【特撮映画】・「進撃の巨人」前編は少なくとも、ボンクラ童貞の成長物語である(ネタバレあり)
監督:樋口真嗣、脚本:渡辺雄介、町山智浩
あらすじは適当にググって調べてください。
本作は前編、後編と分かれているため、後編を見てから何か感想を書こうと思っていたのだけれど、たまたま私の嫌いなパターンの評論を目にしてしまったので、書かざるを得ないと思った。
・その1
私が嫌いなのは、「PC(ポリティカル・コレクトネス)的にどうか」という観点が最初に持って来られるタイプの評論である。
「マッドマックス 怒りのデス・ロード」が「一般的に男しか見ないような」バイオレンスもののわりには、非常にPCに気を遣ったというか突き抜けた感のある作品だったせいもあるのか、従来、「男しか見ないような作品」でもPC、とくにジェンダー描写には、ネット上で非常に多くの「ものいい」がつくように感じられる。
監督の樋口真嗣は、パシフィック・リムにおいて「おれならもうちょっと女性パイロットをエロくとる(大意)」みたいなことを言っていたということで、炎上気味になった過去も持つ。
彼が「男しか喜ばない(と思われていた)映画」が大好きなのは、その主張からも明らかで、そこは否定しない。
しかし、話題になったトゥゲッターのタイトルのように「パシフィック・リムは女たちのものではない!」と発言したわけではない。
現在、「パシフィック・リムは女たちのものではない!」のトゥゲッターは非公開になっていて、それを確かめることができないのだが、私の記憶ではそうだった。
この際だから言っておくが「パシフィック・リムは女たちのものではない!」というトゥゲッターはアジテーションとしては巧妙だった。まずタイトルが絶妙である。そのまま言ったわけではないが、まあまとめたらそうなるよな、というレベルのギリギリのところである。
そして、意図的なのか結果的なのか知らんが、現在非公開だから、ツイート欄で樋口監督がそのように言ったのか、確かめようがない。
何が言いたいかというと、かなりまとめ主の意図的なリードがかいまみえるのである。
まあ、そのことはいい。
その後も、ネット上では「20年くらい前なら、まず女性が見ないような映画」をわざわざ観に行って、ジェンダー描写がまともであるかどうかをいちいち図るツイートがいくつもいくつも流れてくる、というひとつのパターンができあがってしまっている。
まあ私もおっさんなので、はっきり言って嬉々としてパシリムを見にいった女性は知り合いに一人しかいないという世代であるが、お客さんが不快にならない描写をするのは、客商売として当然だとは思う。
だが、作品評価として、よほど女性差別的な内容でないかぎり、真っ先にジェンダー描写の是非が来るということにも、疑問を感じないではない。
(逆に言えば、「マッドマックス 怒りのデスロード」の評価点は男女の描写だけなのか、ということだ。それは違うだろう。)
もともとマンガの「進撃の巨人」というのは、女子も読むだろうが、女子向けというわけでもないよな、という微妙な立ち位置の作品だった(「少女マンガ誌でこの企画は通らないだろう」というほどには、男の子向けな作品ではあった)。
そこに、アニメ化によって一気に「キャラ萌え」の要素が付け足され、大々ヒットにつながった。
実写の俳優、女優を起用する段階で「キャラ萌え」要素が生き残るわけがないのだが(映画版「僕は友達が少ない」を観よ!)、アニメで獲得したファンが実写映画化されたものを観に行くのは当然であり、そんなわけでまたぞろ、「PC的にありかなしか」を「筆頭とする」評論がネット上に出回ることになる。
・その2
それでは、私がたまたま読んだネット上の「進撃の巨人」評で、首をかしげたところを列挙していく。
まず本作(映画版)のエレンが、「ミカサを守れなかったので巨人と戦うことを決意した」のは間違いないが、それだけではない、ということ。
