【書籍】・「ネット右翼の終わり ヘイトスピーチはなぜ無くならないのか」 古谷経衡(2015、晶文社)
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「ネット右翼」、いわゆるネトウヨについての本。著者の立場は保守。いわば、保守側からのネトウヨ批判ということになるだろう。
本書は、「保守」と「ネトウヨ」を厳密に分け、当初は保守思想家がネトウヨを「将来のお客さん」として遇していたのが、やがてネトウヨ独自の発言、行動を取ることになって「制御」できなくなり、田母神俊雄を批判するかたちで、最近ではむしろ、「保守」側の人々がネトウヨの発するデマを間に受けてしまうという傾向がある、と嘆じる。
簡単に言えばそういう本だと思う。
著者の主張にはところどころ「ん?」と思うところがあるものの、「保守思想家とネトウヨとの関係」の説明としては非常に明確でわかりやすい本である。
以下は、本書から連想したあまり関係ない話である。
・その1
私が個人的に勉強になったのは、「真正・保守論談」を明確に規定し、ネット右翼との出自の違いを説明しているところだ。
この本に書いてあることが正しければ、私が今まで「保守」だと思っていたものは、「保守思想家の影響を受けたサブカル」ということになるのだろうな、と思ったのだ。
本書では「保守論談」を「産経新聞」だとか「WILL」に規定している。「サブカル」という言葉は出てこないが、小林よしのりの「戦争論」が、本来無縁だった保守論壇とネトウヨとをつなげた、というようなことが書いてあった。
規定しているだけに、わかりやすい。
しかし、私(1967年生まれ)としては、実は「保守論壇に影響を受けたサブカル的言説」に、はるかに影響を受けていた、ということは個人史として書いておきたい。
具体的に言えば、90年代の「別冊宝島」や、呉智英や、浅羽通明のことである。
自分の「SPA!」の連載に、西部邁を引っ張り出してきた中森明夫をあげてもいいし、一時期何かと「団塊の世代批判」を繰り返していた大塚英志をあげてもいい。
あくまでも「保守論壇に影響を受けた、言説」ということであって、先にあげた人たちが「真正保守」かどうかは、私にはわからないが。
・その2
90年代の古い話になるが、当時、ちょっとこむずかしいことに興味がある若者なら、曽野綾子は読まなくても山本夏彦は読んだのである。90年代当時、左がかった同世代を論破するには、山本夏彦と立川談志と西部邁がいればよかったのだ。
まあ本作の著者は世代が一世代下なので、そんな雰囲気を知らなくても当然ではあるのだが。
先にあげた人々、とくに呉智英、その弟子筋の浅羽通明、浅羽にケンカを売られた大塚英志、またそれとは別の大月隆寛あたりは、だれもがみな「同世代の左翼のダメっぷりにうんざりして、『保守思想』を輸入してくることによって対抗してきた人たち」だと私は思っている。
あ、あと90年代の町山智浩にもそんな雰囲気があった。詳細は知らないが、「別冊宝島」、「宝島30」周辺にはそういう人たちがいた。
あまり指摘されないが呉智英の著作に観られるのは「保守」との間に揺れる「革命」とのアンビバレンツな気持である。彼の面白さは、それを文学的に表現するのではなく、「封建主義」を唱えだして両者をアウフヘーベンしようとしたことにあるのだが、それはまた別の話。
で、面白いのは彼をリスペクトする浅羽通明は、まあ彼を真正保守というのかどうか知らないが、「革命(あるいは革命的なイベント)」に対するロマンを、あっさり捨ててしまったことである。
彼の手になる、普通の教科書みたいな本にも、巻末に左翼に対する激烈な批判が書いてあってビビるのだが、そんな彼を呉智英がどう思っているかは興味のあるところである。
オタクに目を向ければ、「非実在性少年」問題以前は、保守的な傾向がみられたように思う。オタクはコレクションが破壊されたり貴重なフィルムが混乱の中で焼失するのがイヤなので、革新や革命を忌避する、というのが私の持論だったのだが、規制問題、原発問題あたりから思想的に分裂を始めている印象だ。
また、規制問題は「棲み分け」によるポリティカル・コレクトネスや、性表現におけるジェンダー問題などともつながってくるので、なんとなくリベラルの方が最近は多いのかな、という気はする。
上記は余談みたいなものである。
・その3
最後に、本書は旧態依然としつつ、「ネット右翼」の成長を助けてしまった「保守王国」ならぬ、もうちょっと知的な「ソーシャル保守」をつくることを提唱している。
保守側にとっては確かにそれは理想だろうし、「理想」の提言にこういうことを言うのも自分でどうかと思うのだが、左翼みたいにワーッと盛り上がる「祭り感」の欠落する、静かで知的な集団が、どこまで持続するかというのは少々疑問ではある。
保守は現実的ゆえに、常に「正しいなあ」と思わせるのだが、そのすぐ後に「退屈だなあ」とも思われてしまうのが弱みなのだ(「ネット右翼」も、時間的にはともかく退屈に飽き飽きしている人たちではないかと、私は想像している)。
そうした批判を「日常に帰れないとっちゃん坊やのものいいにすぎない」と思うか、チェスタトンの小説か何かを読んで「退屈」という弱点について考えるかは、保守思想家たちの自由ではある。
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