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・「男坂」 1~3巻 車田正美(1984~1985、集英社)、4巻(2014、集英社)

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ケンカを通して、世の中に必要とされる人間になろうとする少年・菊川仁義と、彼を慕う不良少年たち、さらには国際的な不良少年組織との戦いを描く。
時期的には「風魔の小次郎」の後で、「聖闘士聖矢」の前であり、作者の強い思い入れとは裏腹に、当初の構想を昇華しきれずに打ち切りになってしまった作品である(そして、30年後に続編が描かれ第4巻が刊行された)。
本作は「壮大な構想にも関わらず打ち切りとなった」ということばかりがクローズアップされ、「ネタ」扱いされてきたが、今回の「続編」刊行を機会に、その魅力と80年代当時の敗因について考えてみたい。
(2014年10月20日 (月) )

・「男坂」連載時の少年マンガ状況
本作が「車田正美なりの『男一匹ガキ大将』」を描こうとしたことは、連載当時の84年から読者にも明白であった。
「男一匹ガキ大将的な作品」というのは、はっきりとしたジャンル名はないが、「全国制覇系番長もの」とでも言うべきものである。
しかし、時代的には「男坂」は、他の作家による、「全国制覇系番長もの」であるところの「男組」や「熱笑!! 花沢高校」、「ガクラン八年組」よりも後発となる。そしてその後、松田一輝の「ドッ硬連」や司敬の諸作品を除いては、ジャンルとして廃れてしまう。
そしてすでに、日常系ヤンキーものという新ジャンルを確立する「ビー・バップ・ハイスクール」は1983年には始まっていた。「全国制覇的番長もの」のイメージの源泉が50年代~60年代の不良学生だったとするなら、80年代にはすでに、70年代の不良や暴走族のリアリティが取り入れられつつあった。
ちなみに「全国制覇番長もの」とまったく同じ構造を持つ犬マンガ「銀牙」は商業的にも成功し、長期連載化しているが、これは「番長ものを犬に置き換える」という奇想天外なアイディアが当たったということであり、逆に言えばそこまで新味を出さなければジャンプ読者には受け入れられなかったということだ。
一方、明らかに「男一匹ガキ大将」の遺伝子を継いでいるテイストの「魁!!男塾」が、徹底した個人技の応酬となって人気を得たことは、周知の事実だろう。
 
つまり、「男坂」は連載の時期をかなり逸していた……好意的に書くなら、ギリギリだったというべきだろう。

・「ケンカの強さ」理由問題
番長もの、ヤンキーものには過去から現在に至るまで、「ケンカの強さ理由問題」というのがある。
番長ものではケンカが強くなければ主人公たりえないが、では空手かカンフーかボクシングでもやっていればよいのか? というと、それは違うのである。
ケンカに格闘技を応用すると、その格闘技の強さの説明をしなければならない。格闘技というのは一種のイデオロギーなので、そこばかり追求していくと、「男とは何か?」という番長ものの理念がブレてしまう。
たとえば空手をきわめて日本一ケンカが強くなれるなら、全員が空手だけやっていればいいわけで、それはちょっと違うのである。
ちなみに「男組」の主人公は太極拳をやっているが、本作ではかなり「左翼VS右翼」の構造が明白であり、主人公が太極拳をやっているのは「大陸」との(左翼的な)シンパシーを表現していて、うまく処理されている。
「ドッ硬連」の主人公も気孔をやっていたと思うが、すいません、きちんと読んでないので何とも言えません。
一方で、「空手というイデオロギー」で世界を覆ってしまおう、という考えで描かれたのが「空手バカ一代」や「カラテ地獄変」、「空手戦争」などの一連の梶原一騎作品である。

前置きが長くなった。「男坂」では、主人公・菊川仁義の「ケンカの強さ」の理由が本当によくわからないのである。
いちおう、「強さの説得力」の材料として、千葉の山奥に住んでいる「喧嘩鬼」という謎の人物にケンカの奥義を学んだことになっているが、いったい喧嘩鬼が何者で、彼から何をどう学んだかが、よくわからない。
どうも「リングにかけろ」であれほどの人気だった「フィニッシュ・ブロー」の概念を、作者は使いたくなかったらしい。中盤以降になって敵側ではそういうのを使うやつが出てくるが、主人公の仁義はあくまで徒手空拳なので盛り上がりに欠ける。
しかもここに出てくる敵のフィニッシュ・ブロー「ミッドナイトスペシャル」は、「あしたのジョー」に出てくる「舞々(チョムチョム)」に酷似しており、出てきたからといって、驚きも少ない。
その後の「聖矢」では、車田正美は開き直ったかのように「必殺技」が個々人の人生や個性を現す、という手法を徹底していくが、そこには「男坂」的ケンカ表現に対する「あきらめ」があったのではないだろうか。

