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・「タッチ」(1)~(17)(途中まで) あだち充(1981~85、小学館)

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双子の兄弟、上杉達也と上杉和也、そしてその幼なじみの浅倉南。三人は幼い頃から仲良く育ってきたが、思春期にさしかかりお互いを異性として意識し始める。
何をやってもまじめな優等生の和也は野球でピッチャーとして頭角を現し、母校の野球部を甲子園へ連れて行けるのは彼しかいないと言われていた。
一方、兄の達也の方は、何一つまじめにやらずフラフラしていて周囲をあきれさせる。彼もピッチャーとしての潜在能力を持っているというのに……。
甲子園が目前となったとき、あることが起こって達也は野球で南を甲子園に連れて行く、と決心する。人と争うことが嫌いな達也は、南のために初めて本気で他人と勝負する。

・その1
私にとって、(国語の現代文の授業的な)読解がもともとむずかしいのがあだち充で、さらに、私の知るかぎりあまり論じられないのもあだち充である。
かつて「青春もの」というジャンルがあった。「恋愛もの」ではなく「青春もの」である。青春に至高の価値を見出し、その時期に立ち現れる思春期の諸問題の価値を、「それも青春だ!」と高らかに持ちあげる。
まあひと言で言ってそういうジャンルで、60~70年代に隆盛した。80年代にも人気があったが、この頃は同時に「青春もののクサさをおちょくる」ということも同時に行われていた。

もちろん、現在にもあることはあるが(とっさに思い出すと映画「スウィングガールズ」とか)、「青春だから、青春なんだ!」みたいにあまり何も考えず謳歌するようなものは減った。ストーリーが巧妙になってくると、見ている方も「これは青春ものなんだなあ」なんて意識を忘れてしまう。
まあ、「浸透と拡散」したんだと思う。

「青春もの」というジャンル、戦前から「あゝ玉杯に花うけて」なんて小説もあったし、武者小路実篤作品にもクサい「青春もの」のにおいがするし、田中英光の「オリンポスの果実」なんてのもあったが、恋愛にからめた今に通ずる「エンタメジャンル」としては、戦後民主主義的教育、具体的には男女共学が始まったことに影響を受けて確立されたのだろう。
共学高校からイメージされたヒット曲「高校三年生」が1963年、青春ドラマの先駆け「青春とはなんだ」が1965年だから、それ以前にも似たようなものはあっただろうが、「学園青春もの」のフォーマットとしてはこの頃からと思われる。

・その2
かつてはあだち充もそうした「青春もの」を描いていた。というより、「ナイン」とか「夕陽よ昇れ!!」とかは、原作者のやまさき十三のテイストだったのだろう。
私が覚えているのは「「夕陽よ昇れ!!」くらいなのだが、「難病もの」の要素も入っているし、間接的に少年少女がセックスするところまで描いてしまっているあたり、なかなかグッと来るものがある。

ところが原作からはずれてから、正直よくわからなくなってくる。「陽あたり良好!」にしても「みゆき」にしても、どこか「真剣さ」をはぐらかすようなところがある。それは「ダサい」からではなく、登場人物たちが奥ゆかしいからなのだ。軽々しく、愛だの恋だの真実だのと、言わないのだ。
こうした風潮は、80年代特有のものだった。だから、あだち充に誤解が生じる。
とにかく、時代は「夕日に向かってバカヤロー!!」って叫んだりすることが、どうしようもなく恥ずかしいと思われるような感じになってきたのだ(「スクール・ウォーズ」が大ヒットしたのも80年代ではあるんだけどね)。

そんなわけで70年代後半から80年代後半くらいまでか? 少年誌にあいついで「ラブコメマンガ」が載り始める。
そのノリはどこか軽く、確かに「青春もの」の重みも根底に残してはいるのだが、あくまでも「軽くあること」が最大の目的であるかのように思われた。

このような現象が、70年代からの時代風潮の反動であることは明らかだろう。
70年代半ばくらいまでの学生運動は、ナイーヴな若者たちを抑圧したらしい。「社会問題より雨が降ったから傘の方が重要」と歌った井上陽水の「傘がない」が1972年、小さな幸せが壊れるかもしれないと歌ったかぐや姫の「神田川」が1973年。
この頃の「優しさ」は、軍靴の響きや学生運動の騒乱の中で踏みにじられるかもしれない、という恐怖に常にさらされていた。
異論があるかもしれないが、70年代終盤から80年代初頭の「ロリコンブーム」も、「優しさ」の象徴であったように思われる。オトナ社会の抑圧によって簡単につぶされてしまうもの……その象徴が「少女」だったのだと思う。