実際、エレンが「巨人化」するのはミカサを助けるためではなく、最終的にはアルミンのためだった。エレンがあくまでも「ミカサを守りたかった」ということに固執するなら、ここはおかしいということになる(つまり、エレンが戦う動機はミカサがすべてではない)。
そもそも、巨人出現前、エレンは「壁をぶっ壊して外を見てみたい」的なことを言っており、そんな大口をたたくわりには地道な仕事も長く続かないことから、「見果てぬ夢を見ているボンクラ」という設定になっていることがわかる。
ここは原作にもない点である。原作のエレンは、もう少し社会に適応しており、なおかつヒロイックなのだ。
しかし、本作のエレンはそうではない。
確か原作では、彼が巨人と戦う決心をする母親の死は完全な不可抗力だった。
本作では、小屋みたいなところに隠れているとき、他の大勢の避難者の「余計なことをして自分たちを巻き込むな」という視線や、エレン自信の度胸のなさでミカサを見殺しにしたことになっている。
つまり、「勇気がなかった」ことが強調されている。
名前は忘れてしまったが、巨人を見たことはないが巨人におびえる兵士たちをバカにする青年としょっちゅうケンカするのも、エレンは自分に自信がないからだ。
ミカサがシキシマという先輩兵士だか上官だかと男女の中にあることが示唆され、落胆するエレン。
ここで「ミカサはおまえのものじゃないんだ」と怒っているレビュアーがいたが、私としては「好きな女が、他の男とできていると聞いて、落胆しない男がいるのか?」と問いただしたい。
もちろん、戦時下であり、ミカサはエレンの彼女でも妻でもないのだから、「まあしょうがねえよな、見殺しにしちまったんだし」とわりきれる人もいるのかもしれないが、エレンもミカサも、二年前にピエール瀧に「子ども」と言われている年齢であることに留意されたい。
あんまり「童貞映画」とか「このキャラは童貞」とかって言葉は使いたくないのだが(童貞を捨てたら大人、という考え自体が男性中心社会においてはその構成員である男性にとっては抑圧になるため)、ミカサがシキシマとできていることを知ってエレンが落胆したのはミカサが好きだったからだけではなかろう。
つまり、エレンは童貞なのである。
だからこそ、エレンは戦士として成長し、恋愛とセックスを経験して大人になったミカサを、余計遠くに感じるのである。
原作では巨人によって母親を殺されたことが、エレンの「巨人と戦う大きな動機」になっている。ここが改変されているところに文句を言う人も多いようだが、製作者サイドがなんと言っているかは知らないが、「童貞が一人前になる映画」をつくるのであれば、「母の死」を動機として持ち続けることは、うまくない。
むしろ、母親と決別しなければならないはずで、だからこその改変であるはずだ。
・その3
次に、ネット上で批判されていたのは水崎綾女演じる人妻兵士・ヒアナの描写だが、この件について。
まず、ヒアナは「赤ん坊の声が聞こえる」と言って、命令に逆らって隊を離れてしまう。
ここ、「女は思慮が浅いから部隊を危機に追いやったんだ」という、性差を非難するような描写だったのだろうか。
私は違うと思う。
そもそも、映画内で結成された部隊は、人材難により寄せ集めということになっている。
先ほど書いた、新参の兵士を見下す男、食い物のことばかり考えているサシャ、二年前、巨人に遭遇してから飲んだくれになってしまったピエール瀧、これから戦争に行くというのにイチャイチャしている恋人同士の兵士など。
みんなどこかに足を引っ張る部分がある。男も女も。
(そもそも、リーダーは女性の石原さとみであり、やや狂気をはらんではいるが「優秀」という設定になっている。)
だから、ヒアナがことさらにマヌケであるとか、「女」を全面に出したから危機に陥ったとか、そういうふうには思えなかった。実際、ヒアナは、明確に他人を見下す男の兵士を冷静に見つめている。
次に、ヒアナには「子どもはいるが夫はおらず」、エレンを性的に誘惑し、「子どもの父親になって」と言うところ。
ここも、ヒアナが女であるがゆえに狡猾であるとか、淫乱であるとか、そういう描写なのだろうか?
