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【書籍】・「『おたく』の精神史 一九八〇年代論」 大塚英志(2004、講談社現代新書)(自分のウェブサイトから改稿して転載)

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内容 amazon(「BOOK」データベースより)
ロリコンまんがの誕生、岡田有希子の自死、キャラクター産業の隆盛、都市伝説ブーム、フェミニズムの隘路。現代日本社会の起源を探る試み。

他の人はどうだか知らないが、80年代中盤~後半には、個人的にさまざまなオタク的事象や物件を説明してくれる人を望んでいた。
しかし、周囲にはそういう人はいなかった。私の認識では、当時、上の世代にも下の世代にも届く言葉で「おたく論」を商業出版していたのは大塚英志と、後は浅羽通明くらいだった。それと橋本治かな。

本書は、その頃からの著者の興味をそのまま90年代後半に語り直したといった趣のもので、ものすごく生意気な感想を言えば、語り直したことによってその主張と表現はより老獪になったように思う。
15年前に「こりゃいくら何でも言いすぎだろう」とか「単なる当てはめなんじゃないの」と私が感想を抱いた部分にフォローが入っていたりして、著作として「うまく」なっている。
それでいてリアルタイムでの若書きや勇み足も口をぬぐわず正直に認めているところが、「老獪」と表現したゆえんだ。

・新人類とオタクの「内面」
内容としては個人的に「新人類」に対する文章がいちばん面白かった。
80年代前半に「新人類」な人々がやっていたのが「擬態された運動」で、それの背景には左翼革命的な考えがあって、消費社会の実現による階級差の消失という思想があって、それの親玉(親玉という表現はしてないが)が糸井重里であった、というのはたぶん本当のことだろう。

糸井重里がインターネットに乗り出したときに言っていた「好みのジーンズをつくりたいと思ったとき、ネットで知り合った製造、流通、販売のプロたちが今までになかった自分たちの好みのジーンズを完成させる」といった例は、まさにそんなユートピアを連想させるから。

しかし、「新人類」と「おたく」が男性原理を隠蔽していた、というのはどうかなと思った。これは大塚英志のおたく論全般に言えると思うんだけど、評する対象であるおたくなり新人類なり女子高生たちを、あまりに「主体性」があると無前提に決めつけているように感じる。

もっとも、彼にとってはそれは当然といえば当然で、今まで大塚英志のキーワードって「通過儀礼」だと思っていたんだけどそうではなくて、本書を読むと「内面」だということがわかる。
おたくおたくと言いながらも、彼の考えの基盤は「内面描写」に固執した24年組の少女マンガにあり、あくまでも対象の「内面」から切り込んでいこうとする批評スタイルは昔から変わっていない。

「新人類」と「おたく」と男性原理ということからすると、隠蔽も何も、そんなことに考えも及ばなかったというのが大半だったと思う。「すべての価値は等価だ」と考えていた「新人類」の大半の人は自分は「思想家」だとは考えてもいなかったし、したがってフェミニズムにも興味なかったんじゃないかな。で、「等価だ」と考えるのも当然自分の都合のいいような等価でしかなかったから、何も考えなかったのも当然だと思う。

「おたく」側にしても、80年代当時のマンガを読めばわかることだが、男性原理という観点から慎重な検討が加えられた作品などほとんど存在しない。いや少女マンガだってそうだったかも。

何が言いたいかというと、「ある問題を検討してこなかった」とか「隠蔽してきた」と糾弾されてしかるべき立場の人、というのは、逆に言えば「全般的に気配りができていなければならない」人だということで、そういった「自覚」がめったやたらと不問にされていったのが80年代という時代だったと思う(だから呉智英は「士大夫」という言葉を持ち出してきて、そのグダグダ状態を律しようとしたと記憶する)。
たとえば「女の子の前でエロ本を読む」ことがセクハラかどうかなんて、当時ほとんどの男が考えていなかったし、それは新人類がどうのというよりは、男性全般の問題だろう。

・アイドル論批判
同じことは、岡田有希子の自殺にひっかけた当時のアイドル論批判にも言える。ここでは「自分たちのイメージを『アイドル』として女の子に押しつけた」男たちが糾弾され、また押しつけられたイメージを演じるか、あるいは自殺かの二者択一をせまられかねず、自分の心情を語る言葉を持ち合わせいなかった当時の女の子の状況、みたいなものについて語られる。
もともと、私は宮崎勤にしろ酒鬼薔薇にしろ、特定の個人から社会問題を敷衍させて語る手法があまり好きではないのだが、ここでのアイドル論批判もほとんど言いがかりに近い(それは、特定世代に神聖視されている岡田有希子と、現在のグループアイドルの状況を比較してもわかることだろう)。
確かに言いがかりに近いのだが、何となく岡田有希子の心情を理解できた気になってしまうし、当時の男性原理の発露の問題としてもまったくないわけではないことなので、「老獪」と書いたのはそういう意味が含まれる。
「少女民俗学」ですべりまくった筆が、ここでは抑えられているし。「内面」からのアプローチが、面白い方向に転がっていった例だとは思う。

