【書籍】・「宇宙戦艦ヤマトをつくった男 西崎義展の狂気」 牧村康正、山田哲久(2015、講談社)
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ご存知、「宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサー、西崎義展の評伝である。
内容は、ひと言で言って「映画やマンガに出てくる典型的な辣腕プロデューサーが現実にいて、なおかつ彼はかなりダーティーなこともやっていた」ということに終始する。
彼の「アニメ業界人」としての異質さは、ヤマトを一度でも好きになったことがある人なら感じるところでもあり、その背景については非常に興味深かった。
少しでもヤマトが好きなら、一気読みしてしまう面白さである。
以下に語るのは、そういう「才能はあったがワンマンでダーティーな西崎義展」という面とは無関係だ。
ぶっちゃけ、「彼にストーリーづくりの才能はあったのか?」という私的な疑問である。
・その1
「宇宙戦艦ヤマト」シリーズに関してはさまざまなツッコミがなされているが、やはりいちばん大きいのは「さらば」の特攻問題と、特攻したにも関わらず、シリーズがそれ以降も続いた、ということだろう。
まず本書を読んでいちばん驚くのは、西崎氏が「さらば」で本当にヤマトを終わらせようと思っていたと言う点である。
「宇宙戦艦ヤマト」という、とんでもないコンテンツを手放してでも、自分にはもっと別のヒット作がつくれるという自負があったのか。
だが、私がリアルタイムで子ども心に、「え? もう終わりなの?」と思ったくらいだから、やはり当時の常識でもおかしかったのではないか。
「さらば」では「これでヤマトは終わり」ということと、「登場人物がみんなしぬ」ということが、公開前の売りではあった。
だが、普通にパート2として公開し、さらに「パート3」の続編をにおわせたとしても、やはりヒットはしたと思う。
ここのところが、今でもひっかかる。
その後、「永遠に」だったか、沖田艦長までが生き返って来てしまう。これも物語をブチ壊しかねない復活劇だったが、まあ、そういうことになった。
その他、「ブルーノア」では「海で何かを取りに行く話」、「オーディーン」も「宇宙を飛ぶ船の話」で、プロットだけ聞いても「ものすごく違ったことをしている」という感じがない。
・その2
本書を読むと、西崎氏は周囲がウンザリするほど会議、会議の連続で話をまとめていく、現場に何にでも口を出す、ということだそうだが、そのわりには、できたものはみんな似たようなものばかりである。
「現場のスタッフが、メチャクチャにならないよう必死にまとめた」ということも考えられるが、それにしても、できあがったものがまとまりすぎている。
話を古代と雪の死、そして沖田の復活に戻すが、「殺したキャラクターをどう生き返らせるか」は、「ドラゴンボール」のようなファンタジックな設定ができる前は、「ヤマト」にかぎらず、マンガ、アニメ界では大きな問題ではあった。
たとえば「あしたのジョー」は、力石のインパクトが大きすぎ、力石の死後も面白いが、力石が死んだことによって失ったのはかけがえのないものだった。
しかも現代劇だから、どうひっくり返っても生き返らせようがない。
「サイボーグ009」は、「地下帝国ヨミ編」でジョーとジェット・リンクは死んだはずだったが、SF的な設定でなんとか生き返らせた。
時間は飛ぶが、こうしたジレンマは「デスノート」でも解消できなかった。「L」が死んだ後、メロとニアがLの穴を埋められたかというと議論が分かれるだろう。
それほどキャラクターの死というのは盛り上がり、また、生き返らせることはむずかしい。「聖闘士聖矢」のフェニックス一輝の設定は、「死んだキャラを生き返らせざるを得ない」車田正美の苦肉の策だろう。
つまり、「重要なキャラクターを死なせたり生き返らせたりする問題」は、何も西崎氏だけにあったわけではない。
しかし、それにしても、あまりにもいいかげんである(「永遠に」で、生まれた子どもが突然急成長するのもヒドい話である)。
・その3
「ヤマト」を、不自然ではないかたちで延命させシリーズ化させるとしたら、沖田、古代、島、森雪などの主要登場人物をヤマトと不可分のものとして、「ルパンファミリー」のように「ヤマトファミリー」として扱うか、
「ヤマト」という宇宙戦艦に乗りこむ人々を入れ替え、古代や雪の子や、孫の代まで描こうとする「宇宙年代記」的な扱いしかなかったと思う。
実際、主人公を変えずにシリーズ化したアニメも存在するし、「ガンダム」は主人公を変えてシリーズ化した。
松本零士的センスで言えば、主人公と宇宙戦艦は不可分のものだったろうが(松本零士のマンガ版「新宇宙戦艦ヤマト」ではそうした考え方だった)、決定権は西崎氏にあったことは本書ではっきりしているから、変えればいいだけのことである。
本書では、「個人プロデューサーの嚆矢」として西崎氏を讃えているが、「毎回あまりにも一発勝負」であるところが、「ヤマト」が毎回、まいかいの一発勝負のように感じられ、長期シリーズ化できず、「宇宙年代記」化できなかった理由ではないかと思う。
そう考えていくとやはり、「テレビ版宇宙戦艦ヤマト」から「さらば」までの中に、西崎氏の可能性と限界が同時に存在していたとしか思えない。
正直、本編を観ると、「このレベルのプロットでは、たくさん会議した甲斐もない」と言わざるを得ないのだ。
・その4
そこで気になるのが、西崎氏のSFマインドだ。ブレーンにSF畑の人を呼んでいたのは知っているが、そのアイディアを採用しなければ、いてもいなくても同じである。
いつまで経っても、何度やっても永遠に仕切り直しているような印象がある「宇宙戦艦ヤマト」において、おそらく西崎氏はSFマインドはまったくなかったに違いない。
そこら辺が掘り下げられていないのが、本書に対する少し不満な点である。
なお、「ヤマト」内の人間関係が疑似家族的というか、高度成長期の中小企業みたいだというのはよく言われる話なのだが、本書を読むと西崎氏は父との関係が最悪で、自分の妻子のところにもなかなか帰らなかったという。
それじゃあキャラの家庭ばなしなんかも書けないし、子や孫へと語り継ぐ、なんて展開もできないなあ、などと思ってしまったのだった。
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