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【評論とは】・「萌え絵のおっぱいは偽おっぱいか」

へー、偽おっぱい騒動(騒動?)なんてのがあったのね。なんか「萌え絵のおっぱいの描き方は間違ってる!」みたいな指摘があったらしい(興味のある人は、独自に検索してください)。
「AKBファンは彼女たちがスカート履いてるからファンなんだろう」と言い放ったアイボのデザイナー並みの人が、まだまだいるんだなぁと。
まあ、言うのは自由なんだけど、「知性は人間を進歩させない」ことを証明しているようで、悲しくもある。


思いついたことを、いくつか書いておく。

・その1
基本的に日本のマンガは「デフォルメのアート」ではないんですよ。実は。
「萌えのおっぱいは偽」に対する反論の中には「浮世絵から続く日本のデフォルメの歴史が」みたいなことを書いていた人もいるけど、日本のマンガは浮世絵とはほとんど関係ないし、ましてや鳥獣戯画とも関係はない。

もちろん、西洋絵画的なデッサンを経て、西洋絵画的な方法でマンガを描いてる人もいるかもしれないけど、全体像としては日本のマンガは「リアルをデフォルメさせたものではない」。

というのは、昔のマンガ入門には、「デッサン画」→「略画」→「マンガ」という流れで「実物のデッサンをデフォルメしてマンガはつくられる」と書いてあった。
んだけど、実はそれはウソなわけ。
だって、「略画」ってなんですか? 「略画」って、それだけ単体で観たことある? せいぜい、昔の「年賀状イラストアイディア集」とかでくらいしか観たことないんじゃないですか?
デッサンから略画を経て、それで、たとえば昭和40年代のマンガはなぜみんな手塚的な絵柄に着地するわけ?

そんなわけないんだよ。手塚のまねは当時、みんなやっていた。
むしろ、手塚のまねから独自の絵柄を模索したわけで、ゼロから実物をデッサンし、そこから「自分の絵」をつくりあげていった人は、少なくともエンタメ系のマンガ家としてはものすごい少なかったし、今でもそんなに多くはないと思うよ。

というようなことは、確か大塚英志が指摘していたはずだけど。
「抽象画の有名画家は、みんな本当はものすごい緻密なデッサンを経て、ひんまがったような顔を描いてる」って、おれも教養コンプレックスのある親から教わったけど、「アートの見方」の「方法」を度外視したら、「それは大変ですね」「それがアートのルールなんですね」としか言いようがない。
それはそのルールの中で、勝手にやってくださいとしか言いようがないんだよね。

日本のマンガの面白いところは、むしろそのように必ずしも「実物デッサン」を崩して、到達している「わけではない」ことにある。
それが、西洋絵画の素養のある人には苦々しく映るのかもしれないけど、そんなの大きなお世話だよね。

・その2
このような、「偽おっぱい」という、まぬけな、とんちんかんな批判の隙をつくってしまうのは、日本のマンガ側にも問題がある。
というのは、まず第一に、「マンガも絵画の一種だ」というプライドが、古いマンガ家の人の中には強い。
だれが言ったか忘れてしまったけど、かなり古い本の中で、「馬の逆立ちが描けないと一人前のマンガ家ではない」と主張している人がいた。
実際、馬は逆立ちなんかしないわけで、それを「リアルに」描くには相当のデッサン力が必要なわけだけど、でも、それが「マンガ」に応用できるかというと、ちょっと疑問ではある(例に出して悪いが、高橋陽介の描く身体のバランスでも成立してしまうのが「マンガ」なのだから)。

実はマンガは西洋絵画の方法、習得体系とはほとんど関係がない。どんな偉大な抽象画家が、どれだけ緻密なデッサンをしようが、それはマンガにとっては何の関係もない、ってわけ。

・その3
次に、マンガの絵柄の「ジャンル内ジャンル」である「萌え絵」について書いておく。
まさしく批判の矢面に立ったのは、この「萌え絵」だと思うからだ。

「萌え絵」の元祖というか始まりは、70年代の終わり頃、アニメファンが「アニメ的なお約束をマンガに持ち込もうとした」、「アニメ絵」から始まっている。
アニメの絵は、アニメとして動かさなければならないからある程度のしばりがあるわけで、それはマンガとは直接関係ないが、それを引き写そうとした。

たとえば、マンガの「あしたのジョー」の矢吹ジョーは、正面を向いたときどんな髪型になっているのか?
マンガであの髪形がデザインされたとき、そんなことは考えられもしなかっただろう。
アニメでは当然そこをうまくごまかしているが、「あしたのジョー」がアニメとして企画されたなら、あのような髪型にはならなかったのではないか。
要するに、360度、どのように動かしてもいいような、やや過剰とも言える「立体的であること」に対するこだわりが、70~80年代の「アニメ絵」にはあった。
(過剰に「立体」を重視したということで言えば、大友克洋の絵柄も「アニメ絵」に多大な影響を与えている。)
「肌影」も、スクリーントーンが安価になったことによって、アニメ的な付け方が可能になった。

・その4
もうひとつ、ここがめんどくさいのだが、「アニメ絵」の潮流の中で、「女の子をかわいく描く」コードが生まれた。
これは「アニメ絵」というパラダイムの中でだけ通用するコードで、80年代には批判もされた。
批判の理由は、「模倣して再生産しているだけではないか」ということだった。
たとえば「姫トラ」みたいな安直なトランスミュージックが、どれもこれもみんな同じに聞こえることを連想してもらえればいい。何から何まですべてが決められていて、しかもそのコードは、「みんながやっているから」という理由でしかない。
それは「萌え」という言葉ができてからも、同じだった。

驚いたときに「どこでもいっしょ」のトロのように目がグルグルっと雑に書いた丸になるのは、それが「流行っているから」という理由しかない。
純粋絵画を愛でたり研究したりしている人には、そういうところがカンに触るのかもしれないが、これはもう「そういうものだからそういうものなんだ」としか言いようがない。

こういうことはマンガ内にも批判はあるだろうが、逆に言えば「萌え絵」は、それこそ「浮世絵」みたいな、他にはない「形式」を獲得しているわけで、ここまで書いて思うがやはり「西洋絵画」とは何の関係もないのである。

「描くには、特定のコードに従わねばならない」ということで言えば、萌え絵は、(歴史的には何の関係もないが)浮世絵と同じである。

さあ、それがわかったら、みんなで好き勝手におっぱいを書こうね!!


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