「内面」の問題は、他にも宮台真司がブルセラ女子高生を語ったときに「内面、自意識がない」とか何とか言ったこととも関連して語られていて、24年組にハマったんだとしたら大塚英志のイライラはわからないではないけど、それなら根本敬の考える「自意識」についてはどう思っているんだろうかという疑問は残る。

(大塚英志の、少なくとも90年代半ばくらいまでの著作では「この人は○○を知らないか、わざと無視しているのではないだろうか」という立論が非常に多い。そういう部分が極力少ないのが、本書のいい点なのだが。)

根本敬の著作に、確か自分の小学校時代の傍若無人な中年男性教師(理科室の冷蔵庫にビールを入れていて飲む、女性教師にはセクハラし放題、確か暴力もふるう)の「自意識のなさ」にある意味感動してしまうということが書かれていたと記憶する。
根本敬が「イイ顔」のオヤジを追っているのも彼らの「自意識(または自意識のなさ)」に興味があるはずで、それらは憧れの対象になりながらも同一化はできない、という複雑さ、別の言い方をすれば奥ゆかしさを持っていると思う。

しかし、大塚英志や宮台真司は人間には最初から「内面」とか「自意識」があるもの、と想定して物事を語っているフシがあり、宮台真司の女子高生論に至っては個人的には「何でガキの自意識なんか問題にしないといけないんだ?」と私は思っています。

・ちょっと何でもかんでも「不毛」だと思いすぎなんじゃないか?
……ということで、おそらく大塚英志がなぜいつもぷんぷん怒っているかというと、たぶん自分が読者対象としている「おたく」の内面とか自意識が最初から明確に見えてこないからで、私からするとそんなの当たり前だと思うんだけど、まあこの人にとっては「怒って当然」なんでしょうね。

ちょっとショックだったのは、大塚英志が「おたく文化」に対して「関わってるけど不毛だと思う」と明言していること(本書p320)。ちょっと引用が長くなるからしないけど。「関わってるけど不毛」というのと「不毛だけど関わってる」というのはぜんぜんニュアンスが違うと思う。
昔の彼には、自分が不毛な場に居合わせているのだという妙な居直りみたいなものは確かにあった。でも、もうちょっと屈折した愛情みたいなものが見られたけどなあ。なんか「不毛だと思ってんなら、やるなよ」とか思った。
しかし考えみれば、内縁の奥さんから「フリーの編集者なんて男の子の一生の仕事じゃない」と言われたとか何とか昔書いてて、それで浅羽通明から「だったらなぜそれを自分で『一生の仕事』に仕立て上げようと思わないのか」みたいなマッチョなことを言われてたけど、最初っから不毛だと思ってたらそりゃいやだろうなあ。
それに、論壇誌に書いてる理由も理解できるような気がするし。などと書いちゃいけないかなあ。

冒頭の話に戻ると、大塚英志を「おたく論」の代表選手の一人だと世間が認知しているかどうかはわからないが、たぶん完全に思想とか論壇寄りでない書き手として、外部向けの言葉を持って当初商業誌に登場してきたことは確かだ。
で、今思えばあんなに「おたく、おたく」と言っていたのに、大塚英志は24年組少女マンガが大好きで、文学を除けばたぶんそれがいちばん好きで、そこを立脚点にして語る人、であったというのは強調しておいていいと思う。

意見が違うとか何とかいう以前に、同じオタクライターでも、SF、ミリタリー、特撮、アニメ、といったところを出自にしている人とは明らかに文章の感触が違う。
あるいはファンジン出身者からアニメや特撮のムックをつくってきた人とも違う。

個人的には論の立て方がどうとか言うよりも、90年代半ばまでの仕事としては、大塚英志のおたく文化に対する「不毛さ」の感覚と、たぶん当事者ではないがゆえに落としていったマンガやアニメ以外の他ジャンルの人の発言、に思いをはせたりする。
そういう意味ではこの人はよくも悪くも代弁者であって、おたく自身ではないと思ってしまう。
それは、本書での岡崎京子に対する(正確に言えば、岡崎京子というマンガ家の成立に対する)熱の入れ方から見ても思う。基本的にこの人はマンガとその周辺プロデュース担当なのだなと。
(04.0324)

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