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【自作解説】・「小説 探偵・荒倉牙人 殺人レッスン」(三部作の第一部)

小説 探偵・荒倉牙人 殺人レッスン(三部作の第一部)
「GOKUHA(ごくは)」という企業が実質的に支配する街「亜久斗市」にやってきた私立探偵・荒倉牙人。彼は大物芸人ナゴミヤかずじのストーカーの身元を割り出すように依頼されるが、その背後には恐ろしく、そして虚無的な陰謀が潜んでいた。パラレルワールドの1995年日本を舞台にした、爽快(?)やけくそハードボイルド私立探偵アクション。
(2015年2月9日、大幅改稿)

イヤでしょうがないが、自作解説をする。
正直、本作の出来は「三部作」という意味ではあまり気に行っておらず、本当はピクシブから削除してしまいたいのだが、知り合い二人にだけ、ほめてもらったのでそのまま残している。
本作に関しては、作品の出来不出来とはまったく関係ない、ある書きたいことがあるので、ここに書いておく。

・その1
本作の執筆動機は、ツイッターか何かに「小説の中で気に食わない登場人物を皆殺しにしてやりたい」と書いたところ、「そういうのはよくない」的なレスをもらったところから来ている。
(別にそのレスをくれた人を、非難したいわけでは、もちろんない。意見はあくまで意見である。)

マーベルの方は今ひとつよく知らないのだが、少なくとも映画「バットマン」(とりわけ「ダークナイト」)では、バットマンは人権主義者、人道主義者である。
なぜなら、「ダークナイト」は、ジョーカーをぶち殺してしまえば終わる物語だからだ。まあ観ればわかることだが……。
バットマンは基本的に悪人を殺さない(確か、殺した話もあるはずだが)。それはおそらく、アメリカが死刑廃止の国であり、アメリカの(建前としての)人道主義にのっとっているからである。
アメコミのことをよく知らないまま想像で書いてもうしわけないが基本的にバットマンが銃を使わないのも、その辺が理由だろう。
(アメコミには「パニッシャー」みたいなやつがいることも、当然私は知っているが。)

私がアメコミ的な小説を書こう、と思ったとき、やはり映画版バットマンにのっとって、ヒーローは人を殺さないことにした。別に私が人権主義、人道主義なわけではなく、「バットマン」がそうだったからそうしたのである。

・その2
だから、私が「小説の中で憎いやつをぶっ殺してやりたい」とツイッターでつぶやいたとき、書かれたヒーロー小説と照らし合わせ、私が自暴自棄になっていると誤解する人がいても、不思議ではない。だから「そんな風にやけになってはいけない」と言われることも、可能性としてはあり得たし、今後もあり得るだろう。

だが本当に、小説の中でも人は殺していけないのだろうか?
ここで問題になってくるのが「露悪的に人を殺す物語」の存在である。
「露悪的に人を殺す物語」には説明がいる。
物語内において「死」が記号として、あるいは娯楽として扱われるということはとくにめずらしいことではない。ミステリがそうだからだ。
ミステリも多様化しすぎてひと言では言えないが、基本的には古典的ミステリにおける「死」は、まず最初に「解かれるべき謎」としての役割がふられる。その後、その「死」が多くは人道的になにがしかの意味が付与されるが、とにかく「謎」の中心として「死」があるわけだ。

次の段階として、スプラッタ映画、スラッシャー映画などの存在がある。これらは完全に、オモチャのように人体を損壊し、人を殺す。
古典的「ミステリ」は、死が物語の出発点だが、スプラッタ映画、スラッシャー映画は「死(殺人)」そのものが物語の推進力であり続ける。
そこには、「肉体」も物質にすぎず、殺人も「出来事」にすぎないというニヒリズムがあるが、そのさらに根底にはおそらくヒューマニズムに対する根本的な疑念があるのだろう。
アメリカ文化として分析すれば第二次世界大戦やベトナム戦争の虚しさなどが浮かび上がってくるかもしれないが、それはまた別の話だ。

・その3
そしてそのさらに後に、「バトルロワイアル」を発端とした「デスゲームもの」がある。厳密に言えば「バトロワ」が最初ではないのだろうが、とにかく「デスゲームもの」は、いまだに人気のジャンルだ。
「デスゲームもの」の、スプラッタ、スラッシャー映画との違いは、「自分も加害者になるかもれない(というか、生き残るためには確実にそうなる)」ということが、物語のシステムとして組み込まれているということだ。

