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【オタク】・「またおかださんについて少々」

「おかださん問題」について、パワハラだとか、ジェンダーの問題に還元するのは他の人に任せるとして、私はあくまでもオタク論的観点で思うところを書きます。

90年代半ば、彼と彼周辺では「物事に対してクールに客観的に突き放し、論評するのがオタク」ということがよく提唱されていたように思う。

・その1
これはサブカル論壇的な流れで言えば、まず80年代の「マルクス主義」の徹底した相対化、という運動があったらしい、ということに端を発する。80年代の現代思想は、マルクス主義を完全に客観化・相対化する作業に血道をあげていた。
浅田彰「逃走論」などにおいて、ひとつのことに没頭し、視野狭窄になってわけがわからなくなることを避けるため、スキゾキッズとかなんとかいう言葉を出して来て、思想的に一種の「フットワーク」を身に付けよ、というのが過去の、マルクス主義の失敗に対する反省として出てきていた。

まあ、80年代の高校生や大学生にとって、マルクス主義やマルクス経済学というのはほとんど「どうでもいい」と言っていいシロモノではあった。が、連合赤軍事件の影響は大きかった(「東アジア反日武装戦線・狼」の方が重要だとする説もあるが、ここではおく。とりあえず、世界を変えようとして過激派になり自滅した人がいた、ということがわかればよい)。

一方で、90年代初頭は現代思想から始まる価値相対主義を、超克しようとする動きもみられた。具体的には浅羽通明、大月隆寛、オバタカズユキなどの、イメージ的には「別冊宝島」によく書いていたような人たちで、当時編集者だった町山智浩も含まれる。
町山はともかく、他の論者は暗にオタクには否定的なのが特徴だった。
やや偏見を見て評すれば、(町山以外の)彼らの論調は「オタクは怠慢ゆえに、オレたちのレベルに達していない」と言わんばかりのものだった。
これは浅羽通明の師匠筋にあたる呉智英もそうだし、浅羽が一時的に接近していた小林よしのりもそうである。

・その2
それとは別個に登場したのが岡田斗司夫だと言える。私は岡田斗司夫の「大状況」に関する語りはほとんど知らないので言及しないが、90年代後半から2000年代初頭くらいまでの彼の「オタク論」は、まあむちゃくちゃ大雑把に言えば「価値相対主義」のぶり返しというか揺り戻しである。
ただし、それは「哲人政治の哲人の価値相対主義」であって、ニヒリスティックなものではなかった。
「この本を出して、キミには才能がある、とかなんとか言って若い女の子を食っていたんだろう」と悪口を言われる「プチクリ」は、「希望的にプチな創作活動を行う」ということを提唱する著作であり、その論調自体には凶悪な何かがあるわけではない。むしろ、「大作家」、「大監督」のような存在を相対化し、「プチなクリエーターを目指そう」という、「希望的価値相対主義」のようなところがあった。

通常、人間というのは物事にハマりやすく、のめりこみやすい。そこからいかに逃れるか、というのが大枠での岡田斗司夫的「オタク」の命題だったのだと思う。
それは、私には実感としてよくわからないのだが古参オタクの融通の効かない「真剣味」や、業界全体の存続を考え過ぎて言いたいことも言えない、というようなことがあったのが原因のようだ。
自分の好きなものでも洒落のめす、それが90年代から2000年代のおかださん的スタンスであり、たとえば地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教に対しての、「結果的な」アンチテーゼとして機能していたことは理解していただけると思う。

・その3
ところが、そうした価値相対主義を、恋愛にまで援用してしまうとは(いや、そういう主張は以前もあったかもしれないが、80股のような極端なかたちで出てくるとは)だれも思わなかった。だからこそ、みんな驚いたり怒ったりあきれたりしたのである。

私は、これはおかださん的な価値相対主義の、限界であると解釈した。
「エヴァにハマって戻ってこれなくなる」ような事態がオタクとしての「敗北」ならば、そのまったく逆方向に針が振れれば、「人間に価値相対主義を援用する」ということになる。
別の言い方をすれば、良い意味でブラックボックス化している人間の「愛」の部分を、ぶっちゃけすぎるほど客観化してしまったわけである。
それはおかださんの心中では首尾一貫しているのかもしれないが、普通の人はそうは思わない。「そんなに恋人に冷たくすることはないだろう」というのが、一般人の素朴な感想だろう。

真の価値相対主義とは、常にバランスを保ち続けなければならない結構面倒な主義である。おかださんの場合、女性に関してはこのバランスを明らかに欠いていたとしか、言いようがない。

・その4
それと、私が言いたいのは、90年代にはまだ価値があると思われていた価値相対主義は、現在はもう、そのままのかたちでは受け入れられないということだ。

むしろみんな、「人生の真実」に飢えているのだ。そうでなければ、ねとうよだのレイシストなどがここまで増えないだろう。
現在の日本のレイシストは、新左翼が信じられず、従来の右翼も信じられず、価値相対主義者になってかろやかに(?)遊ぶことも信じられないからこそ、それまでタブーとされていた部分に手を付けざるを得ない、と感じているのではないか。

つまり、私はおかださんの女性問題は、おかださん的思考の「古さ」として顕現してしまった、と今のところは見ているのである。

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