【勝手に解説】・「サイボーグ009」流れ解説(マンガのみ、その2、なぜ神か? 完結編)
その1からの続き。
永井豪先生“ぶっちゃけ”1万字インタビュー 『サイボーグ009 vs デビルマン』上映記念
この中で豪ちゃん、「神との戦いは009よりデビルマンの方が先」と言っちゃってるが、【勝手に解説】・「サイボーグ009」流れ解説(マンガのみ、その1)に書いたとおり、マンガ版「デビルマン」は1972~73年の連載。「神との戦い」というモチーフとして観ても「魔王ダンテ」は前年の1971年の作品である。
対するに、「サイボーグ009」の「天使編」は1969年、「神々との戦い」編が69~70年。
だから、どちらが早いかと言ったら、「デビルマン」より「サイボーグ009」の方が、早いです。
まあ日本のマンガ史全体から言えば、手塚治虫が1969年以前に、「神と戦う」話を書いているかもしれないが、それは置いておく。
いや豪ちゃんが悪いと言っているのではなく、昔のことだから当然記憶違いはあるだろうし、こういうのはインタビュー載せる側が、なんとかしとかないといけないと思うんですけどね。
今回書く「その2、完結編」は完全に私の独断と偏見の話であり、読んでもあまり役に立たないと思います。
しかしこの際だから、思ったことを書いておきます。
・その1
石ノ森章太郎は、とにかく新しいものを取り入れるのが早かった。これは「天使編」が1969年に書かれたことからもわかる。1973年、連合赤軍事件の、リンチ殺人を含んだもろもろが明るみに出て、反権力的な政治運動は一気に退潮した、と言われている(東アジア反日武装戦線 狼の「三菱重工爆破事件」だという説もあるが、ここでは置く)。
この1972~73年を基点に、オカルトブームが起こる。私に確たる根拠はないが、これが72~73年の政治運動の敗北に関係していることは、ほぼ間違いないと思う。
実際、元左翼からも元右翼からも、オカルトの世界だとか、健康自然食品だとか、整体だとか、エコだとか、そういう方面に行く人も多かったらしい。
だからこの段階で「デビルマン」が描かれるのはわかる。「デビルマン」の底流に流れる厭世感は、同時代的なものだと思うからだ。
だが、「サイボーグ009」で神が登場するのは、まだそうした政治闘争が(まさか学生たちが日本の政権を奪取することはありえないにしても)どうなるかわからない状況だったはずだ。
海外SFでは、早くから「神とは、悪魔とは何か?」というテーマがあるから(「幼年期の終わり」が1953年)、そっちからひっぱってきたとしか考えられない。
ちなみに、石ノ森章太郎には終末予言に振り回される人々と、それが実現して世の中がむちゃくちゃになる状況を描いた「赤いトナカイ」という作品があるが、これは「ノストラダムスの大予言」ブームと関係があるようで何も関係がない。1962年の作品だ。ノストラダムスブームより、ずっと前の作品である。
まあいずれにしろ、「デビルマン」連載時にも、連載終了後も、「009」の「神との戦い」が期待されていたことは確かで、70年代の「デビルマン」の人気の高さは、当然ながら「神との戦い」というモチーフが70年代を通して生きていたことを証明している。
では、それはいったいいつまで「生きて」いたのだろうか。
・その2
大ヒット作ではなかったが、飯森広一も「神との戦い」にこだわったマンガ家だった。「60億のシラミ」や「希望の伝説」などは、いずれも神と、それに敵対するものが戦うという話だ。
主人公が「悪魔」側に立ったわけではないが、テーマ的にはきわめて隣接するのが平井和正の「幻魔大戦」だ。
「幻魔」の場合、宗教的世界観に寄りすぎて、今回語ろうとするテーマとは離れてしまうが。
で、マンガにおける「神との戦い」というテーマとは何か換骨奪胎すると、結局、「管理する者への反逆」ということになる。
これは、「敵が巨大コンピュータだった」とか「父親だった」とかともつながる。いずれも敵は「管理する側」なのである。
ではなぜ、主人公は管理する側に反逆するのだろうか。それは、「管理されることが悪いことだ」という大前提があるからである。
73年の段階で、現実世界の政治運動が敗北となったことを思い出してほしい。為政者は当然管理する側だから、敵対すればそれをぶち壊す、ということになる。あるいは連合赤軍のリンチ殺人事件が、「管理者を破壊する側」のコミュニティの中で、それを維持しようとするために起こったことを考えると、それに対する受け取り方がそうとうショッキングだったことがわかるだろう。
70年代中盤から80年代を通して、少年マンガにおける「巨悪」、「倒すべき敵」というのはたいてい「管理しようとする側」であり、作者が意識的であれ無意識的であれ、現実には敗北した政治闘争のカタキをフィクションの世界で取ろうとした、と私は考えている。
では、なぜ「秩序を破壊する側」ではなく、「管理する側」がそれほど強大な敵となったのだろうか。
