・「修羅の門」(31) 川原正敏(1997、講談社)
月刊少年マガジン連載。
千年にわたり継承され、不敗を誇る架空の古武術・陸奥圓明流の継承者・陸奥九十九が、さまざまな武術、格闘技と戦うさまを描く。
18年前にいったん終わった作品の感想を描くのが、オレ流。少々ネタバレありです。
なお、2010年から始まった続編「第弐門」については、いっさい読まないまま、感想を書きます。
・その1
本作は、私の知るかぎり、「グラップラー刃牙シリーズ」、「高校鉄拳伝タフ」と並んで、90年代の格闘技マンガの三本柱の一つと言っていい作品なのではないかと思う。
本作の最大の特徴は、「バキ」のように「強さ」を臨機応変であることと個人の天才性に帰結させず、「タフ」のように、段階的に習得される必殺技に頼るのとも異なり、個々の架空の技を創出しつつも、「陸奥圓明流」という体系だった架空の武術に収れんさせようとしたこと、と言うことができる。
まあ実際は個々の技に矛盾があるのかもしれないが、少なくとも作者は矛盾がないように、と描いているはずである。
個人的には、「修羅の刻」との関係性などに関して「どこから読んだらいいのか?」がわからず、大幅に「バーリトゥード編」を読むのが遅れてしまったのであった(それまでのシリーズは、読んでいた)。
・その2
90年代半ば以降の格闘技マンガは、現実の格闘技界で起こった「グレイシー・ショック」にどう対応するかが求められることになった。言うなれば、梶原一騎が格闘技界をフィクションでコントロールしようとしていた60~80年代とはまるで違う状況である。
つまり「もしもグレイシー・ショックのときまで梶原一騎が格闘マンガ原作者として君臨していたら」という「もしも」も成り立つのだが、ややこしくなるのでここでは置く。
とにかく、格闘マンガでは「グレイシー柔術」および「バーリ・トゥード」(なんでもあり)に関して、さまざまな解釈が生まれた(グレイシー柔術に関しては、各自調べてください)。
えーとまあ、そんなことをダラダラ書いててもしょうがないのでまた置く。
私がわざわざ、かなり前に「完結」した作品の感想を書こうと思ったのは、本作のあとがきで、読者から「なぜレオン・グラシエーロ(バーリ・トゥード編最大のライバル)を殺したのか?」、「殺人者がいちばん強いなどと言わないでほしい」という、抗議めいたファンレターに、作者がショックを受けたというくだりを知ったからだ。
まあ、実はそのことは知っていたのだが、31巻まで読みとおすとまたそのことに関する私の感想も変わって来るのである。
・その3
どうも話が先に進まないな。
この「あとがき」の中で作者は、「活人拳に対するアンチテーゼを書きたかった」、と言っているのである。
他の格闘技マンガ、格闘技を題材にした作品でも、「活人拳」がテーマになっているものは数多い。
「姿三四郎」が確かそうだし、「柔道一直線」は足でピアノを弾いていたことしか記憶にないが、同じ梶原一騎原作の「柔道賛歌」も、「殺人柔道」みたいなやつと対決(イデオロギー的には否定)していた覚えがある。
「空手バカ一代」も、「カラテ地獄変」も、相手を殺すことが目的ではなかったはずである(梶原格闘マンガは、実はちょっとあやしいのだが、詳細は置いておく)。
「コ―タローまかりとおる!」は、完全にヒューマニズムの世界であることは、思い出してもわかるだろう。
ウィキペディアで調べると「姿三四郎」は戦前から始まっているが、そもそも「柔道」自体が、ルールを整備して競技化しようという理念でつくられているから、どこか明治の近代化の、晴れ晴れとした部分とくっついている。
つまり、「活人拳」というのは「切った張ったの世界はもうやめましょう」ということであり、それはそのまま、日本が太平洋戦争に負け、アメリカの指導する「近代化」とつながっているのだ。
簡単に言えば、平和な時代の理念なのである。
(だから、「戦後思想」に従わない男塾塾生は、殺し合う。生き返るのは、単なる連載上の都合にすぎない。)
・その4
戦後、「殺人」を肯定している作品について考えてみると、真っ先に浮かぶのは格闘技の作品ではないがドラマ「必殺シリーズ」だろう。
「必殺シリーズ」は、青空の下、明朗闊達に人を切り殺していた「それまでの明朗時代劇」を「古い世界」とし、秩序だった世界では「殺人」は悪であると規定した。
しかし、それでもなお、悪人は殺されるべきである、と考え、殺す。
