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【映画】・「ヘラクレス」

監督:ブレッド・ラトナー

ゼウスと人間の子、ヘラクレスが大昔に大暴れ。
以下、ネタバレあり。

ヘラクレス(ドゥエイン・ジョンソン)の無敵神話は、実は彼と、彼が戦場で拾ってきた仲間たちがつくりあげたものだった。
兄(たぶん兄だった、もしくは義兄。でも兄か? 忘れた)の陰謀にあい祖国を追い出されたヘラクレスが、傭兵として戦場を回り、超少数精鋭の無敵部隊をつくりあげた……、というのは、まるで望月三起也のマンガみたいだが、とにかくそういう出だしで物語は始まる。

「神話の時代から人間の時代へ移る頃、ヘラクレス神話にはタネがあった」……この設定は確かに面白いのだが、映画館に来る人たちはみんな「タイタンの戦い」みたいな、本物の怪物が出てくる映画を望んでいるのであり、私もそうだった。
だから、最初の設定で、盛り上がるどころか何か拍子抜けして「ん?」と思ってしまうのだ。

だが、ある程度設定を飲み込んでしまうと、敵軍にあやしげな術を使うといううわさのやるがいるとか、ケンタウロスがいるとかといった話にヘラクレスの仲間がまどわされたり、弱小農民軍を鍛え上げなければならなくなったりと(「七人の侍」ってそんな感じだったっけ?)、自分(観客)の中の「ヘラクレス像」が、この映画のヘラクレス像に塗り替えられ、面白くなってくる。

そう、うまく言えないが本作は「本作独自のヘラクレス像、および世界観」をきちんと設定し、それを動かしているのである。映画としては当たり前のことだが、「これは何々風、あれは何々風」とたとえることばかり考えているおれみたいな人間には、そういう先入観を吹き飛ばされることが大切なのだ。
同じことは、他人に説明するときに「ヴィジランテもの」のひと言でかたづけられ、誤解されてしまいそうな「イコライザー」にも通じる。
映画は個々の個性を持ったものであり、確かにジャンルというものもあるが、「ジャンルに合わせる」ことが映画の第一義的な課題ではないのだ。まあ、当たり前ですけど。

話は脱線するが、このラインで行くと最近、もっとも誤解を受けたのが「パシフィック・リム」だろう。デルトロは、東宝怪獣映画を再現することだけが目的であの映画を撮ったわけではないことは、もっと語られるべきである。

閑話休題。その後、クライマックスで、仲間の一人である予言者(占い師か?)に、神話的な予言をされることがこの映画のちょっとしたミソである。つまり、「神話的世界」が忘れられつつある世界に、ヘラクレスが「神話的存在」になってしまうところが面白いのだ。
神話上では自分を殺そうとくわだてたというゼウスの妻、ヘラの神像によってヘラクレスが敵を倒すのにはそういう意味がある。

もっとも、この予言者が自らの死の予言をはずしてしまうところがギャグになっており、「神話が忘れ去られた時代に英雄が神話的な活躍をする」というテーマはぼやかされている。まあ、本作はどっからどう見ても「明るく楽しいエンタメ」なので、そんなことを本気で描かれても困ってしまっただろうが。

だが、本作が「神話の時代が終わり、人々がより合理性で動く時代」となり、その合理性、プラグマティズムの象徴がヘラクレスに対する陰謀であり、それが身にしみたヘラクレスが、合理性をうっちゃて、世界をもう一度神話の時代に戻してしまう……という描き方だったら、もっとおもしろかったかもしれないと思う。
いやそれだけじゃダメだな。ヘラクレスが「合理の世界」と「神話の世界」をアウフヘーベンしたような(たとえば気球で火矢を打つような、安っぽい表現でいいから)世界を、結果的につくりあげればもっとおもしろかったのだが。

まあ、私が知らないだけで、そんなヒロイック・ファンタジーも世界のどこかにはあるだろう。

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