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【雑記】・「矢口真里騒動について考える」

矢口真里の「ミヤネ屋」での会見を見逃してしまった。
それにしても、これほど視聴者を残酷だと思ったことはない。

・その1
矢口真里が何をやったか、というと、要するに「浮気」である。
浮気で、1年5ヶ月、謹慎。
覚せい剤で逮捕された酒井法子と比較してみると、酒井は2009年10月に判決が出てから、2010年12月には自叙伝を出版している。酒井法子は逮捕前とまったく同じ活動を行っているわけではないにしろ、判決の1年後にはなんらかのアクションを起こしているのである。
このことと比較すると、矢口の謹慎がいかに厳しいかわかる。

似たような事例として高部知子の例をウィキペディアで見た。
いわゆる「ニャンニャン事件」が1983年6月。未成年の喫煙がどういう罪に問われるのか忘れたが、まあこれはルール違反としても1984年、1年4ヶ月ぶりにドラマの主演で復帰している。

ついでに加護ちゃんの喫煙騒動についても調べた。
2006年2月に喫煙が報道され、その後、二度目の喫煙が発覚するまでには2007年5月か、2008年2月の復帰が予定されていたという。早めの復帰だったとしても1年3ヶ月は謹慎で、未成年で性行為をした高部知子とほとんど同じくらいのペナルティを食らうことになる。

とくにアイドルの場合、未成年の喫煙、性行為は人気の上で致命的な打撃を与える。だからこそ、1~2年ほどの謹慎期間が必要になるようだが、矢口は現在31歳。騒動の頃は29~30歳だろう。だれとどんな性行為をしようと、大きなお世話な年齢ではある。
確かに普通の男性から観ると、彼女のやったことは、日常的な感覚で言えばけっこうエゲツナイ。だが、職を失うほどのことかというと、疑問が残らざるを得ない。

・その2
しかし、私個人が「もう許してやれよ」と言ったところで、「世間」が許していないのだからどうしようもない。さらに、薬物問題などとも違い、「みそぎ」の仕方がまったくわからないのも、矢口の問題のむずかしいところだ。
処女膜を再生でもすれば許されたのだろうか。ボランティアなどをやったとしてもまったくお門違いである。お寺にでも修行に行ったら、「ふざけてるのか」、「お寺で修行しなければ抑えられないほどの性欲なのか」と思われるのがオチだろう。

まあそんなことはどうでもいい。男性タレントの場合、浮気はどう報じられてきたか。問題にはなったかもしれないが、生業を奪われるほどの打撃は受けていない。いいか悪いかはともかく、石田純一などは「不倫は文化」と言ったとされて、むしろ記憶に残ったくらいである。
男性タレントの浮気に関する断罪は、女性のそれに比べてきわめて軽いのである。

一方、有働アナに対するセクハラを、同じ番組に出ているイノッチが「そんなことはするもんじゃない」と言いきって株をあげたとか。ちょっと前の都議会でのセクハラやじの問題もある。さらに前には、人工知能学会の学会誌騒動もあった。私も、セクハラがあっていいとは思っていない。
いいとは思っていないが、まあ、ぶっちゃけ、「言った言わない」の話は言葉の問題である。
対するに、矢口の浮気は、実際の人間関係に干渉し、なおかつ世間から断罪されているという点で、フェミニズムの問題としてはずっと大きいはずではないか(フェミニストが矢口をフォローするにしろ、しないにしろ)。

それなのに、「浮気への断罪に関し、男女でその重みがまったく違う」ことに関して、少なくともテレビで問題になることはほとんどない。
矢口の復帰を阻んでいたのは「一夫一婦制を信じきっている女性の声」だろう。すでに矢口というタレントは、男の性欲の対象とはなっていなかったし、矢口を寝取られた男性タレントに対しても、男性の態度は冷ややかであったのだから(「ざまあみろ」くらいには思っていただろうが)。
矢口が復帰するかしないか、「テレビで矢口を見たいか?」という点においては、大半の男性が「どうでもいい」と思っていることだろう。要するに、一般男性にとってはどうでもいい話だったのだ。

だから、矢口の復帰をはばんでいるのは、前述のように一夫一婦制を信じている女性たちである。いやそのこと自体は自由だが(ここは強調しておきたい)、ここでは「女性の自由」に関して、「イズム」の問題として、意見がはっきり分かれていることが浮き彫りになった、ということに注目したいのだ。

・その3
セクハラやじで「結婚しろ!」とか「子どもを産め!」というような発言があったとしたら、何が問題なのか。
それは「女性の自由」を侵害するかのような発言だからである。結婚するもしないも、出産するもしないも、女性の自由だからである。
つまり極論を言えば、少子化対策と「女性の自由を保証する」という問題は、どこかで決定的にぶつかるはずだ。
子どもを産めるのは女性しかおらず、その女性に出産、子育てをうながす、ということは、「そういうふうにすべきである、そっちの方が幸せだよ」というふうに、究極的には「思考を誘導する」ことだからである。
実は少子化対策のことはよく知らないのだが、現状では「産みたいのに迷っている」女性の背中を押すような環境づくりを推進しているのだろう。そこまでなら問題はないが、性急な者は「女性は子どもを産むべき」というイデオロギーによって、問題を解決してしまいたいと思うだろう。

現に、反フェミの論者は、セクハラやじ問題について物申しているようである。
(私としては、女性ならともかく、男性論者が男性の自由を謳歌しておいて、よく言うよ、と思っているが)

やや、矢口問題から話がそれてしまった。
何が言いたいかというと、話は飛躍するが「イズム」というのは一般庶民に必ず裏切られるものなのである。
もちろん、矢口にはイデオロギーなどなく、やりたいようにやっただけだろうが、「女性の自由」をより過激に発展させていけば、複数の男性と関係を持つことも許されるということになる。

だが一般人はそれを許さない。一般人は、自分の自由が圧殺されることには抵抗を覚える。逆に、自分が守っている秩序を乱されることにも強い抵抗感を抱く。騒動にまで発展しなくとも、「恋多き女性タレント」は「一般女性の敵」と見なされる。彼女たちは、どこかに居場所を見出すか、さもなければ「あやまんJAPAN」のようにイロモノ化するしかない。

悪い言い方で言えば、戦後、ずっと日本は秩序が崩壊する方向で動いてきた。80年代後半からの恋愛至上主義を発展させれば、「出産しない夫婦」や「パートナーを一人と決めない女性」が増えてくるのは当然だったのだ。
しかし日本にも古い「世間」というものがまだかたちを変えて(よくも悪くも)残っていて、その変形した「世間」は、
「恋人は自由に選びたいけど、だれもかれもと寝る、ということは許さない」という方向でものすごい抵抗をしてきたということなのである。
この段階で、フェミニズムにもいろいろ流派があるのですべてではないだろうが、少なくともある種のフェミニストの「女性の自由」を希求するイデオロギーは、庶民と完全に乖離している、と私は思った。

これはフェミニズムに限らず、「イズム」すべてに通呈する問題である。
私は、今回の矢口の問題ほど、この「女性の自由」に関する、女性の意識の矛盾というか、アンビバレントな気持ちを表出させた例はないと思っている。

しかし、今さら「イズム」を語っている人はほとんどいないので、だれにも話を聞いてもらえないのではあった。

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