それが仕掛人、仕事人たちであり、お天道さまの下を歩けない、日蔭者として描かれたのである。
いわば「活人拳」は、戦後ヒューマニズムの拳として、日のあたる拳として存在し、
「殺人拳」は、エンターテインメントの世界では、「それでも必要なこともあるのだ」という「必要悪」として、存在した。
ちなみに「刃牙」シリーズでは、刃牙の父との決定的な意見の相違は、刃牙がヒューマニズムに目覚めたからである。
徹底的に殺しつくす範馬勇次郎とはそこが違うし、一種の「キャラ」としてユーモアさえ持ち始めた勇次郎だが、どんなに人間らしくふるまってみても、結局はバキとは違うのだ。
一度和解しているが、それはあくまでも「親子」として認めたにすぎない、と私は解釈している。
日本の戦後男性向けエンタメには、このような「ヒューマニズム」と「反ヒューマニズム」のせめぎあいがずっとあると言っていいい。
(あとは「ドラゴンボール」のように、ファンタジーの世界でうやむやにするしかない。たとえばピッコロ大魔王やフリーザを倒すことが、通常の意味での「殺人」かどうかは、よくわからないだろう。)
さて、「修羅の門」では、レオン以前に、不破北斗という男を主人公の九十九は試合で殺している。
実はこのくだり、かなり前に読んだのでサッパリ忘れてしまったのだが、不破北斗はどうしようもない悪人として描かれていたはずで、だからこそ、試合の結果死んでしまっても、読者の反発は少なかったのだろう。
作者は31巻あとがきで、「活人拳」に対するアンチテーゼを描きたいと言っておきながら、「殺人拳が正しいというつもりもない」と言っている。これは、矛盾である。
つまり、「修羅の門」は、本質的に「ヒューマニズム」と「反ヒューマニズム」のせめぎあいを、根っこのところで内包していた、と言っていい。
・その5
不破北斗は悪人だったから、殺されてもなんとも思わない。しかし、レオン・グラシエーロは、どっちかというと「いい人」だったから、死んでしまったら悲しい。
一通のファンレターによって、長らく「修羅の門」は中断したことになっており、それに対して怒っている人もいるのだろうが、しかしこうした感想は、ごく普通のように思う。
確かに、レオンは窮地におちいっているわけでもないのに過去に試合相手の首を折って死なせたことがある、という設定になっている。
そうした暴力性を持った人間だったから、全力を尽くして戦い、九十九に殺されても本望だったはずだ。
そういう解釈は、成り立つ。
成り立つことは成り立つのだが、やはりモヤモヤとする。とくに貧しい子どもたちのヒーロー的存在であり、それが殺されてしまった、子どもたちの希望を打ち砕いてしまったというのは、どうにもおとしどころがむずかしい。
というか、大人ならまだしも、子どもが貧しいことに関して、その子どもだけの責任かという疑問も残る。
九十九がラストシーンで、子どもに「戦って生きろ」みたいなことを言うのも、何かごまかしているように感じてしまう。
何が言いたいかというと、戦後日本において、「必要悪としての殺人」でもなく、「戦った結果としての死」でもない中途半端さが、レオンの死に感じられてならない。というか、「活人拳」に疑問を持ちつつ、「殺人拳」をも否定したら、レオンのようなキャラクターとの戦いのラストが中途半端になるのは、当然とも言える。
しかしこうしたひっかかりは、たとえば実にあっさりと烈海王を宮本武蔵に殺させてしまった「刃牙道」と違い、貴重であるとも言えるかもしれない。
本作の「完結」から18年くらい経ってしまった。今、どこでも、18年前以上にヒューマニズムの時代である。
いわゆる「デスゲームもの」が反ヒューマニズムとしてちょこちょこ出てくるが、あんなものは「思想を失った、露悪的な殺人ゲーム」にすぎない。「殺人拳」のような「理念」すら失われてしまっている抜けがらだと、私は解釈している。
また、格闘技が必ずしも、「野蛮さ」とイコールではなくなってきているとも言える。もはや、実際の格闘技でも、「どれだけ路上のケンカに強いか」ということと、リングの上の戦いは別ものになっている。
こんな時代、「殺人拳」はまだ時代のアンチテーゼたり得るか?
というふうに、この31巻を読むと、つい考えてしまうのである。
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