やはり違うと思う。
ここで考えられるのは、童貞・エレンが童貞を捨てるための「初めての相手」としての役割である。
昔の青年マンガでは(今でもそうかもしれない)、いかに社会的に一人前であっても、童貞であれば価値が二段も三段も下がる、あるいは逆に、童貞ではいい仕事ができない、という思想がある。
そのこと自体が、男性社会の構成員の男性にとっては抑圧ではあるのだが、たいてい映画評をするジェンダー論者は、女性がオモチャになっているような描写は指摘しても、男性のこういう描写は指摘しないことが少なくない。
で、本作が「ボンクラだったエレンが、巨人の出現とその戦いを通して一人前になってゆく」というテーマを持っているなら、エレンの童貞喪失は、ジェンダー描写として批判されうるとは言え、欠かせないイベントではある(たとえば、「刃牙」シリーズでは、作者の板垣恵介は刃牙の童貞喪失シーンを、セックスを描ける青年誌に移してまで、単行本1巻ぶん、書いた)。
ここで、「女は男のステイタスを高めるための道具ではない」と指摘し、批判することは、ひとまず可能である。
そういう意見があるとしたら、まあ正論だ。
しかし、その際には「間違い探し」のような批判ではなく、「男が一人前になるにはどうしなければならないかという社会的要請を肯定的に描くこと自体がおかしいのではないか」という、総論的な批判が必要になってくると思う。
さて、そんなこんなだが、ではヒアナはエレンの筆おろしをしてくれるのか。
というと、コトの最中(直前?)に、巨人に食われてしまうのである。
ここ、計算なのか何なのか、全年齢向けだからセックスが描けないということなのかわからないのだが、とにかくエレンの「初体験」は失敗する。
ちなみに、彼女でもなんでもないミカサに男がいるからって、なんでそんなに落ち込むんだ、という意見の人がいたが、こういう人は異性を好きになったことはないのだろうか。
好きなアイドルの熱愛が発覚したってテンションが下がるのが人間である。ましてやそれが好きな幼なじみだったら、(ミカサの側からすれば知ったことではないとは言え)エレンが落ち込んだり、セックスしたくなったりするのは当然のことである。
とにかく、ここでエレンがセックスしないのが計算なのかはわからないが、その後、物語終盤近くでエレンが巨人の腹に飲まれたとき、巨人の胃の中でヒアナの死体を見てしまう。これがエレンの巨人化と関係あるのは、間違いないだろう。
このシーンでも、エレンの「戦う理由」が「ミカサを守れなかった」ということだけではないのがわかる。
・その4
そもそも、原作マンガの「進撃の巨人」は、ジェンダー描写がないというか、男と女の明確な差、恋愛描写などはあまりないことはたまに指摘されている。作者は何かのインタビューで「いちいち、男らしさ、女らしさを強調すると描くスペックが増えて煩雑になる」というようなことを言っていた。
実際、原作において性差が描かれない理由は、おそらくそのとおりなのだと思う。意図的に「差別にならないように」と思って描いているわけではないだろう。
樋口真嗣や町山智浩が、旧来のおっさんくさい価値観を持っていることは、それはそれで間違いないだろうが、では原作者がジェンダーにおいて先進的な考えを持っているかどうかは、わからない。
だから、「原作ではこうなのに映画版ではこうだ」みたいな理屈は、本作のジェンダー描写批判に関しては説得力に欠ける。
それとものすごく気になったのが、「ポリティカル・コレクトネス」は、作品の表現を広げることはあってもせばめることはない、というもの言いだ(そういうことを書いている人がいたのである)。
私は、そこまで能天気にはなれない。
PCと、作品の「面白さ」とか「深さ」みたいなものが、コンフリクトを起こす場面というのが必ずあるはずである。
これはとくに「笑い」においては顕著で、ギャグの領域にPCチェックを貼りめぐらせたら、かなりの領域でお笑いは死んでしまうだろう。
ハリウッド映画では、よくサベツネタを目にするので、その辺とPCの問題はかなり話し合われているのだろう(ぜんぜん知らないが、そうとしか思えない)。
・その5
話はやや本作からそれるが、町山智浩が「女性でマニアックな趣味を持っているのは彼氏の影響」みたいなことをネットに書いて、一時炎上した。そのこととも結びつけて「町山はPCがわかってない」みたいなことを書く人がいるが、それも疑問である。
町山智浩は、以前、ラジオの電話出演のコーナーで、妊娠した女性の話題になり、ラジオパーソナリティーが「そういえば、最近、妊婦で外に出ている人とかあまりいなくなったなぁ」と単なる印象論を述べたとき、
「なんで妊婦が外に出ちゃいけないんですか!?」
とブチ切れた人である。「日本では一度、出産のために会社を休むと戻ってこられないから、妻の就職先を探すためにアメリカに行った」というようなことも言っていた。実際、奥さんとは共稼ぎで、子育てにもかなり協力しているはず。
