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【適当】・「思っていることを何度でも書きます」

このブログ、何も書かないのもナンなので、思っている、たぶん過去に書いたことを何度でも書きます。

80年代後半から90年代初頭にかけて、社会評論的な本を読むと、「70年代までの新左翼的な思想・運動から、ミヤザキ事件くらいまでのオタク的態度まで」を反省する動きがすごかった。
「すごかった」と書くと、一大ブームのように勘違いされてしまうがそうではなく、私が注目している人たちがいっせいにそう言い始めた、ということだ。

で、そういう人たちが次にどんなことを提示したかというと、「つまらない日常を我慢して生きて行こう!」みたいなことだった。自分は、最初は「そういうものかな」と思っていた。
ちなみに宮台真司の「終わりなき日常を生きろ」は95年の刊行だから、その5、6年前か。すでに90年代初頭まででそのようなことは言われ尽くされていた印象があるので、私は宮台真司には何の影響も受けていない。
しかし、80年代後半くらいから3、4年して、「そのような心がけで生きても、まったく面白くない」ということに気づいたのだった。

「つまらない日常を我慢して生きて行こう!」というのは、無敵の理論だ。
日常的なお説教レベルではなく、あらゆることを考慮しても、無敵なのだ。
しかも、言い出す側は、「何も行動しなくてもいい」というおまけつきである。こういうことを言う人は、たいていしっかりした仕事を持った人が多いので、それこそ毎日普通に生きていれば主張の実践となる。

そして、こういう人は、自分がどのように生きることに意義を見出せばいいかは、すでに知っている。だが、それを他人に伝えることができない。だからこういう言い方になる。

いや、ほんとにひどい。何も言っていないのと同じである。

それと、「自分はオタク的なものにハマりかけたが、いわゆるオタクにならないところでとどまりました」みたいなエクスキューズが非常にウザかった。
知るかオマエの「照れ」なんかは。

当時、こういうことを言っていた人は三十代前半くらい。オタク第一世代と同世代で、この世代の、オタクではない知識人・文化人のオタクに対する屈託には相当なものがあるようだ。
しかし、下の世代にとっては心底どうでもいい。

ちなみに89年に出た別冊宝島「おたくの本」では、「オタク当事者」の執筆者が、確か1割以下だった。
つまり、別冊宝島界隈に書いていた人と、当時だっていたであろうオタクライターとは交錯することがなかったということだ(交流があって書いていないとすれば、それはそれで興味深いが)。

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