・その3
雁屋哲原作の「野望の王国」は1977年から1982年に連載された作品であり、「暴力で人々を支配しようとする野望を抱いた若者」の物語である。しかし直接一般庶民を暴力的に支配するというのではなく、暴力によって、時の権力者を操って最終的に一般庶民をも支配しようとする、というのがこの作品のミソだ。
雁屋哲は、ほぼ同時期に左翼的思想をもった主人公が、権力者に反逆する「男組」という作品を書いているが、これはコインの裏表で、「超エリートが何事をも支配すれば、もっと世の中よくなるのではないか」という考えが双方の作品からかいま見える。
確か永井豪の「凄ノ王」だったか、超能力者が集まって人々を支配する、という野望を持ったものが出てくるが、これも80年代。
「北斗の拳」はちょっと違うが、原作者の武論尊が主人公の敵のラオウを気にいっていたことは有名で、ラオウのやろうとしていたことも暴力による絶対秩序の確立であった。そして、ラオウ自身がそうした世界に君臨するにふさわしい人品を持っている、ということも描かれているのである。
つまり、70年代中盤から80年代を通して、「ものすごい才能を持った人々が集まって、強大な権力を行使すれば世の中よくなるんじゃないか?」という仮説が、いわゆる「大ボス」を通して描かれていると言えるのだ。
もっとも、石ノ森章太郎個人はオカルトの影響が強いから、「神」はもう少し抽象的にとらえていたと思うが、どちらにせよ、「神々の戦い」の「鮮度」が落ちなかったのは、そのような時代背景による。
・その4
ところが、このような「自由な主人公VS何事をも管理しようとする巨大な敵」という図式は、いつの間にか陳腐化してしまう。
一体いつ頃からか。
高見広春の小説「バトル・ロワイアル」が刊行されるのが、1999年。この後、徐々に「バトロワもの」、特定のルールに従ったゲームに失敗すると殺されてしまう「デス・ゲームもの」といったジャンルが徐々にはやるようになり、現在でもときおり見かける。もう15年は経つわけだ。
この手の作品群では、「ゲームをしかける相手(ゲームマスター)」をどう倒すかはあまり問題ではなく、「ルール内のゲームにどう勝つか」の方が重要となっている。むしろ「管理されていること」は大前提であり、それまでの「管理してくる側」との戦いとは、主旨が異なってくるのだ。
小説「バトル・ロワイアル」は1999年だが、私は「管理する巨悪」との戦いがフィクションの世界で陳腐化していったのは、バブル崩壊とオウム事件(1995年)が大きいと思う。
とくにオウム事件は、自分たち(オウム信者たち)に圧力をかけてくる日本政府やアメリカを「巨悪」と設定し、それに戦いを挑む「正しい自分たち」という「設定」がそれまでのマンガやアニメを踏襲していることから、それまでの少年マンガおよびアニメのプロットをなぞったような、集大成的な事件でもあった。
こういうのが出てきてしまうと、管理する巨悪にしろ混沌とした巨悪にしろ、それに立ち向かう少年少女、みたいなストーリーが一気に陳腐化してしまう。なんだかアホらしくなってしまうのだ。
アニメ「まどかマギカ」や特撮「仮面ライダー鎧武」が、「力をくれる者」を懐疑的に描くのも、そりゃ当然である。
オウム信者で、麻原にだまされて自分が「罪を犯す側」に回った人を目の当たりにして見れば。
・その5
むしろバブルが崩壊してオウムみたいなやつが出てきたなら、だれかに「管理」してもらわなければ落ち着かない。むしろ、管理してほしい。
それが90年代後半以降の人々の皮膚感覚であり、後は「管理された箱庭の中で」、「自分の居場所を確保するために戦う」というサバイバル戦にリアリティが出てくる。
オウムが、政治運動団体などではなく宗教団体だったことが偶然なのか必然だったのかわからない。
しかし、もはや「神と戦う」といったロマンチシズムもクソもない。あほづらしていたらみんなサリンで死ぬ。オウムがいなくなっても、就職戦線で生き残らなければ、生きていけない。そして就職戦線で負けたら、ブラック企業で働かされて過労死するかもしれない。
それがまあ、今の多くの人の感覚だろう(安保問題で、また変わってくるかもしれないが)。
というわけで、「神との戦い(これに「神の名のもとに戦う」ハルマゲドンを含めてもいい)」は、ただの世迷言に化けてしまったのである。
それは、90年代中盤から後半の間に「気分」として形成され、現在に至るというのが私の考えだ(それほどオリジナリティのある考えではないが、同じ時代について考えているんだから、どうしても他の人の考えていることと似てしまうんだよなあ)。
だが、「サイボーグ009 god's war」は刊行された。
では2010年代に本作が刊行される意味はあったのか?
あったと思う。
それについては、またいつか書く(引っ張る)。
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