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・「さわやか万太郎」全10巻 本宮ひろ志(1979~1981、集英社)

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週刊少年ジャンプ連載。100年、男の子が生まれなかったという女系の一族・花見家に生まれた男、万太郎。彼は弱きをたすけ強きをくじく、スポーツ万能のスーパーマン。
さらに、逆に男系家族の松平家の美少女、五月との結婚を命ぜられるという、なんともうらやましい境遇なのであった。

さて、感想。

基本的には、アイスホッケー、野球、サッカーなどに次々に挑戦していくという「ハリスの旋風(かぜ)」パターンの学園もの。
ネットで調べると、本作の個々のスポーツへの挑戦がいかにムチャクチャか、ということへの言及が多い。まあ、ムチャクチャなんですけどね。

今読むと面白いのは、「勝手に女房をきどった美少女と同居する」という、現在でもオタク好きのするパターンが、オタクとは関係ないと思われる本作に見られること。
おくさんのもりたじゅんのアイディアだったのか、それとも当時、マンガ界全般で「こういうのは当たる」と思われていたのかは知らないが、まだメジャーシーンではオタク/非オタクが未文化であったことの証明にもなろう。

そう、本作を読んで感じるのは、まだまだ「男の子」が「男の子」でしかなかった時代の懐かしさだ。本宮のよ描く「ガキ大将」とは、子供たちを年齢別に輪切りにして、できるだけ類似性のある存在だけを「教室」に隔離して教育する方法とは、正反対のところに位置する。
しかし、かといって地縁・血縁にたやすく取り込まれる存在でもない。子供コミュニティ自身の自立性を問われたときのリーダー、それがガキ大将だ。子供コミュニティが、それ自体で自立しなければならないからこそ求められるリーダー像。大人は見守るだけ。

だから、そんなリーダーを70年代後半から80年代初頭の学園で生かすためには、舞台は(ガキ大将の敵となる)極度に抑圧的な管理社会か、(ガキ大将をバックアップする)リベラルな社会になるほかない。「さわやか」にお話を持って行くなら、後者にするしかない。
そのためなのか何なのか、本作では学園が極度にリベラルな場になっている。このあたりが保守・伝統を重んじる系の番長マンガと、本宮ひろ志を分ける要素でもあると思う。本宮の描く「ガキ大将」は、あくまでも野っぱらや路上の存在であって、どのようなかたちでさえ管理社会には向かないのである。

単行本10巻の、作者あとがきがなかなかいいので以下に全文、載せておく。私の80年代初頭に対する思い入れのせいかもしれないが、伝統・保守はおろか、うっとおしい新左翼的な考えのしがらみからも逃れた当時の「自由な感じ」が横溢していると思うが、どうだろうか。

(引用開始)
なぜ、読者のみなさんが、こんなにも万太郎に、熱い視線をそそぐのか考えてみるとき、大変なうれしさとともに、ちょっぴり、さびしさをおぼえる。万太郎は、ほんの身近にいるヒーローのはずなのだ。でも、読者のみなさんのそばには、万太郎のようなヒーローがなかなかいない、という現実。
かつて、ぼくのまわりには、万太郎のような男が、必ず一人や二人はいた。きたないケンカには、怒りのゲンコツで立ち向かい、弱いヤツには、気性に似合わないほど優しい。こんな男が、仲間にいることで、理由もなくワクワクし、武者ぶるいしたものだ。これはカビのはえた言葉ではないのだ。昔話としてしまいこむことは、絶対にできない。だからこそ、この「さわやか万太郎」を、みなさんに読んでほしかったのだ。
ぼくは力を信じる。瞬間を生きぬく力をだ! 万太郎が、男の存在感をかけてファイトするとき、ぼくのペン先から、熱い心意気が伝わってくるのだ。こればぼくと万太郎との力のぶつかりあい、し烈なたたかいだ。よく、作者と主人公は一体でなければならない、といわれるが、ぼくと万太郎との関係は、そんななまやさしい言葉ではいいあらわせないほど、闘志をギラつかせ、お互い、スキあればパンチをぶちこむような、瞬間のファイトなのだ。
そのたたかいも、今、おわった。万太郎もぼくも、勝ちほこることなく、お互いの肩をだいて、「よくやった!」と、長かったファイトを、ふりかえっている。
万太郎のたくましい後ろ姿が、未来にむかって歩きはじめた。でも、きっと、よりたくましくなった万太郎に会える日がくる。そのときは、またみなさんに、万太郎とぼくとのファイトをお見せします。ご愛読、ありがとうございました。
(引用終わり)

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