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・「クローズ」全26巻(1990~1998、秋田書店)

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月刊少年チャンピオン連載。
地元中学でも有数のワルしか入って来ないワルばかりの男子校・鈴蘭。ここに転校してきた男・坊屋春道が、鈴蘭とその周辺の不良勢力にとんでもないケンカの強さから、大きく介入して行く。
……というヤンキーマンガ。
いまだに映画化されているほど人気がある。映画で言うと、品川ヒロシの「ドロップ」なども、濃厚に本作の影響下にあるだろう。
(追記)よくよく調べたら、マンガ版の「ドロップ」はキャラクターデザイン・高橋ヒロシになっていた。「影響下」どころの騒ぎじゃなかった。あー恥ずかしい。

・その1
ウィキペディアの高橋ヒロシの項では、「後続への影響力」として本作よりも同じ作者の「QP」を重視しているようだが、やはり「クローズ」の影響も後々の世代には強いように感じられる。

どこかの評論家が、「ヤンキーマンガとはモラトリアムについてのマンガである」と書いていたが、まぁそんなことは80年代から当たり前と言えば当たり前ではあった。
それがもっとも顕著だったのは、吉田聡の「湘南爆走族」で、ラスト近くでは高校卒業を詩的な表現で描ききっている。

ちょっと「湘爆」の話になる。
何が90年代以降のヤンキーと違うかというと、時代が違っていた。「湘爆」の江口洋助は、人間力も腕っ節も、バイクテクニックも図抜けていたが、それをいっさい、積極的に外に向かってアピールしない、というところに意味があった。それがカッコよく映った時代であった。
もちろん、かかる火の子は払いはするが、江口には地域の暴走族をぜんぶまとめ上げようとか、そういうことはいっさい念頭になかった(彼と対照的な、カリカチュアライズされた悪役として登場していたのが権田二毛作である)。
「湘爆」チーム自体が、異様な少数精鋭チームなのも、70年代の不良マンガにあった「拡大路線」へのアンチテーゼという気はする。
以上はぜんぶ私の思い込みではある。だが、80年代は「よき個人主義」、「健全な個人主義」が「悪しき全体主義」と戦う構図の作品が非常に多かったことは事実である。それは、どこにも明示はされていないが70年代中盤までの学生運動興隆の反動であることは、まあ、間違いないだろう。
また、同時代にバカげた校則や、行きすぎた管理教育が問題視されていたことも忘れてはならない。

・その2
「湘爆」の話、終わり。
「クローズ」も基本的にこの路線の延長線上にある。主人公の坊屋春道は、他人を支配下に置いたり常につるんだり、ということを好まない男である。しかし、仲間のピンチには自分を投げ出して救おうとする男気がある。
ケンカで鈴蘭の頂点に立った春道だが、鈴蘭をまとめようという気などいっさいない(ただし、頂点に立つ彼があまりにケンカが強いため、他の連中が挑戦しづらい、という抑止力にはなっている)。

面白いのは、鈴蘭周辺の不良たちの均衡状態を保っているのは、むしろ別の高校・黒焚の「ブル」という男だということだ。
ブルはケンカも強いが、それ以上にカリスマ性があることが強調されている。ブルは黒焚の頂点に立ち、他校の不良校いくつかと「黒焚連合」をまとめ上げている。
連合化しているために、全員坊主頭の不良高校「鳳仙」も黒焚には手を出すことができず、鈴蘭にも坊屋春道、ほか後に友情を結んだ三人の男たち(春道と合わせて四天王)がいて、微妙な均衡状態を保っている、というのが、まあ情勢は長期連載の中で微妙に変わって行くが、本作の勢力図である。

旧来の不良マンガなら、ブルが主人公になっていただろう。ところがそうではなく、頂点に立つことの「権力」を放棄している春道があくまで主人公であるところに、本作のポイントがある。
しかも、「花の応援団」の青田赤道のように、「組織として黙認」されているわけでもない。ただ、本当に自由にふるまっていて、仲間のピンチ以外、不良の勢力図にはいっさい興味を示さない。
「湘爆」の江口洋助は、描き方から言って「社会に出る」ということ自体にリアリティがないマンガ的なキャラクターだったが、春道は「モラトリアム期間を自由に、楽しむだけ楽しんでいる男」として、「鈴蘭」という閉鎖された空間では非常なリアリティを発揮するキャラクターなのである。