そういう人が、女性を差別しようとしているとは到底思えない。
つまりこういうことである。
「進撃の巨人」を通して、「ジェンダー描写がおかしい」、「男の勝手な都合を女が押し付けられている」という批判をしたい人がいるなら、まあ止めはしない。
ただし、本作が「ボンクラなエレンが現実世界に自分の場所を得ようとする戦い」を描こうとしているなら、「ボンクラの社会的成長」と、「男女平等の描写」というのは、コンフリクトを起こしがちではある。
ホモソーシャルな集団ではセックスの経験は通過儀礼であり、コミュニティに帰属できるパスポートのようなものである。
かといってゆきずりのセックスをするには、ゆきずりのセックスをさせてくれる相手が必要であり、ゆきずりのセックスをする女性を男が描くと、フェミニズム的には「都合のいい女を創出した」とか「フリーセックスの概念を利用して性的搾取をしている」などと批判されかねないからである。
では、「童貞と処女しか結婚できない社会」ならうまくいくかというと、そんなにうまくいくはずがないのはわかるだろう。性的な抑圧を受けてきた女性が「好きな異性とセックスをする」ことも「解放」としてとらえられているから、ことはそう簡単に行かないのである。
話がやや脱線した。
本作で、ジェンダーが問題になるとすれば、今後公開される後編で、エレンの人間的成長は、どのように描かれるのか。
あるいはエレンとミカサの関係が、「恋愛のヨリを戻す」みたいな陳腐なことになってしまうのかを、見極めることではないだろうか。
・その6
私としては、本作の脚本がPC的にどうかということには、あまり興味がない。
ただし、巨人が出てくるシーンと出てこないシーンの落差が大きかったのは、否めないだろう。ドラマパートが、巨人の出現や戦いの緊張感を持続させることも、あるいは緩和させることもできていないのだ。リズムが悪いというのか。
なお「筋はないけど、『怪獣映画』としての巨人のシーンはよい」というものいいに対して、
「筋がない映画など考えられない。怪獣映画に筋がないとしても、それなら『そういう映画』として企画を通してくれ、迷惑だ」的な意見も読んだ。
実は怪獣映画に筋が必要かどうかは、大変むずかしい問題である。
たとえばカンフー映画や、音楽やダンスの映画などと同じだと考えてもらえればいい。
「ストーリーなどまったくないが、カンフーシーンはむやみにすばらしい映画」というのは、確実に存在する。
というか、80年代初頭のオタクムーヴメントが画期的だったのは、「筋はないけどすごい映画がある、そういう価値基準がありうる」ということを示した点にある、と私は思っている。
アニメや特撮のテーマ性に深く切り込んだ評論などもあり、もちろんそういうものには価値があるのだが、通常の映画、芝居などの広義の「ドラマ」の評価と切り口は変わらない。
しかし、飛行機の飛び方や、爆発の仕方や、怪獣の歩き方や、ビルの壊れ方や……そういうものにも創意工夫がなされ、映像をかたちづくる重要なファクターとなる、そのことを示したのが、最初のオタク世代なのである。
だから、そのコンテクストで見れば、本作が「サンダ対ガイラだ」、「怪獣映画リスペクトだ」という評価は、少しも間違っていない。というか、まったく正しい。
それが「ストーリーがつまらない」ことの言い訳にはならないものの、でもやっぱり「本作は怪獣映画である」という評価は出るよなあ、とは思う。
別に「本作は怪獣映画」と言っている評者も奇をてらっているわけではなく、「そういう映画」なのだから仕方がない。
最後にもう一度言っておく。
私がPCにしろ、ジェンダー描写にしろ、疑問なのは、「えっ、でもやっぱり男と女は違っていて、違うからいいんじゃないの? 平等なのはいいけれども、違うからこそ差が生まれているものが平等になる、その未来のヴィジョンというのはどういうものなんだ?」ということである。
念のために書いておくが、もちろん「男の方が力が強い」とか「女の方が神経が細やか」というようなクソどうでもいいというか俗流の「そういうこと」が言いたいのではもちろん、ない。
でも、みんな異性が自分とは違う性を持っているから付き合いたいとか、あるいは性欲をおぼえたりするのではないのかな?
「平等に描写する」ということと、「性が違うんだから文化的にもいろいろ違うだろう」ということとは、衝突する場合が必ずある。
「PCは表現の幅を広げる」などと言っているうちは、まだ甘い。
というか、人知によって区画整理されてしまえば、区画整理されたものしか出てこない。
それによって失ったものは失われて当然とするか、それともおしまれるかは、議論があって当然である。
本当に、なんとかならないものだろうか。いろいろと。
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