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【雑記】・「クラシックゴーストライター事件」あるいは世の中そんなに単純じゃない

事件そのものについては、各自調べてほしいが、今回の事件に対する人々の反応について考える。

・その1 「物語」問題について
ツイッターを見ていてあれれ? と思ったのが、今回の事件について「人はふだんから物語を消費している」というもの言いにひっかかりを感じている人がけっこう多いということだ。

反発の意味がよくわからない。それは「純粋な『楽曲』というものが存在して、それを見抜けなかったやつがバカなので、物語なんていう言葉でごまかすな」ということなのか?
よくわからない。

「物語」を「消費」する、というもの言いが流行ったのは、80年代後半から90年代初めくらい。大塚英志がよくそういう言い方をしていた。
これは、リリースされた「芸術作品」が、「個人の内面から湧き出て来る何か、あるいは天才のもとに降りて来る何か」で成り立っている、ということを前提とした評論態度に対するアンチテーゼとして形成された言説だ。
80年代には、物語を「機能」として評価することが流行ったのである。

そこには、高度消費社会では「芸術作品」も必然的に分業化されていく、ことに言及しなければ、という思いがあったろうし、それを見すえたうえで、作者個人の内面を掘り起こそうという試みもあっただろう。

こうした「物語」解釈として、いちばんわかりやすいのはセックス、エロについてだろう。
セックスは単なる性交のことではなく、その周辺にはほとんど無限といっていい「物語」がまとわりついている。
現在ではあまりにも「性癖」とか「フェチ」という言葉が当たり前になってしまっていて、多少それが見えにくくなっているだけだ。

逆に言えば、「物語にこだわったセックスは異常である」という観点に立つこともできるが、それはまた別の話である。

で、例のゴーストライターの件でも、「耳が聞こえない作曲家が絶対音感で曲を書いた」という物語が人気に大きく作用したことは間違いない。
そして、問題は「そういう視聴態度が正しいかどうか」である。

たとえばアイドル楽曲の場合、単純に言って、ブスな子の曲を聴いてみたいと思うだろうか?
まず思わない。これだって「物語」である。

だが、コトはそう単純ではない。
この件は「その3」に書く。

・その2 「HIIROSHIMA」問題、あるいは曲のタイトルについて
「HIIROSHIMA」とタイトルに付けたから売れたなら、なんでも「HIIROSHIMA」ってつければいいじゃないか、という皮肉をネット上で読んだ。
私は、ここまでシニカルになれない。
被爆者(と、その周辺の人たち)の怨念を、軽く見積もりすぎているからである。

さて、「HIIROSHIMA」というタイトルは後から付けたものらしいが、インストゥルメンタルの場合、それで成立してしまうという「弱み」が、根本的にある。
ちょこっと調べたら、クラシックには無味乾燥な番号だけの曲名などがあるが、本来はそっちの方が正しいのだろう。

曲にはほとんど「タイトル」が付いている。だがこの「タイトル」がくせもので、それは曲の鑑賞に非常に大きなバイアスをかけることになる。
「水」でも「光」でも「闇」でも「平和」でも「愛」でもいいが、そうタイトルを付けると、そうとしか聞こえなくなってしまうのだ。
これは「HIIROSHIMA」にかぎったことではない。
別の言い方をすれば、佐村河内氏は「タイトルをつけかえても、曲は成立する」という盲点を突いた、とも言える。

・その3 障害を持った人の表現について
今回の件で、いちばん問題なのはこのあたりのことではないかと思う。

ネット上では、「障害者が書いた曲(だと信じていた)だから、とありがたがっているやつがバカ」という意見もあるが、私はそうも言いきれない。

佐村河内氏は、「耳がまったく聞こえず、絶対音感で曲を書き上げる」という触れ込みだった。
クラシックにうとい我々は、「絶対音感のみで交響曲を作曲できるのか」ということ自体を知らない(他に例はあるのだろうか?)。
もしかしたら、できないのかもしれない。

言わば、そうしてつくられた楽曲は、もはや「普通の曲」ではなく、うまい言い方が思いつかないので誤解してほしくないが、「曲芸」的な要素がある。
「曲芸」だと言っていたものが、「曲芸」ではなくタネがあったのだとしたら、それはやはり、聴衆をだましたことになる。
だがそのすぐ後に、聴いていた側は、「あなたはこの曲を曲芸として聴いていたんですね?」と糾弾されてしまう。
そんなややこしさが、この事件にはある。

ちょっと前に、実話をもとにした、「サメに片腕を食いちぎられた少女が、サーファーとして復帰する」という映画をやっていが、「佐村河内守」の曲には「そんな感じ」が「ふれこみ」として、確実にあった。

サーフィンや、その他のジャンルでもそうだが、スポーツは「結果」がデータとして出て来る。
このために、身障者スポーツはまだ、今回のようなややこしさからは逃れている。

だが、「結果」が数値化して出て来るわけではない芸術面では、今回のようなややこしいことになってしまうのだ。

たまに公共の施設で、障害者の描いた絵などの展覧会が開かれることがある。
この会の意図は、いろいろあるにせよ、メインは「障害者だってここまでできるんだ」というアピールにほかならないだろう。
「作品本位だよ、それだけだよ」とうそぶける人は、こうした展覧会も全否定できるのだろうか?
自分には、とてもできない。

なお、騒動そのものについては、
またS氏騒動・長文多謝(隠響堂日記)を初めとする「S氏騒動」のエントリが、どれも非常に興味深いのでご参考に。

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