・その3
そして本作のケンカには「自分がどのくらい強いか試したい」、「高校がつまらないから暴れたい」以上の意味がない。
初期の、暴走族「武装戦線」が出てきた頃には、「抗争に破れると居場所がなくなる」という感覚があったし、本作で「ケンカに負ける」ことのいちばんのデメリットはそこなのだが(ケンカに負けて退学した者もいる)、そこはだんだん強調されなくなる。
かといって、組織をまとめて上納金を集めるとか、ヤクザの息子か何かが出て来て背後の権力をカサに来て支配しようとするとか、そういう描写もない。弱肉強食の高校の中で、カツアゲするシーンもほとんど出て来ない。イジメのシーンに至っては、皆無である。
「卒業したらヤクザになる」と決めているやつは出て来るが、ヤクザそのものが少年たちのケンカに介入するということは、ほとんどなかった。

逆に、「家が貧困でサベツされてきたから、不良としてのし上がりたい」とか「殺された兄弟への復讐」といった、「マイナスからのケンカ要因、ダークなケンカの理由」も、ほとんど出て来ない。
一度、過去に他校との抗争によって兄が殺された兄弟が出てきたが、彼らは復讐のためではなく、「亡き兄を超えるため」に抗争相手の高校と対決を考えていたという、ちょっと抽象的な理由を持っていた。

基本的に暴走族は、常に「どこを走れるか」のテリトリー争いがあるので暴走族マンガの「抗争」には意味があるが、本作では純粋に「なんだかムシャクシャする」以上の意味が、ケンカにはないのである(そして東京のヤクザに成り上がろうとしたやつは、刺されて死んでしまう)。
このように、従来の不良マンガにあった「ケンカをすることのメリット」をほぼ完全に切り離してしまったところが、本作がヒットした理由だと思う。あとくされがないからだ。
そのケンカにも、暗黙のルールがある。それは、タイマン勝負であり、武器を使わない、不意打ちをしない、ケガ人を襲わないことなど。もちろん例外も出て来るが、本作における「ケンカ」が、「メリット皆無で、自身の不良としての器量をアピールするためだけのもの」だったら、それも当然だろう。

ちなみに、「ビーバップハイスクール」との違いは「本当にケンカくらいしかやることがない日常」が強調されていること、十代の、かたちにならない衝動が「ケンカ」への欲求になっている、ということが強調されている点にある。
また、前述のとおり、イジメやカツアゲのシーンもほとんどなく、不良生活のエゲツない部分をスッパリ、そぎ落としている点もビーバップとの違いか。不良マンガにありがちな、「拉致って拷問する」ようなシーンも、ほとんどない。
そして、女性の描写もまったく出て来ないし、女性キャラすら登場しない。「鈴蘭」とその周辺は、男の不良たちだけのユートピアなのだ。

・その4
さて、そんなモラトリアムを経験した者たちも、いつかは卒業しなければならなくなる。物語終盤では、キャラクターのだれがどんな進路を進むのかがちょこちょこ描かれる。
実はここがいちばんむずかしいところで、若い頃にブイブイ言わせていた不良たちの成人後の世界を描いたものとしては「莫逆家族」や(ちょっと意味合いが異なるかもしれないが)「好色哀唄元バレーボーイズ」などがあるが、若い頃ムチャクチャやってたらそれなりのツケはあるわけで、でもあまり悲惨な人生を描いたら高校時代のモラトリアム自体に意味がなくなってしまう。

というわけで、他のキャラクターたちが建設会社勤務、家業を継ぐ、ボクサーになる、バンドを組む、などなどのそれなりの進路を見出す中で、もっともファンタジーな主人公である坊屋春道の進路だけは(その後どう描かれたか知らないが)、謎のまま終わるのである。

まぁ、こんな気持ちのいい能天気な男、現実にはいないのはわかっているけど、どうしてもこうなっちゃうんだなあ……と思う私であった。

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