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【ネット】・「冥福祈り問題」

「ツイッター上での『ご冥福お祈り』問題」(世界は数字でできている)

「『こいつら三沢光晴の思い入れないくせに、何をご冥福お祈りしますだ!』って日記がどんどん上がってきて、腹が立ってmixi止めたんだから」

前からこのあたりのことについて、ちょっと疑問だったので、思ったところを書いてみます。

私も、有名人が死んだときについいろんなことが頭に去来するが、自分では書かない主義ではある。
人の死というのは、その時点でその人物の人生を帰納法的に振り返ることが可能になるということ。別の言い方で言えば、「物語」として語りやすくなるということだ。
たとえば、あるアーティストが死んだとき、
「彼の死に際も、彼の作品であるナントカを思わせた」
なんて書けてしまう。
だが、人間の死は事故死であれ老衰であれ、その死を迎えるものにとってはいつだって突然だ。
それが、死を迎えたとたんに、「突然終わったもの」に対して解釈を加えることは、よほど慎重にやらないと書く側の「うまいこと言ってやった」という「技術」が先に立って、嫌味になる。
だから、あまり書かないことにしているのだが、

それと「ご冥福をお祈りします」が、「本当に冥福を祈っているのか?」という問題は、また話が別だ。

では、我々が現実の世界で、「あまり付き合いはないがしがらみでどうしても葬儀に行かねばならないような状況」のとき、本当に「冥福を祈っている」だろうか?
別に祈っていない。

そもそもが、葬儀とか弔電とかは根本的にそういうものである。何も「心の底から冥福を祈っているものだけ、葬式に参加してよい」といったルールはない。
ネットではそれが可視化されやすい、というだけの話である。

「みなし公人」という言葉があるが、ネットでは「自分にとって多少なじみのある有名人」は、その関係性において「みなし親戚」と言ってもよい。
有名人が「そんなの知らねえ」と言おうが、一般人は彼に親しみを持ってしまっているし、そもそも有名人というのは「親しみ」をふりまく職業ではないか。
したがって、ネット上では有名人の死に関して、「ご冥福を祈りたくなる」気持ちがわいてくるのは、むしろ当然である。

「ちょううどいい塩梅でチヤホヤしろ」と言われても、それはムシがよすぎるというもんである。

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