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【評論とは】・「なるほど、こうしてオタクは変化する、そして無になる」

なんとなく、せまい文化圏の中では、所属コミュニティというかクラスタの中で「オタク」が天下取ったみたいな感じになっている。
その最大最強の敵は「リア充」らしい。
それで定期的に嫁がコレクションを捨てたとかなんとかであーだこーだ。

で、そういう「せまい世界」におけるオタクの立ち位置について、思いついたことを書いておく。

・その1 ルサンチマンの欠如
現在、三十歳くらいまでのオタクの人たちにいちばん感じるのはこの「ルサンチマンの欠如」だ。
私は別に、それはいいことだとも悪いことだとも思っていない。
単に世の流れである。

「いやそんなことはない、リア充という言葉があるじゃないか」と言う人がいるかもしれない。
だから、そこはもう「オタクか、オタクじゃないか」は、少なくとも都市圏では関係ないのじゃないか。
単に「異性にモテる/モテない」の違いがあるだけなのでは。
その方が、逆に「リア充」という言葉が浮上する意味が理解できる。

もしかしたら、妄想世界ではすでに満ち足りている人が「リア充」と言う言葉を使っているのかもしれない。
妄想世界では完全に楽しいから、よけいに「リアルに充実している人」がまぶしく思えるのかも。

90年代前半くらいまで、そこまで言いきれなかったと思う。
「妄想世界」を選択した段階で、すでに快楽と苦痛がともなっていたと思うのだ。
「パンクスになるために、アニメグッズをぜんぶ捨てた」っていう話みたいに。

また、「スクールカースト」がよく話題にのぼるのも、相対的に「オタク趣味」が昔よりは被差別対象となっていないということなのかもしれない。
「スポーツができて、社交的で……」という人間はどんな集団でも限られてくるし、コミュニケーションスキルは、「オタクか、そうでないか」とはまたちょっと別だからだ。

そうなると「オタクだから」というひがみ根性はなくなるし、それで異性との接触に不自由しなければ、何も悩んだりすることはなくなるだろう。

・その2 政治との完全決別
実際には世論の右傾化と左傾化の二極分化、という現象があると思っているが、それとオタクはまったく関わりがなくなってしまった、と考えている。
もともと、膨大な資料やコレクションに囲まれる生活を欲するオタクは、「現状肯定」的思想が強かった。それは70年代後半からそうだった。
だが、70年代後半から80年代前半くらいまでは、「現状肯定」そのものに根強い抵抗があった。ぶっちゃけて言えばそれは新左翼的な思想である。
「オタク」は、80年代中頃くらいまで、そうした「敵対した思想」とも、ときには積極的に、ほとんどの場合は「無視する、スルーする」というかたちで戦った。

細かく観て行けば、オタクは押井守や宮崎駿や高畑勲などの「左寄り」の人たちの創作物を愛でつつ、本人は黙して動ぜずという不思議な政治的態度をとり続ける存在なのだが、まあ大きく観れば、保守思想と相性がいいのである。

ところが、もはや「オタク趣味」がその人間の政治思想的態度を体現することはなくなってしまった。
それは「その1」で書いた、ルサンチマンからの解放と同じ現象である。
別に、だから何だというと別になんだっていいのだが、だが現象として、今はそうだということが言いたいのである。

何もかもから解放されたオタク趣味は、単なる「趣味」となる。

それは屈託がなくて結構なことだが、宮崎事件から数年を経た90年代半ば、「世間をおれたち色に染めてやろう」という不遜とも言える態度も同時に消失した。

後は、美しい、よくできたアニメ作品や特撮、ゲームが残るのみである。

そんな静寂が、オタク界を包んでいる、気がする。

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