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・「沈黙の艦隊」全32巻 かわぐちかいじ(1989~1996、講談社)

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週刊モーニング連載。
米海軍所属の原潜「シーバット」は、日米共同で極秘に開発され、日本の自衛隊員の艦長・海江田四郎の指揮のもと試験航海が予定されていた。しかし、海江田は全乗員76名と反乱を起こし「シーバット」とともに逃亡。
海江田は自らを国家元首とし、潜水艦シーバットを独立戦闘国家「やまと」とすることを宣言する。しかも「やまと」には「核」が搭載されている疑いがあった。
海江田は世界征服すらもくろむ犯罪者なのか、あるいはテロリストなのか。原子力潜水艦「やまと」は世界を巻き込みながら、ニューヨークに向かって進んでゆく。

あまりにも有名なので、今さら購読。
なるほど、いろいろと面白い。

・その1
これから書くことは2014年時点からの視点に基づくから、後だしジャンケンであることは明言しておく。
しかし、後だしジャンケンの方が当時見えなかったものが見えて来ることも否定できない。

本作の連載が始まった89年はバブル経済を目前にし、「革命」なんて言ったら鼻で笑われた頃である(「反原発ブーム」はまた別だが)。そして、「革命」を描く作家には、必ずある種のルサンチマンというか、ぶっちゃけて言えば「70年代中盤の敗北意識」が濃厚なものが多い。
それは70年中盤以降の日本映画や刑事ドラマ、特撮ものなどに濃厚に漂っている雰囲気で、そこら辺のものを10本くらい見たら「ああ、こんな感じか」と納得してもらえるだろう。アニメで言えば、押井守作品に顕著だ。
「すべてのネタ元はアメリカン・ニューシネマ」という意見もあるが、そもそも欧米の革命運動・学生運動と日本のそれは、同じ世界で行われているという意味でシンクロしていたのだから、当然と言えば当然である。

ところが、本作には連載当初からそのテのルサンチマンというかセンチメンタリズムが、なかった。
泥臭さを排除した、「知的なシミュレーション」として最初から始まっており、なおかつ、頭でっかちな嫌味がなかったのが大人気となった理由だろう。要するに、洗練されていたのである。

私はミリタリーものや世界情勢を描いたエスピオナージュなどにはまったく興味がなく、本作の「元ネタ」がどうしてもわからなかった。
それと、本作の構想が連載当初、どの程度固まっていたのかもわからない。
だから、以下に書くことはまったくの推測である。

・その2
本作を通して読むと、意外とブレがある。毎週、社会情勢の変化や読者の反応に合わせて構成を考えているのだから当然だが、連載当初、どの程度プロットが固まっていたか考えると、「やまと」の独立国宣言と「やまと保険」、「やまとの国連所属」、「原潜による核監視システム」くらいは決まっていただろうと思う。
マスコミによる世界市民投票や、米大統領・ベネットの迷い、海江田の「メシア化」、アメリカの核廃絶などは後付けなのではないか(繰り返すが、単なる想像である)。

なぜそう思うかというと、本作が「テロによる社会システムの改変」の物語だからである。これは90年代前半には非常に新しい発想だった。新しすぎて、今ひとつ元ネタがわからない。

本作連載中の95年3月に、オウムによる地下鉄サリン事件が起こっている。オウムのハルマゲドン構想、すなわち、「選ばれた少数のエリートが、大多数の民衆を支配すればすべてうまくいく」という考えは、はっきり言ってエンタメの世界では非常にベタな発想であった。まさか、実行する人間がいるとはだれも思わなかっただけである。

本作の海江田の構想は、そうではない。「海江田」という一人の天才がまずアクションを起こすのだけれど、それによって起こる結果は、オウムのように「トップをすげかえる」ということではなく、システムそのものの改変である。
システムは、別人が携わってもまずまず、回って行くからこそのシステムであって、後は別に海江田でなくてもいい(はずである)。

むろん、同じ構想のもとに失敗したとされるのが現実世界の共産主義革命なのだが、本作の場合、資本主義・自由主義経済そのものには手を付けず、なおかつ「原潜」、「国連」という「ありもの」を使ってシステム改変を行おう、とするところに斬新さがあった。
オウムだけではなく、表現者全般が「ハルマゲドン構想」にとらわれていた頃、こうした発想を思いついたのは驚嘆に値する(元ネタがまったくなければ、の話だが)。

