【小説】・「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」 村上春樹(2013、文藝春秋)
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多崎つくるには、高校から大学1年くらいにかけて、男二人(アカ、アオ)、女二人(シロ、クロ)の4人の親友がいた。
つくるを含めたこの五人グループには、完璧な調和があったかに見えた。
だが、ある日突然、つくるはグループからの追放を、他の4人全員から言い渡される。理由はわからない。
以来、つくるは友人らしい友人、恋人らしい恋人をつくれず三十六歳になっていた。
この頃、彼は沙羅という三十八歳の女性とつきあい始める。沙羅は、つくるとの雑談の中から、彼が学生時代に親友グループから追放され、しかもその謎を現在まで解明していないことを知る。
沙羅は、つくるの対人的な距離の取り方に問題を感じ、「かつての親友グループをたずねて回り、真相を理解するべきではないのか」と強く提案する。
こうして、多崎つくるは過去の親友たち一人ひとりに会って行く、という「巡礼」をすることになる。
一読、なんだつまんねえな、と思っていたのだが、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。(感想・考察・謎解き)(ネタバレあり)を読んだら、なるほどそうかもしれない、と思うようになった。
・その1
まあ、リンク先のすべての推理が正しいかどうかは別として、「沙羅は何者か」という予想は、当たっているのではないかと思う。
村上春樹の小説には、主人公を冒険に導く、謎めいた女性がよく登場する。
彼女たちには名前がなかったり、その存在感がとても幻想的だったりする。
ところが、沙羅というのは容姿や職業、性格などの描写がかなりしっかりした「リアルな」人物だ。
しかし、彼女は多崎つくるが「過去に起こった出来事」を知ってわだかまりを解決しないかぎり、これ以上付き合うことはできない、と言い出す。
ぶっちゃけて言えば、「あなたが自分の過去と対決して人間的に成長しないと、セックスしないわよ」と言っているわけで、こういう一種の「交換条件」を出してくるような女性は、ほとんど村上春樹作品には登場しない。
本作は謎を解明して行く話だが、そのきっかけとなった沙羅の存在に関しては、読者は「多崎つくる、グループ追放の謎」にひっぱられて、つい追究を忘れることになる。
これは、けっこうよくできたミスリードである。
なお、「女性の浮気に男が嫉妬する」という描写も、村上春樹作品ではあまり見られない気がする。
この不自然さも、謎解きのヒントとなっている可能性は、否定できない。
……というわけで、一読したときよりも先のサイトを見てこの小説に興味がわいたことは事実だが、こうした「謎」を重層的に提示する作品の場合、いちばんネックになるのは「読者が深いところの謎を掘り出したい、と思うほどの作品のクォリティ」なのである。
しかしどうも本作、村上春樹の手クセで書いた印象が否めない。すべてがどこかで観たようなシーンだし、会話だし。
もしかして、最後の「多崎つくると沙羅との対決(?)」は、本当は用意していたのではないか? それを切ってしまったから、なんだか消化不良感が出てしまっているのではないか? と感じてしまう。
・その2
以上、本作は「推理ものである」という前提で感想を書いた。以下では、「そんな謎の解明は二次的な問題である」という前提で書いてみたい。
「人生の不条理さ」に翻弄される人間、を描く小説というのは数多いし、その「不条理さ」が、「だれも悪くないのに、何か『業』のようなもので運命的にふりかかるものだ」とする小説も多い。
しかし、どうも村上春樹は、一見穏当な文体の裏に、かなり明確な「敵」を設定しようとしているように思える。
ある時期まで(「ねじまき鳥クロニクル」あたりまで?)村上春樹は「巨大な敵とガチンコで戦おうと思ったら、敵はどこかへ消えてしまうか、決定的なズレが生じて、主人公の戦い方では戦えない、という空虚感におちいる」と言った感じの結末の作品を多く書いた。
「1973年のピンボール」や「羊をめぐる冒険」、短編だと「パン屋再襲撃」などには明確にそういう部分が現れている。
だが、前述のこのブログで書いてあるとおり、村上春樹は「根源的な悪」をかなり具体的に特定するようになる。「1Q84」などでもそれはものすごく明確だった。やってることは「ブラックエンジェルズ」ですからね、あれは。
この辺が、昨今の批評における「敵の喪失」というか、「巨悪を倒すという物語」のリアリティ喪失の指摘、とは対立する点であると思う。
「ビッグブラザー」と対比させて「リトルピープル」という邪悪な存在を提示しているが、「何らかの悪」がこの世に存在する、と規定する点では、変わらない。
村上春樹の本当の欲望は、80年代にエンターテインメントにおいて非常によくあった、「ファシズムを押しつけようとする悪(いわゆる「鎌倉の老人」的な)を、銃器や拳でボッコボコにする」ことなのじゃないかと思う。
しかし、そのようなロマンはすでに70年代に陳腐化している、と彼は80年代の時点で考えていた。
だからこそ、ある種の村上作品は、「70~80年代的なアクションもの」のストーリー構造を、照れながら、ベタにおちいることを恐れ、慎重に迂回して、そろそろ読者も飽きてきた頃に、そっと結論を下す。あるいはやっぱりはぐらかす。
本作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」も、やはり最後をはぐらかす。
しかし、書かれない結末は決まっている、と私は思う。
つくるは、シロをレイプした者を探し出して凶銃・ワルサーP38でブチ殺し、
次にシロを殺害した犯人も、凶銃・ワルサーP38でブチ殺し、
すべての謎を知っていた沙羅も、凶銃・ワルサーP38でブチ殺す。
でもそれはできない。村上春樹的には、それだけはやっちゃいけない。
まあ、村上春樹はこの「自分ルール」にしたがって、「ベタな展開」をどうやって回避し、結末に持って行くかというゲーム(軽い、という意味ではなく)をしているのではないかと思う。
そして、重要なのはそれが読者にとっても面白いゲームなのか、ということだ。
本作は、どうだろうか?
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