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【書籍】・「なぜ時代劇は滅びるのか」 春日太一(2014、新潮選書)

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かつて隆盛をほこった「時代劇」がなぜ滅びつつあるのか、に関して取材、調査を通して考察した本。
考察対象は包含的で、時代劇がつくられる環境(スポンサー含む)、プロデューサー、役者、脚本などひととおり言及されている。
とくに「時代劇イコールマンネリ、そして高齢者向けの娯楽」というイメージの代表であるドラマ「水戸黄門」が、業界特殊事情によってつくられ、また延命していたというのは知らず、興味深かった。
それにしても、序盤、中盤くらいまで冷静だった筆致が大杉蓮の悪口あたりから激しくなってゆき、最終的に「利家とまつ」、「江(ごう)」の説明で執筆時、キーボードから煙が出ていたのではと思わせるほどの怒りを感じさせた。
「基本的に時代劇はけなさない」という研究家としてのスタンスを放棄したらしく、決意が読み取れる。

しかし印象的なのは「性格俳優」、「名バイプレーヤー」と呼ばれた大杉蓮をはじめとする、昨今の役者への罵詈雑言だろう。
その他にも、作品としてはリメイク版「仕事人」や「利家とまつ」以降の「ホームドラマ的大河ドラマ」、あるいは私が個人的に面白いと感じたリメイク版「十七人の刺客」のラストなど、本書で筆者が呪詛の念を浴びせた物事は多い。
だが、安易に「時代が悪い」とか「若者がいいかげんだから」などの俗な道徳観に結論を持っていかないことで、本書は「業界批判本」の下品さから救われていると言える。
さて、このエントリでは筆者が批判したものを、ちょっとフォローしたり時代背景を考えてみたりしたいと思う。

・その1 役者
本書で叩かれているのは主に大杉蓮と岸谷五朗だ。どちらも「自然体の演技とかいって、時代劇にふさわしい演技を放棄している」(大意)とされている。だが、不思議なことにネットで調べたら大杉蓮はそれなりに舞台俳優の訓練を受けているし、岸谷五朗だってスーパーエキセントリックシアター出身だから軽演劇志向であり、いわゆる「自然体の演技」とは違う出発点だろう。
本書では下積みのなさそうな(あくまでなさそうな。本当はどうだか知らない)「小劇団」そのものを、簡単に言えば素人集団みたいに扱っているが、大杉蓮と岸谷五朗の時代劇に対する態度が、小劇団ブームと関連があるかどうかはわからない。
岸谷五朗のことはよく知らないが、大杉蓮は確かに「名優か」というと違うとは思う。だが、彼や赤井英和やピエール瀧みたいな人たちは、やはり現代劇(時代劇ではない)には必要なのである。
本書では、演技メソッドのことにまで話が至っていないが、いくらなんでも、現代劇の演技すべてを「ヘタを自然体でごまかしている」かのように言うのはどうかと思う。

・その2 女性上位的、女性の自立をテーマにした脚本
大河ドラマは、「利家とまつ」以降、「自らの理想と信念を貫いて周囲を変化させていくこと」が「成長」ととらえられるようになった、そこには苦渋の決断をめぐる葛藤は存在しない、と本書にはある。
本書では事実の指摘だけがあり、はっきりとは書いていないがこれは「女性上位時代」というか「メディアに女性の意見が多く反映されるようになった」わかりやすすぎる例だろう。
「利家とまつ」以外にも、ご都合主義に過ぎる大河ヒロインの活躍のエピソードが皮肉たっぷりに書いてあるが、本書ではそれはプロデューサーが悪いということになっている。

しかし、ここからは私見だが、視聴率が取れないのならホームドラマ的要素や、「女性の自立」、「女性が歴史を動かしてきた」という要素が入るのは、とくに2000年代以降、だれがプロデューサーになっても試みられたであろうと思う。
そして、歴史ドラマだからこそ、「女性の自立」は極端に描かれやすい。もともと男尊女卑が決定的な時代に、女性が活躍するように描こうとすれば、悪い意味でマンガ的になることは容易に考えられる。リアルに当時の女性の抑圧され具合を描いたら、悲惨すぎて日曜夜には見られないものになってしまうだろうから。

