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【雑記】・「時代劇で思い出したこと」

「時代劇はなぜ滅びるのか」を読んで、思い出したこと。

本書では、時代劇の本格的な衰退は2000年代に入ってから、と検証されており、一方で、長期的に観て日本映画の衰退が始まってからゆるやかに減っていったとされている。
非常に包括的かつ詳細に「時代劇をとりまく業界事情」を取材してあり、ほとんど感覚的な批判をしていない(最近どうも時代劇が面白くないなあ、的な)ところは本当にすばらしい。

とくに、オタクの一部には「物語なんてワンパターンでいい」とうそぶく者が少なくないところに、やはり物語りはワンパターンではいけない、と証明したあたりはスッキリした。一方で、アニメ、特撮と同様、時代劇でも「悪の内面を描く」ことをしてしまうがゆえにカタルシスあるストーリーがなくなった、とも指摘されている。
この「内面問題」に関しては、時代背景の分析が可能かと思うが、ここではおく。

それにしても、ひっかかるのは本書に書かれた役者の問題である。
本書では「役者が時代劇の演技を学べない状況」を客観的に描きつつ、行間では「役者の怠慢」を指摘している。役者をディスってるようにしか読み取れないのである。
なので、私が時代劇の役者の不在について、勝手に考えてみた。

・「水戸黄門」番宣番組での一幕
十年位前だったと思うが、ドラマ「水戸黄門」の宣伝番組を見ていたら、元アイドルの若い女優が水戸黄門に出演するというので、もともとのレギュラー陣がおちゃらけてそのアイドル女優に演技指導する、という一幕があった。
番組宣伝なので、あくまでおちゃらけのシーンである。
そこで、うっかり八兵衛と、もう一人だれか(忘れた)が言っていたことが、まったく正反対だったのである。
コント風に、わざと正反対のことを言っていたのではない。ごく普通に、正反対の演技指導をしていた。
番組内ではスルーされていたが、個人的に強く印象に残った。
「時代劇の撮影現場は閉鎖的」という発言は、90年代くらいから、テレビやラジオなどからとりたてて時代劇に興味のない私の耳にも入るようになってきた。とくに京都の撮影では、裏方に認められないと大変だ、とも。
めちゃくちゃ話が大雑把になるが、もう半世紀くらい、世の中全体が「特殊なしきたりのある閉鎖的コミュニティ」を解放する方向に動いている。おそらく80年代にはドラマの現場は現代劇でも時代劇でも、一般視聴者の耳に入るほどの変化はなかったものが、時代状況が変わって「時代劇の現場」だけが取り残されてしまったのだろう。
そんな中にあって、「水戸黄門」の番宣伝は「現場は楽しそうだな」というよりも、「面倒くさそうだな」と感じさせるものだった。
もしもそのジャンルに何の思い入れもなければ、だれもが敬遠するだろうなあ、と申し訳ないが、思った。

・特撮ドラマ
役者の不在、大根ぶりを嘆かれるのは時代劇ばかりではなく、特撮ドラマがそうである。なお、特撮ファンと時代劇ファンは重なっている場合も多く、親和性が高い。
有名なのは、仮面ライダーや戦隊ものに未経験の若いイケメン俳優を起用するようになったことだが、このこと自体で特撮ものが「目も当てられないほどひどくなったか」というと、私はそうでもないと思っている。
ではなぜ、ひどい役者でも特撮ものは成立し、時代劇は成立しないのかは考察の対象になると思う。
もっとも、「特撮」は「糸で吊られていても、見えないことにする」という視聴態度が特殊なジャンルでもあるので、時代劇におけるファンタジーとは似て非なるものかもしれず、考え出すと案外、深い。

・時代劇と「自立した女性の時代」
私は、これは案外大きなネックかもしれないと思っている。

ある時期まで、時代劇における女性のイメージと言えば、
・じっと耐える侍の妻
・不幸に耐える女郎(あるいは開き直ってたくましく生きる女郎)
・剣をふるう女傑
・くのいち忍者
・不幸な少女
……といった感じではなかったか。
これだと、現代の平均的な女性--たとえば、結婚には憧れるが女性としては自立して生きて行きたい、と言った女性像は対応させづらいだろう。

「女性の自我、自立、自尊心」を時代劇で描く方法としては、「大奥」とか「苦界」といった特殊な閉鎖社会を舞台にして、そこに独自のポジション築こうとする女性を通して逆説的に「自立」を描く、というものが多かった気がする。
そういうものは今後も続くことは続くのだろうが、個人的見解では「性的な抑圧システムとしての男性社会」そのものが現在では揺らぎ始めており、その「揺らぎ」を「時代劇」を通して描くのはきわめてむずかしい。
「大奥」とか「苦界」といったものは、もっと男性中心社会が絶対的だった頃の、男性社会の補完システムだから、現代には対応させにくい。

むしろ、ワンパターンだと非難もされた「必殺仕事人」の中村主水の妻とその母親。表面上は天下泰平の江戸を享受しつつ、やはり婿をとらなければ生きていけない、子を産み育てなければ一人前の女だとみなされない(だから主水を「子だねがない」とイビる)彼女たちの方が、まだ現代に通じるように思える。

あとはもっと大胆に「織田信長は女だった」とでもするより、描きようがない。

ここまで書いて思ったのだが、「時代劇」よりも「伝奇時代劇」の方がまだ可能性がある気がする。
「伝奇」なら、たとえ「織田信長が女」でも、まだ通用するからである。

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