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【映画】・「悲しみの忘れ方 DOCUMENTARY of 乃木坂46」

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「AKB48の公式ライバル」として2011年に発足した「乃木坂46」の主要メンバーを追ったドキュメンタリー映画。

長いよ!

・その1
AKBのドキュメンタリー映画が以前から話題になっていたのは知っていたが、その露悪的な感じにとうてい観る気が起こらなかった。

AKB所属のアイドルの特殊性は、「普通のアイドル」の側面と、その「グロテスクな面」、すなわち、メンバー間の競争(総選挙)、ただの運(じゃんけん大会)、ライブパフォーマンスのプレッシャーをも描きだしてしまう、ファンが一人何十枚もCDを買う商法、などを両立させているところにある。

しかも、インテリ評論家諸子がまるでAKBのあり方を絶対的で超越的なものであるかのように扱っていることにも大いに違和感を感じた(なにせ、前田敦子は「キリストを超えた」のだから)。
さらには、東浩紀が「自分はマイナーで世の中に知られるべき、と思ったものを紹介してきたのに、自分より下の世代があらかじめメジャーなもの(AKB含む)を紹介するのを観て失望した」と言ったことにおよんでは、バカバカしすぎて空いた口がふさがらない。

東浩紀の昨今のオタク否定発言に関しては、その否定の言葉から、逆にオタクに可能性を見出していたときの無邪気さが浮き彫りになって、あきれるを通り越して本当にどうしようもないと思うのだが、話がそれるのでここでは置く。

とにかく、AKBのドキュメンタリー映画は私にとっては、観る前からそのグロテスクな一面を表現したにすぎず、また、裏面を描くことで「一見、何の芸もないように見えるけど、裏ではこんなに一生懸命やっているんだ」という、アイドルを擁護するときのよくある論調(をもとに、描かれている可能性)にも興味がわかなかった。

秋元康は、とんねるずの「雨の西麻布」や「情けねぇ」のように、「本来パロディだが、その元ネタを知らなくてもガチで楽しめる」ものを提示するのが得意だった。
話がそれるが、これはモーニング。娘の特番「緊急中澤スペシャル」などの、「流して観ている人は気付かないが、わかって観ている人には壮大なパロディになっている」という片岡飛鳥演出にも近い。
それは「とにかくいちばん鈍い観客を動かさないと、存続ができない」というメジャー大衆芸能の中に、センスエリートのお遊びの部分を、隠し玉として入れるのではなく、だまし絵のように「構造」の中に含ませるという手法である。
そういうものは「サブカルチャー」の領域にとどまった東京的というか、東京のエリート私立高校生的センスというか、そういうものからはちょっと出てきにくい方法なのであった。

・その2
そんな私がAKBから感じるのは、運営側のことを考えると、「究極のニヒリズム」である。いや、主要スタッフの方はそうは思っていないかもしれない。だが、秋元康が中心になれば、必ずそうならざるを得ない。

「シロートくささ」がテレビで「価値」であった時代。たとえば「おニャン子クラブ」はその時代の落とし子だった。かつて浅田美代子が、ドヘタな歌でデビューしたのは「浅田美代子には歌の下手さを超えた魅力がある」という確信があったからだと思う。
が、同じくドヘタな新田恵里が歌手デビューしたのは、もちろん彼女自身に当時、名状しがたい魅力があったのは確かではあるものの、どこかに「あらかじめのツッコミ待ち」の要素があった。
「ニャンギラス」などは、そこをもうちょっと確信犯的にやったしろものである。

「ニヒリスティックなものを提示しても、少女アイドルたちは希望に燃えているし、観客もそれを受け止めたいから、前向きに解釈してくれるだろう」という態度が、送り手のニヒリズムでなくて、なんだろうか。
私にとってはぞれは絶望だし、にもかかわらず、ストレートなファンだったらそれは普通の「希望」なのである。
こうした分断体制も気に食わないのだが、まあここでは置く。

余談だが、「ももクロ」が体現しているのは「ハリスの旋風」や「さわやか万太郎」や「コ―タローまかりとおる!」のような、昭和熱血少年ヒーローである。

・その3
前置きが長くなった。「乃木坂46」は、他のAKBグループと違い、「いいところのお嬢様女子高風」のルックスが売り物である。比較的、上品なのだ。
だが競争は競争、人気は人気だから、メンバーが常にプレッシャーと戦っているのは、AKBと変わらない。
しかし、本作「悲しみの忘れ方」は、もっと露悪的なしろものになると思ったら、意外とそうでもなかったのである。
生駒が緊張のあまり失神するシーンや、松村の集英社の編集者とのスキャンダルなどにも触れられているが、全体的に乃木坂の「美しさ、華麗さ」というルックスを律儀に保っている。グロテスクなものを観客に見せつけて、表面とのギャップをサディスティックに(あるいはマゾヒスティックに)楽しむという要素はない。
たとえば、乃木坂の曲には中学校の合唱部の課題曲のようなものが多いが、実際に生駒の前で、普通の中学校の合唱部に歌わせるシーンがある(別の企画でもこれに近い趣向のことはやっているが)。
この瞬間、アイドルでもトップクラスの地位にある生駒と、合唱部の普通の中学生はひとつになる。それが美しい。こういう演出は、にくい。

最後に、私が本作の意図とはあまり関係ないところで泣けてしまったシーンをしるす。
なんでも「前半自己PRで、その観客投票によって、後半は上位のメンバーしか出られない」という舞台があったのだそうだ。
その業界関係者だけを呼んだ回の舞台裏で、選ばれなかった松村が泣きながら言う。
「自分が選ばれなかったということは、私とみんな一緒に仕事がしたくないということなんだ」
と。それに対し、生駒が(うろおぼえだが)「なんでそんなことを言うんだ、松村には松村の魅力がある、そんなことを言われたらちっぽけな自分だって同じだ。でもそんなことを言うべきではない」(あくまで大意)
と、同じく泣きながらうったえるのである。

映画は、この後すぐに個々のメンバーが「どれだけの葛藤を乗り越えてやっているか」という話に移っていき、このシーンの意味は単に「プレッシャーに耐えるアイドルたち」というふうに変質してしまう。

私が感動したというか、泣けてきたのはそういう意味ではないのだ。
生駒が、思いきりネガティヴになっている松村を、必死に、うまく言い表せずとも、他人のことをいたわっている場合でもないのに、励ましていたということなのである。

私にも、励ましたい人はたくさんいるのだ。「自分の頭の上のハエも追えないくせに」と言われるかもしれないが、やはり声をかけたい人はたくさんいるし、実際、声をかけることもある。
しかし、届かない。なぜ届かないのだろうか。自分がダメ人間だから余計なことは言われたくないのか。言葉が貧困だからか。それとも根本的に、「人を励ます」ということは思いあがりなのか。
いろいろ考える。

生駒が、松村を励ますシーンを観ながら、涙が止まらなかった。それは、励ます側の生駒の立場に立って、の話である。
「自分なんかいない方がいい」みたいなことを聞かされるのは、とても辛い。そんなことがあるはずがない。
そういうことを言う者にかぎって、存在価値がないなんてことはない。

しかし、声のかけようがない。

そのことを考えたら、泣けてしまった。

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