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【特撮映画】・「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド」

映画「進撃の巨人」の続編(完結編)。
私は、【特撮映画】・「進撃の巨人」前編は少なくとも、ボンクラ童貞の成長物語である(ネタバレあり)というエントリで、できるだけ「前編」はフォローしたつもりだ。
それは、まず「前編、後編」の映画で、後編はすぐに公開されるから、最後まで観て評価しなければならない、という理由がひとつ。
もうひとつは、私がたまたま観た「進撃の巨人」前編批判のブログが、(おそらく)男性の書いたマッチョ批判、男性嫌悪からなっているテキストで、さすがにそれはねえだろうと思ったからである。

ネット上の映画評は、性差、ポリティカル・コレクトネス、フェミニズム評が、増えた(あるいは増えたように感じる)。
私自身、男女が平等になるのにやぶさかではないが、映画の最重要課題は「男女が平等に表現されること」とは言いきれない。
映画の出来不出来を、いちばん最初に「男女描写が平等か」で判断するのは、前から何か変だと思っていた。
映画の中のさまざまな表現の中で、男女が平等に表現されていればそれに越したことはないが、可能性としては男尊女卑でも女尊男卑でも、傑作という映画はありえるし、なければならない。
映画づくりは、「いかに近代的か」を表現するゲームではないのではないか?
実際、「マッドマックス 怒りのデスロード」でもまず最初に性差問題から入るレビューが多く見られたし、とくにマッチョイズムに支配されがちなSFアクションに、そういう批評が目立ってきたのだ。

・その1
だが、「進撃の巨人」前編が、「口ばっかりで夢ばかり大きい少年の成長物語」であったことは明白であり、しつこいくらいに言うが、そこで水崎綾女演じる女性兵士に筆おろししてもらおうがもらわなかろうが、そんなことは小さなことにすぎない。
最近はそうでもないが、少年の成長を描く場合、どうしても「童貞喪失シーン」を入れなければならない時代があった。それが古いと言われればそれまでだが、本作が架空の時代を扱っている以上、そのような「風習」が本作の世界内に残されていても、なんら不思議はない。

「主人公が最初に恋人と結ばれていない」というのが不満というのは、まあわからないではないし、「男の子に筆おろしさせてくれて、なおかつあとくされのない女性」が、旧態依然とした社会の中で疎外された存在なのではないか、という批判も通るだろう。
だがやっぱり、本作で、水崎綾女の扮する女性兵士はそこまでストーリー全体に問題をおよぼすようなキャラクターではなかった(演技は体当たりだった!)。
しつこいようだが水崎綾女はイイ女だ! おれが言いたいのはなんだかんだでそれだけだ!!

そんなことをいちいち言っていたら、映画「みんな!エスパーだよ!」をどう評するのか。
「豊橋市民が超能力でみんなエロくなる」という設定だが、男性観客の目の保養のために、意図的にカワイイ女の子しか出てこない。そして彼女たちはみんな水着になる。だが、男はできるだけ脱がない。
だから男女不平等だとぬかすアホが、出て気やしないか不安である。

・その2
やっと「後編」の話に移る。ネットではすでに、悪夢であった実写映画版「デビルマン」並みの「人間狩り」が行われているほど評価が低い。正確に言えば、「素直に楽しめた」という意見もあるのだが、やはり批判のテキストの勢いが印象に残ってしまうのだ。
私も観たが、とくに「ネタばらし」、「人間ドラマ」、この両者の演出がひどい。巨人同士の戦いは、迫力があったとは思う。
だが、「巨人同士の戦い」というクライマックスまでに至るドラマがひどすぎて、困惑してしまうのだ。

最初にお断りしておきたいのは、私は樋口監督は好きな監督であるということである。
今まで新作を見続けてきて、まあ大傑作というのもないが「どうしようもない駄作」を撮ったこともない。この「中途半端な低空飛行」感にいらだちを覚えている人もいるのかもしれないが、でも私は樋口監督の映画の全体のルックは常に嫌いじゃないのである。
それは本作の「前編」もそうだ。

だが、「後編」の「エンドオブザワールド」は違う。
ダサい、ダサい、ダサい、ダサい、ダサい描写のオンパレードだ。かっこつけた男が(「かっこいい」ということを表わそうとして)高そうな酒を飲んでいる、真っ白な空間で目が覚めると旧式のジュークボックスが音楽を奏でている、そして石原さとみの演技は浮きまくっている。ここはたぶん石原さとみに全責任があるわけではなく、演出をつける側の問題だろうけれども。

・その3
こういうことはあまり言いたくないのだが、樋口監督はもともと「映画を通して、何か訴えたいこと」が何もない人なのだと思う。それはいわゆる職人監督とも違う。おそらく本当にそうなのだ。
確かに、テーマ、テーマとうるさい映画は、お説教くさくてうざいだけだ。だが、あまりにテーマがないというのも、「じゃあこれ、いったい何のためにつくってんの!?」と言われてもしょうがないだろう。
こうした「テーマのなさ」が今まで、樋口作品の中でいちばん大きく表れてしまったのが、「隠し砦の三悪人」だと思う。
確か「スターウォーズへのオマージュで行こうと思った」とインタビューで語っていたが、もともとスターウォーズの元ネタになっている「隠し砦の三悪人」を、もう一度スターウォーズとして撮る、ということにいったい何の意味があるんだ!?
それこそオタクが悪い意味で、だれにもわからないパロディを作品にしのばせるのと同じではないか。
リメイク版「隠し砦の三悪人」を観る観客のほとんどは、スターウォーズのことなんか知らないのだから。

「進撃の巨人」のプロットは、ネタをばらしてしまえばオールドスクールなSFである。特権を持ち真実を隠す支配者、それに抗しようとする者たち。
だがこうしたいわば「ベタ」に生命を与えるのは、送り手がテーマをどう受け止め、魂を吹き込むかにある。今回、それがまったくなっていなかったことが、悲しい。

こうした「オタク(正確には第一世代)とテーマ」という点に関しては、まだまだ言いたいことがあるのだが、気が向いたら書く。

なお、町山智浩氏がどういう関わり方をしたのかよく知らないので、その点は言及しないことにした。

それと、映画のひどさを製作者側の人格攻撃に転換させるのは、かなりみっともないと思うよ。

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