スプラッタ、スラッシャー映画で被害者でいられた登場人物は、「デスゲームもの」では、自身が加害者であることをも強制的に受け入れさせられる。
しかし、そこには人間の「生」に関する実存的な問いも答えもまったくない(ある作品もあるのかもしれないが)。

なぜなら、「ゲーム」だからだ。
ここでは戦争を国家のせいにもできず、不条理な殺人に対する被害をゆがんだ社会のせいにすることもできない。
ただひたすら絶対的な「相手を殺さなければ生き残れない」という事実が、(ゲームの枠内で)あるだけである。

「物語の中で人をぶっ殺してはいけない」と思う人は、最近ではこの「デスゲームもの」を思い浮かべて言う場合が多いのではないだろうか。
私自身も、デスゲームものの中のゲームが、作者が都合のいいようにつくりあげた「ゲーム」にすぎない以上、そこで提示された「殺さなければ、生き残れない」という原理は茶番にすぎないと思っている。
はっきり言って、ほとんどのそのテの作品はその「つくりもの性」において読んだり観たりしたら不快になるだけだろう。

・その4
もうひとつ、昨今の「デスゲームもの」の隣接ジャンルとして、「人を殺すことなんかなんとも思っていない、倫理観の壊れた人を主人公とした作品」がある。
まあこちらの方は、超時代的にいろいろあるのだが、昨今の作品の特徴としては「安易な人道主義に対するアンチテーゼ」を掲げた作品が多いということになるだろう。
たとえば「戦争帰りの兵士が、殺人にマヒしてしまい犯罪を起こす」とか、「貧困のせい」だとか、そういうのとは違う。言ってしまえば「平和ボケ批判」みたいなところがあり、平和ゆえに殺人をなんとも思わない怪物じみた人間が出現した、というテーマの作品群である。
もちろん作品にもよるが、私はこちらのテーマを扱ったものも、あまり好きではない。

「怪奇大作戦」に「かまいたち」という名エピソードがある。まったく無意味な殺人を扱ったドラマとして有名だが、この作品の犯人の動機はまったく語られないが、今観ると「日本が戦争を起こし、終わらせ、平和を手にした」という「欺瞞」に対する抗議めいたものは読み取れる。
戦後日本は平和と同時に、成功者以外からは生きる目標を奪ったのではないかという、あまり表だって口にはできない異議、である。

ところが、最近のフィクションにおける「人を殺すことをなんとも思っていないキャラクター」は、その誕生の理由さえ明確ではない。(「ダークナイト」のジョーカーは、バットマンに対するアンチテーゼとして構築されているので、また別である。)
いわば「日常」の中で「そういう人物」は猛獣のようにただ「生息」しているのであり、サバンナにライオンがいるように、彼らの存在には意味もクソもないのである。ジェイソンやフレディにさえ誕生の理由があるのだが、昨今の「罪の意識のない殺人鬼」には、それがない。
あるいは、繰り返しになるが「平和」が彼らを育てたような描き方になっている。

このテの作品が心底不快なのは、「平和ゆえに殺人鬼が誕生する」という矛盾を、無責任に、代案も提示せず、面白おかしく描いているものが多いからだろう。
戦争は悪であり、かといって平和もそのままではいられないという作中でのコンフリクトが、心底、私を不快にさせるのである。

・その5
だが私が言いたいのはそういうことではなかった。
私にとっては「デスゲームもの」や、平成に入ってからの「罪の意識なき殺人鬼」は、存在自体がニセモノなのであり、「正義とも秩序とも人道主義的観点からは言えないが、しかし単なる思いつきや復讐とは違う殺人」もあり得るのではないか、ということが言いたかったのである。

だが、結果的に小説 探偵・荒倉牙人 殺人レッスン(三部作の第一部)は、ハードボイルド探偵ものとしても、「殺人ありき」としたエンタメとしてもあまり成功できなかった。
何より大きいのは、自分が別に書いているアメコミヒーローものとの差別化がうまくできなかった。

だから、失敗だったと思っている。
でも、読んでね(笑)。

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