・「権力を持つ男」とは何か問題
「正義の味方」や「一匹狼」よりも、「人の上に立つ人物」を描くのはむずかしい。ときには従う者の意にそわぬ決断もしなければならないため、リーダーシップとキャラとしての「親しみやすさ」は矛盾することがあるからだ。
その点、戸川万吉は絶妙なキャラクターであった。「男一匹ガキ大将」では、「男としての大きさ」で勝ち負けが決まることが多いが、そうした勝負の中にも万吉の自信や不安を盛り込み、魅力あるキャラクターにしている。
実際、「現代社会で権力とは何か?」を考え続けている少年・青年マンガ家は本宮ひろ志くらいではないか、と私は考えている。
本宮はその後も、「人に慕われる悪の独裁者」や、「人間性をいっさい排除して身近なものからは恨まれているが、リーダーとしては有能」などのキャラクターを描き続けている。
こうした人物像は、ふだんからリーダーシップについて考えていないと出てこない発想である。

一方、車田正美の「リーダーシップ」感なのだが、84年の段階では(今はよく知らないが)、彼は「確たるリーダーシップ感」を持っていなかったのではないか、と考えざるを得ない。
「男坂」の菊川仁義は、ケンカが大好きな直情径行型の少年として登場する。登場時も一匹狼のようである。むしろリーダーシップを学んでいるのはライバルの武島将の方だ。仁義が彼のライバルとなりうる最大の理由は、「敗北より死を選ぶ」という価値観にあり、リーダーシップとは何の関係もない。
私は個人的に、仁義には「コメディリリーフでありながら、どんなに状況が大きくなってもついていく」子分キャラが必要だったのではないかと思う。ちょうど「花沢高校」の「鉄」のような存在が。
こういう「何があっても親分についていく」キャラクターがいるだけで、細かいことを描かなくても主人公の「親分らしさ」が引き立つからだ。
あるいは最大のライバル、武島将を出す前に、一の子分である黒田闘吉との戦いから友情を得るまでを描いた方が良かったのではないか。

車田正美の「男とは?」のイメージは、「自分対世間」とか「日常的に男はどうふるまうか」という美学であって、「大勢の人を統べるにはどうしたらいいか」とか「大人数を使って人を動かすにはどうしたらいいか」ということは(少なくとも84年の段階では)あまり考えていなかったのではないか? と予測している。
あるいは「自分のことは自分でやれる一人前の戦士」同士の友情を描くことには長けているが、「ダメだけどいいやつ」とか「すでに状況から見て役割を終えた子分」をどうしたらいいのか、といった思考はなかったんではないか。
やはり「リンかけ」や「聖矢」のように、「個人VS個人」のぶつかり合いは得意だが、「人を統べる男」を、親しみをもって描くことは、80年代にはむずかしかったのかもしれない、と思う。

・30年ぶりの続編としての第4巻
以上のようなことを踏まえて読んでみると、主人公・仁義のキャラクターが少し変わっていることがわかる。
4巻ではその大半が、「奥羽連合」のリーダー、神威剣を子分として迎えるよう説得する(当然、ケンカになる)過程に費やされているが、仁義は「一度や二度ケンカに負けることを絶対的敗北と感じず、時間をかけて何度も何度もケンカを挑み、その過程で相手を説得してゆく」というキャラクターとなっている。
連載の続編として構想があったものが、どれくらい現代風に改変されているかはわからないが、ここへ来てようやく、「ケンカの強さ」だけに頼らない(まあ最終的にはケンカするんだけど)人物として主人公・仁義が描かれることになった。

「全国制覇番長もの」は、設定をエクストリームにしてゆくことによって延命し、極限まで行ってジャンルとしては収束したが、「男坂」がそうした過激化を抑えた状態でこのまま続くとなると、また興味がわいてくる。

言い方を変えれば、「男坂」は、個人競技をエクストリーム化させて独自のパターンを開発した作者が、それをあえて捨てたチャレンジだったのである。
それは30年を経て開花できるのか?
個人的には、興味深い。

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