・その3
閑話休題。
同時期の少年ラブコメでも、「キックオフ」は快楽主義なのである(もちろんそれが悪いことだとは言わない)。
あるいは「胸さわぎの放課後」は、あだち充よりもっと泥くさい。というか性に対する欲望を、あだち作品ほど隠さない。
あだち充作品はどうか。
「タッチ」に限って言えば、「個々人の優しさゆえに、こじれる物語」というのが当初のテーマだったはずだ。

達也、和也、南、だれもが優しい。まぁ二人に思わせぶりな態度をとる南ちゃんはちょっと罪深いが、それが思春期に子どもから少女になっていく過程での迷いである、ということはきっちり描かれている。
和也は三人の中でいちばん、南に対する気持ちを隠さないが(甲子園に行けたら「プロポーズする」とまで言っている)、それにしても達也に対する微妙な遠慮などは、丹念に描かれている。
この中でいちばん「優しい」のは達也だ。作中で、彼は「勝負で勝とうと思うよりゆずってしまうので個人競技には向かない」、「しかし集団プレーでは、他人のためにがんばろうと思うので実力を発揮できる」というふうに評価されている。
こんなに優しかったら、社会に出たときどうするんだと思うが、達也にではなく和也にだが、南が「そのままでいると、長生きできないよ」とまで言っている。

達也が当初ボクシング部に所属したことは、あまり深読みすると足元をすくわれかねないが、彼がボクシング部で「個人で戦う、自分ががんばらなければ確実に負ける」ということを学習したことは、物語としてのつじつまは合っている。

80年代の軽い、優しさの時代、もはや「優しさ」を抑圧するものなんか何もないと思われた時代でも、「恋愛」においては自分を出し、他人を押しのけないと決して好きな人の心を得られない。そのジレンマが残ってしまった、という指摘が「タッチ」の最大の面白味だろう。

「死者の和也をライバルとする」というのも、たとえば「あしたのジョー」の力石の呪縛のようなものではなく、むしろ
「作者が直接対決をはぐらかした結果」だと、自分には思えてしまう。
少なくとも単行本で12、13巻くらいまで、作者は欲望をむき出しにして直接対決することを、相当ダサいと思っているように感じられた。それこそ「青春もの」によくあるように、雨の中殴り合ったり、スポーツで「勝った方がだれそれにプロポーズできる」という権利争いをしたり、というのはかっこ悪いと思っていたのではないだろうか。

・その4
だから、単行本の12、13巻あたりで、監督代行の柏葉英二郎が出て来て猛特訓を始めたときは、本当にがっかりしてしまった。
「優しさゆえに自己実現がはばまれる世界」を描くなら、このような悪意をもったキャラクターはいらないだろう(実はいい人、みたいな描写もあるが、同じことである)。
優しい人だけの世界に、悪意を持ったキャラが入ってきたら好き勝手にふるまえるに決まっている。これを読んで思い出したのが、実写版「セーラームーン」に中盤から登場する「黒木ミオ」である。こちらも悪意のかたまりという設定で、根っからの善人であるうさぎを翻弄したが、そりゃそうでしょうね、という感想しかなく視聴をやめてしまった。

まあ一般的にもっと大事なのが、それまでの雰囲気を捨てて、ひと昔前の「スポ根もの」に完全にテイストが戻ってしまったことだろう。読者の要請でそうなったのかもしれないが、このために「タッチ」は本当にフツーのマンガになってしまった。
ウィキペディアでカンニングしたら、達也たち野球部員は、最終的に柏葉監督を受け入れたようだが、「優しさで他人を受け入れる」作品なんて、本作以前にいくらでもあったのである。
「優しさゆえに人が素直になれない」というジレンマこそ、描きとおすべきではなかったのだろうか?

とにかく柏葉監督に関しては、おそらく「画面に華がとぼしいから」くらいの理由で浅倉南を新体操部にした、それくらいの気持ちで「猛特訓でも入れよう」と思ってテコ入れしたのがミエミエで、本当にガッカリした。

まさに、このこと自体が「優しさだけで世の中をわたっていくのは不可能」ということを体現しているのではないだろうか?

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