「自らの理想と信念を貫いて周囲を変化させていく」とは何かと言えば、それは「啓蒙」である。一部の大河ドラマがそのようなことになっているとするなら、ぶっちゃければ抑圧されがちな女性が周囲を「啓蒙」していく過程が描かれているのであり、啓蒙できるかできないか、の二択であるなら、テーマとしては人々は「啓蒙されねばならない」ということなのだろう。
このようなドラマ展開、私も面白いとは思えないが、男女平等をどのように描くかは(おそらく今後も)時代劇のネックであり、ひどい展開だとしても、時代の流れとして一度は通らねばならない道なのかもしれない。

・その3 マンガ、劇画の時代劇はどうか
本書には時代劇以外の他ジャンルについて、一言も触れていない。以下に描くのはあくまで私見である。
さまざまなしがらみや、人やカネが常にネックになる映像作品と違い、マンガは何でも描ける。アシスタント費用がかかるのは当然だが。
で、「JIN」などの人気作品も生まれているし、「時代劇」そのものがマンガの主要ジャンルであった時代はなかったものの、今でも需要はあると思う。
そこで私が興味深く思うのは、「ナルト」や「銀魂」のことなのである。
「ナルト」は忍者の話だし、「銀魂」の設定はSFである。しかし、どちらも「時代劇」的ではある。しかし時代劇ではない。異世界の話だ。

何が言いたいかというと、どんなに様式化されようとやはり「時代劇的設定」には考証が不可欠なのだが、少年マンガでは「時代劇的なものを描きたい」と思った場合、すでに「時代劇」は当の昔に放棄されてきた、ということなのである。
具体的に言えば、それは「ドラゴンボール」から来ている。いや、見ようによってはそれ以前の「Dr.スランプ」から。
「Dr.スランプ」は「ペンギン村」が舞台であり、それはいったいどこにあるのかはっきりしない。私の知るかぎり、ギャグマンガで完全な異世界(日常的なものではあれ)を舞台にしたのは同作が初めてである。
その後、似たような世界観は「ドラゴンボール」でも引き継がれる(初期は同じ世界にペンギン村もある設定だった)。
同時期には「北斗の拳」、「ジョジョ」、「男塾」などがあったが、いずれも「私たちの住む世界」とは地続きであった。
「ドラゴンボール」だけが、「古代中国っぽい」、「SFっぽい」という「っぽさ」で成り立っている異世界だった。
こうした設定は使い勝手がいいようで(おそらくゲーム「ドラクエ」などの影響も大きい)、「ワンピース」もどこだかわからん世界だし、「ブリーチ」は最初現世で始まるが後はずっと異世界、「ハンターハンター」も「トリコ」も、どれもこれもみんな「ありそうでない別世界」の話である。「ポケモン」もそうだ。
こういう世界観は、特定の時代を選んだときの「かせ」がまったくない。しかも、ジャンプ系の作品に関しては「世界」そのものが、非常に近代的である。登場人物の思考もそうだ。
実際にある時代を舞台にすると、どんなに登場人物が近代人のような思考をしていても、おのずと矛盾が生じ、その矛盾は物語のバランスを悪くしても、どこかに「現実味」を残してくれた。
ところが、完全な異世界を設定してしまうと、少なくとも「近代以前の人々の思考や制度そのもの」に対する矛盾は描けなくなる。それは「面白い少年マンガ」を描くにあたって何の問題にもならないが、「時代劇的な興味」は永遠に失われることになる。
(別の角度から見れば、「るろうに剣心」は実在する時間と場所を設定しているため、少年マンガとしてはむしろアクロバティックなものとなっている。)

「時代劇」は、少年マンガにおいては80年代からすでに崩壊していたと言えると思うし、話はそれるが「少年ジャンプ的な異世界」には共通項があるように思われ、考察の対象となりうると思う。

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