのとは別に、「象徴的に」何らかのことを「個がおびやかされる」として問題視するならば、それは少し考え直した方がいいのではないかと思う。
なんだかつまらない話になってしまった。
こういうの、保守の常套句なんでね。
最後にベッキーの話に戻そう。
もともと、ベッキーの立ち居振る舞いが「天使」みたいな言い方をされる以前、彼女はもうちょっとはっちゃけたキャラだった。
「痴漢を捕まえるコツがある」と、豪語していた時期である。
彼女は、それなりに男を値踏みし、セクハラには異を唱え、電車内で痴漢を捕まえる勇気を持っているキャラだったのだ。
その後、なんであそこまで清廉潔白なキャラになったか知らないが、なんかおれ、そういうのあまり好きじゃなかったね。
「黒は悲しい色なので、黒い服は着ない」とか言っていたそうだが、頭おかしいだろ。
それとも、ハーフ芸人のあんとにーからのツッコミ待ちだったのだろうか。
まあいいや。
みんな、「営業の外回りでちょっかいかけていた他社の女の子と結婚した営業マンの披露宴で、『いい出会いがありました』」とか平気な顔でスピーチするんだろ?
そんで、もしも別れることになったら転勤させたり異動させたりして。
ふざけるな!
あと、レイア姫はブス。
なお、スレイブレイアについては、いろいろ書きたいことがあるのだが、面倒なのでやめます。
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