・その3
だが本作も時代のパイオニアとして大きなブレがあって、「システム改変」の物語のはずなのに、回を追うごとに海江田は神格化され、「海江田しかなしえない出来事」として「沈黙の艦隊構想」は描かれてしまう。物語の後半では海江田がほとんどイエスやメシアかと思わせる描写があり、予知能力者までが登場して海江田を讃える(これにはさすがに驚いた。ちなみに、地下鉄サリン事件前である)。

話は少々ズレるが、本作連載終了から7年くらい経ち、2003~2006年に「デスノート」が少年ジャンプに連載される。
「デスノート」において、夜神月(ライト)が構想しているのは「デスノートによって、いつ殺されるかわからない」という漠然とした恐怖によって犯罪がなくなる世界である。
いわば「デスノートによる完璧な監視社会化」とも言える。より正確に言えば「完璧な監視社会化がなされた、と人々に思い込ませることによる犯罪抑止」が彼の究極の目的だ。
海江田の「沈黙の艦隊」構想も、「国家から独立した原潜による、核兵器の完全監視化」というもので、「監視社会化」という点では、デスノートを使った月(ライト)の構想に似ている。

むろん、デスノートの場合、ライトが死ぬことによって疑似監視システムは瓦解してしまうのだが、妄想をたくましくすればライトが自分が死ぬ前に、「デスノート」を使って社会変革をしようとしていた可能性はぬぐえない(なにしろ「新世界の神」なのだから)。
「デスノート」は、基本的にはライトとLの知恵比べに終始する話で、「沈黙の艦隊」とは少し違う。
しかし、大場つぐみがガモウひろしだと仮定すると、「ラッキーマン」の「よっちゃん編」において「どうしたら悪はなくなるか」を考えていたところがうかがえるから、私の妄想もまんざら的外れでもないと思われる。

「デスノート」とは別ルートで、小説「バトル・ロワイアル」に影響を受けた作品群が現在まで頻出する。
これらはすべて「監視システム」が行き届いた世界(多くはディストピア)で、どう生き抜くか、ということがテーマになっている。
言ってみれば、「海江田やライトの構想後の物語」ということになる。

・その4
さて、ここから先は少し筆を滑らさせてもらう。
「バトロワ」フォロワーの作品群は、「世の流れ、必然」として強固な監視システム(構成員の相互監視を含む)を当たり前のものとする。
だが、それらにはほとんど、箱庭的な狭い世界が設定されている。
理由は、911があったからである。
911は、海江田の構想もライトの監視社会も通用しない。なぜなら、彼らは「死んでもいい」と思って実行しているのだし、「戦争が進めば最終的に核戦争となる」という「詰み」をいっさい考えていないからだ。
「死んでもいい」と思ってやっているのだから「デスノート」の恐怖は通用しないし、「沈黙の艦隊」においてあれほどまで問われた「国家とは?」という問いは、「テロリストの自爆テロ」によっていっさい無効とされてしまう。

だからこそ、監視社会、および相互監視社会を描いた作品はきわめて細かいルールの、小さなコミュニティの物語になる以外にない。
構成員が、最低限「ルールを守ってくれる人」であることが必要だからだ。
別の言い方をすれば、「狂人」を無意識にスポイルしているのが現代社会だと言える。

監視システムを破れるのは狂人だけなのだが、同時に一般市民も狂人に殺されたりしてしまうので、肯定することができないのである。

そう考えてあらためて「沈黙の艦隊」を読みなおすと、海江田がやろうとしていたことが何なのか、その後できる世界はどうなったはずなのか、また違った風景が見えて来るかもしれない。

なお、昨今のネトウヨ的願望、すなわち「日本が国際社会に対して恥ずかしくない軍隊を持つ」というところにとどまらず、「軍隊を国連に帰属させる」という奇想天外なところにまで持って行ったこと。
つまり、「日本人の潜在的願望を否定するのではなく、飛躍させることで社会変革を行う」という「とんち」に近い発想をここまで真摯に描き切ったすごさ、という観点もあるが、テキストが長くなりすぎるので省略した。

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